第2章 黒層
第24話 知らない文化
エデルが目覚めて一番に目にしたのは、無機質な石でできた天井だった。
なんだかものすごくよく眠った気がする。
ぱちりと目が覚めて、まずぐっと伸びをした。
「あいたたたた……」
あちこちが痛い。寝すぎて固まったせいだけではない。ふつうに打撲とか捻挫とか、そういう系統の痛みだ。
その痛みで、今自分がどういう状況だったかようよう思い出したのだった。
――あれから何日が過ぎただろうか。
ドゥーベの上で何時間も揺られたり、崖を転がり落ちたり、フロウの巣穴から命からがら逃げ出したり――自分では大きな怪我はないと思っていたものの、エデルはあのあと、しっかり熱を出した。
ルーシャスとナイジャーが代わる代わる世話をしてくれたことはぼんやりと覚えているのだが、ずっと夢うつつで時間の感覚がない。なんといっても、この部屋には窓がなかった。
ゆっくりと体を起こすと、ようやく部屋の全貌が見えてくる。
石壁をきれいにくり抜いて、そのまま部屋にしたような場所だった。ふた間続きの広い部屋で、こちらはエデルの眠っていた寝台の他に、机と椅子が置かれている。三枚の扉を端に寄せて開け放った向こう側には、寝台がふたつ。それからこちらのものより大きめの机と椅子があった。
扉は引き戸だ。木の引き戸だが、細い根っこのようなものを並べて結び、それを扉にしたような風情である。よく見ると隙間があって向こう側が見えるのだが、その細い木の揃い方、結ばれた紐の組み方が実に精緻な造りだった。
よく見てみると、壁にも細かな彫り物がある。そこに様々な色の塗料を繊細に塗り込んであって、不思議な模様を生み出していた。
見たことのない模様に色使いだ。異国に迷い込んでしまったかのような、そういう感覚だった。
少し見回しただけでもわかる。この部屋は、エデルが知るどんな場所よりも高級なところだ。
この壁も仕切りの扉も、それから調度品の机や椅子も、すべてが贅を凝らした品々だった。
部屋にはエデル以外の気配がない。けれども、一緒に泊まっている人がいることは確かだった。仕切りの向こう側の寝台は整ってはいるが、最近使われた様子があった。
エデルは見慣れない服に着替えている自身を見下ろし、全身が包帯だらけであることを知る。誰がどう手当てしてくれたのかは一旦考えないでおいた。
掛布をめくり、ゆっくりと地面に足を下ろす。
靴がなかったので仕方なく素足で立ってみたものの、床は泥や砂で汚れている様子もなかった。
慎重に体重をかけても、痛みはするが歩けないほどではない。炎症のピークは越えていそうだ。
エデルはゆっくりと伝い歩きしながら部屋を出た。
そこには、思ったより広い廊下が伸びていた。廊下も部屋と同じように、石壁をくり抜いたような風情がある。
たぶん、宿屋、なのだろう。
予想はついたが、それを教えてくれる人がいない。
ルーシャスとナイジャーはどこへ行ってしまったのだろう。寝台のそばに荷物もあったし、遠くへは行っていないのだろうと思ったが。
と、ちょうどそのとき、廊下の突き当たりから人が現れた。
エデルは人に襲われた直後だ。一体誰がやってくるのかととっさに身構えたが、すぐに見知っている大男たