4.
◇レイフ視点◇
夕暮れの光の海に街が沈む頃、俺はようやく帰路に着いた。整備された石畳の美しい大通りには、色取り取りの花々が飾られている。そういえば、もうすぐお祭りがあるって話だったな。確か聖花祭、だったかな。明日、ライラを誘ったら、そんな暇は無いと君は怒るだろうか。頭をぐるぐる悩ませながら一本郊外へ繋がる道の先、あの華やかな芳香を放つ花屋の角を曲がる。いつもの変わり映えの無い帰り道。
すると遠目に見える我が家の扉の前には人影が。どうやら大きな鞄を背負っている。
……誰だろう? 俺の家を知っている人間なんていないはず。
何だ?
一歩。
服は紺。あれは、……騎士装束だろうか。
一歩。
黒髪、……を左肩へ纏めている。
一歩。
段々と、その人間は視界の中で大きく、鮮明に解像度を上げていく。
あの、背の小さな眼鏡の女性。
……ソフィアだ。
「遅いです! レイフ君。待ち草臥れちゃいました」
ソフィアは俺を見つけた途端、嬉しそうにこちらへ手を振る。
「……どうしてここに?」
家を教えた覚えは無い。何故か僅かに悪寒が走り、少しだけ距離を開けたまま立ち止まる。
「お昼に言ったじゃないですか! 今晩は私がご飯を作って看病をしてあげます!」
君は意気揚々と、得意げな表情で距離を詰める。
「偶々昨日から準備してて、お肉も漬けてあるんですよ。あとはキャロットラペと、ジャガイモのガレットもさっき焼いてきました!」
そう言ってソフィアは腕に抱えたボウルを掲げる。
「……俺、ソフィアに家の場所教えたっけ?」
「それは、お礼がしたくて……」
回答になってない。どうやって突き止めたんだ?
「……やっぱり、私なんて、気持ち悪いですよね? ……ごめんなさい」
「いや! そんなことない! 嬉しいよ」
ソフィアの沈んだ顔を見て咄嗟に庇ってしまう。
「本当ですか!? ……嬉しい」
ソフィアは花のように微笑む。何となしに、どうやって家を知ったのか聞きにくくなってしまう。……まあ良いか。今回だけだろう。俺はソフィアの隣に立つと、扉の鍵を開けドアを引く。
「どうぞ」
左の掌を差し出し入室を促す。話しかけられた眼鏡の女性は、俺の右手が握る鍵からようやく目を離し踏み出す。
「結構、綺麗にされてるんですね」
ソフィアはソワソワ落ち着かない様子。
「どうしたの?」
「い、いえ。男性のお家にお邪魔したのが初めてて」
そう言葉にされてしまうと、何だか俺もむず痒い。そういえば、俺も女性を家に招くのは初めてだ。……いやまあ、厳密には招いてはいないのだが。
「キッチンお借りしますね」
そして引っ越して買ったは良いものの、一度も使っていなかったピカピカのフライパンが、終ぞ日の目を浴びる。
「すぐに準備しますね」
そうして君はそそくさと荷を解き、エプロンを掛けると手慣れた様子で料理を始める。
「何か手伝うよ」
俺はソフィアの隣に立つと、君は慌てて俺を椅子へ押し戻す。
「いいんです。私が、……レイフ君にしてあげたいんです」
そんな大した事はしていない。その感謝の言葉だけで十分にお釣が来る。そして暫し鼻歌に揺れるソフィアの後姿を眺めていると、彼女の袖を腕捲りした前腕には、まだ新しい妙な青痣が。嫌な予感が脳幹を氷漬ける。
「……ソフィア、その痣は?」
「え!? あ、これは、お見苦しい所を……」
「いやそうじゃない。……誰にやられたんだ」
あの先輩騎士達は君に近づいていない筈だ。ソフィアの話を信じるならば。
「え、え、え。ち、違います! これは私が勝手にぶつけただけで」
「隠す必要は無い! 誰にやられたんだ」
まさか他の人間が……。こんな腐った騎士団であれば容易に想像は付く。
「いえ! 本当に違います! 私よく色んな所に身体をぶつけちゃうんです……」
ソフィアは恥ずかしがっているものの、嘘を吐いている様子は無い。
「……そうか。なら良かった。また何か嫌な事が有ったらすぐに教えてね」
「はい!」
そして君は嬉しそうに料理を並べ始める。キャロットラペにはカッテージチーズとレーズンが和えられ、昨夜から漬け込んでいるという赤身肉は、ポテトフライを添えたステークフリットへ。我が家の昨夜余ったオニオンスープへ、バターとミルク、ベーコンを加えアレンジ。家で焼いてきたというジャガイモのガレットも香ばしい。先程までの様々な思考は、涎の分泌量と相反するように消失する。
「可愛い食器ですね」
食欲唆る料理を彩る、白を基調としたロココ調の可愛らしい食器にソフィアは頬を緩ませる。
「普通の食器屋さんが何処か分からなかったんだ」
王都に着いて二日目の、落ち着かない大通りを右往左往したあの日の自分を思い出す。
「ふふ。じゃあ今度買い物に行く時は、私が一緒に着いて行ってあげます」
いやそんな、何から何までして貰って良いのだろうか。
「あっ!」
「どうしたの?」
「ごめんなさい。……赤ワイン忘れてきちゃいました」
「そんなの全然大丈夫。家にもお酒は有るよ」
「うぅ……。折角奮発して高いの買ったのに」
しょんぼりと肩を落とすソフィア。
「じゃあそれは次の機会だね」
「……絶対ですよ!!」
一転して花のように笑顔を咲かせる。そして俺達は我が家に置いてある唯一のお酒であるシードルで乾杯し、食事を始める。
「美味しい!」
前菜へ口を付けた途端、リンゴ酢の爽やかさと蜂蜜の甘やかさが口内から鼻孔を突き抜ける。見た目はシンプルであっても、その奥には手の込んだ彼女の優しさが見え隠れする。
「……へへ。……嬉しいです」
君は恥ずかしそうに含羞みながら、ようやく同じく前菜を口へ運ぶ。
「ソフィアは王都が地元なの?」
先程の食器屋さんの話からすると、王都には詳しい様子だ。
「いえ、元は西の外れ、コルリアという小さな町の生まれです」
「引っ越してきたのは最近?」
「いえ、私小さい時に、王都の孤児院へ移って来たんです」
……孤児院。という言葉の指す意味は、そういうことなのだろうか。
「ごめん。変な事聞いちゃって」
食事を進めるフォークが止まる。
「全然良いんです! ……折角なら、少しお話してもいいですか?」
「うん」
ソフィアは少し瞼を伏せると、淡々とした口調で話し始める。
「親は、……両親は二人とも生きているんです。弟が二人いて、今でも四人で仲良く住んでいるはずです」
その声に憂いは帯びない。どこか割り切ったような、無色な落ち着き。
そして少しの沈黙。
「私、忌み子なんです」
心臓が跳ねる。
忌み子。
祝福者のその力は、必ずしもその全てが喜びに包まれるとは限らない。ただ周りへ害を振り撒くだけの祝福も存在する。吐息に毒の混じる者。触れた命を一輪の花へ変えてしまう者。目を合わせれば眼球を焼き切る者。そういった祝福、……いや、呪いを女神様より授けられた者を、この国では忌み子と呼ぶ。彼らは騎士団直轄の教会へ送還され、
「六歳の時です。ある日突然力が暴走して、私の祝福は母を傷付けました。その甚大な被害からすぐに騎士団が飛んで来て、私は王都に送られました」
そうか。叙任式の日に噂があった、同期の四人目の祝福者は君だったのか、ソフィア。だが、それがまさか……。
「でも母が悪いわけじゃないんです。私を引き渡すあの日、母は泣いていました。ずっと謝っていました。でも弟達の安全と皆の幸せを考えて、母は決断をしたんです。それは正しい決断だったと思います。あのまま町に居ても、その内誰かを殺していたかもしれません」
淡々と、淡々とした声のまま。
「その孤児院でも、一人だけ仲良くなれた人は居たんですよ。ほんのちょっぴりだけですけど」
「……! 良かったね」
「その人は自殺しました」
あまりに軽率なリアクションを取ってしまった事に後悔する。まだ話の途中だ。
「誰からも愛されない人生に耐えられなかったのでしょう。その気持ちは痛い程よく分かります」
君は少しの間、瞼を閉じる。
「でもやっぱり、……ショックでした。感情って伝播するから、私もなんだか呑み込まれそうで、……ずっと、部屋の隅で震えてました。また負の感情を貰っちゃうんじゃないかって思うと、どうしても人と関わるのが怖くて、本だけが私の友達でした」
君は何とでも無いかのように食事を続け、ミルクスープを少量啜る。
「誰にも頼れない時間だけが、ずっと、ずっと、ずっと……」
遂に君は取繕えなくなったのか、少し自嘲気味の表情で、そのスプーンから手を離す。
「忌み子は戦場に出され、そのまま
君はようやく顔を上げて、何とかぎこちない笑みを浮かべる。
「強くて、優しくて、格好良くて、本当に本の中のヒーローが飛び出してきたのかと思いました」
目を瞑り、しかし段々と、その緊張感は和らいでいく。
「あのままだったら、私はあの後、何をされるか分かりませんでした。きっと耐え難いような屈辱を……」
最大の恥辱を回避出来ただけでも、不幸中の幸いだったのかもしれない。
「あの日、助けてくれてありがとう。私、レイフ君に、……何かを、返したい」
咲き誇るペチュニアのような、幸福を振りまく笑顔を開花させる。
「それは今日の料理で十分だよ。こちらこそ、ありがとう」
そして俺は努めて明るい話題を。君の好きな本の話、行ってみたい観光地の話、そんな明るい未来の話を紡ぎながら、俺達はソフィアの手料理に舌鼓を打った。珍しくお酒も進んでしまい、かなり酔っぱらった俺は、ふと、カーテンの隙間が切り取る宵闇へ気が付く。
「そろそろ帰ろう。暗くなって来たし家まで送るよ」
外はすっかり夜だ。女性をこれ以上引き留めてはマナー違反だろう。
「いえ、帰りませんよ」
「え?」
想定外のその言葉に少したじろぐ。
「看病するって言ったじゃないですか。大丈夫です。ちゃんとお泊まり用の準備も持ってきてます」
するとソフィアは玄関先で背負っていた大きめの鞄を指差す。
「良くないよ。帰ろう? ね?」
「……帰りません」
それは小さな、小さな声。けれどそこには確かに絞り出した意志が灯る。
一瞬だけ、陋劣が胸に咲く。俺は頭を振り必死に脳内の悪魔を祓い退ける。
駄目だ、レイフ。ソフィアは明らかに寄る辺を失っている。弱っている女性に付け込むなんて非道を犯せば、天国の母と妹から呪い殺されてしまうだろう。
「今日だけ……。今日だけで良いんです。明日からはちゃんと弁えます。今日だけもう少し、お喋りがしたいです」
俯いたソフィアは、やはりウジウジと背を丸めてしまう。違う。そんな顔をさせたいわけじゃない。
「お喋りは明日でも出来るだろう? ね?」
君は俯いて、そしてそのまま押し黙ってしまう。暫しの沈黙。
「じゃあ! 死にます!」
すると君は、贈ったあのナイフを取り出し、自身の喉元へ押し当てる。
「な! ……落ち着いて、ソフィア」
なるべく刺激しないように、努めて落ち着いた声で彼女を諫める。
「ううう。死ぬ! 死んでやる!」
それでも君はヒートアップし、喚き散らす。ただその分周りが見えていない。俺はその手首を優しく掴み、そっと降ろす。
「落ち着いて。何も君を嫌っているわけじゃない。ただ嫁入り前の女性が軽々と男の家に泊まるのは……、その……」
昇った血が引いて来たのか、君は少しずつ冷静さを取り戻す。
「……ごめんなさい。迷惑でしたよね。……私みたいな意味分かんない女」
するとソフィアはナイフを仕舞い、上下の激しい情緒に揺さぶられ、遂にメソメソと泣き出してしまう。
「違う! そんなわけじゃ……」
折角、一生懸命気持ちを込めて美味しいご飯を振る舞ってくれたソフィア。グスタフも殺せない、マテウスにも負けっぱなし。何の力も無いこんな俺なんかを、ヒーローなんて呼んでくれる君には、せめて笑っていて欲しい。浅い溜息を吐いて意を決す。
「ベットは一つしか無いからソフィアが使って。タオルとかは持って来てる? 無かったらラバトリーに置いてあるから、それは勝手に使って良いよ。お風呂は洗ってあるから、好きなタイミングで先に入って」
俺はソフィアの鞄を下ろして、食器を洗い始める。……まあ、別に何も起こったりはしないだろう。ただお喋りをするだけだ。俺は脳裏へ浮かぶライラの笑顔を、その罪悪感を頭の片隅へ何とか追いやり目を瞑る。
……いやいや、だいたい俺はライラの所有物なんかじゃない。ならばこれは、別に裏切りなんかじゃない、……はず。
「……良いんですか?」
背後からトコトコと近づいて来る君は、縋るような声を投げ掛ける。
「うん。今日だけね?」
そして振り返れば、ソフィアはあの日の庭園のアリシアと
……いやいや、何時になったら俺は学習するんだ。別に俺達は、ただの友達。
◇レイフ視点◇
カーテンの隙間から差し込む朝日が瞼の裏を突き刺す。底冷えするソファの上で目が覚めると、微睡んだ瞳の先には、しゃがんで両手で頬杖をついたソフィアの姿。艶々とした満足そうな微笑みでこちらを見つめている。少し、顔が近い。眼鏡も外しているようだ。
「起きちゃいました?」
「うん? おはよう、ソフィア」
俺はソファに寝そべったまま。君は朝に強いんだな。
「えへ! おはようございます。レイフ君」
目の前の君は、嘗てない程の上機嫌。良く眠れたのだろうか。
「レイフ君は寝付きが良いんですね」
「? ああ。昔からよく言われるよ。何で?」
「うふ! 秘密です!」
質問の要領は得ないが、楽しそうならそれでいいか。
「やっぱり、……今晩も来て良いですか?」
潤んだ上目遣いで迫る君。絆されそうにもなるが、ここは線を引かなければならない。
「駄目だよ。誰かに見られて噂されたら嫌だろう?」
「……レイフ君は嫌ですか?」
折角上機嫌になった君の眦には、あの孤児院の話の時に見せた影が。
「いや、そんなことは……」
こんな綺麗な女性と噂になるなんて、男としては名誉な事だ。だけど、境界線がそこには在る。
「……やっぱり私が不細工だから」
みるみると萎れ、俯くソフィア。……胸が痛い。
「そんなことない。君は綺麗だよ。それは本当だ」
「じゃあどうしてダメなんですか?」
少し膨れっ面で更に顔を近づける。鼻先が触れ合いそうな距離に気恥ずかしくなり、枕に頭を乗せたまま少し顔を背ける。
「俺と一緒にいても君を幸せにしてあげられない。俺はそんな良い人間じゃない」
「私、今幸せですよ」
「未来の話だ」
「未来の幸せが確定している人なんているんですか?」
同い年のはずなのに、俺より圧倒的に弁が立つソフィア。返す言葉は無い。……俺も本とか読もうかな。
「別に、恋人にして欲しいなんて図々しい事は言いません。他の女の子が本命でも構いません。レイフ君の都合の良い時だけでも呼んで欲しいです」
「それじゃあソフィアが幸せにならない」
「幸せです。私、本当に幸せなんですよ、レイフ君。……私にはレイフ君しか居ません」
瞳に熱を帯びる君。嘗ての弱々しい君は、もう。
「明日もレイフ君に逢えるかもって思ったら、私、初めて眠る時に楽しみな事を考えながら目を瞑れたんです」
その声はどんどんと、朗らかに綴られた歌のように。
「私、レイフ君に拒絶されたら、もう生きていたくないです。……死にます」
柔らかな微笑みのままの自殺宣言。
「拒絶なんて、そんな積もりはない。ただ……」
「なんですか?」
「……自信が無い。誰かを幸せにする自信が」
「ふふ。そんなの大丈夫です。私、レイフ君の傍に居られれば、もう勝手に幸せなので」
こんな俺でも誰かの役に立てるのなら。少しだけ、心は救われた気がした。
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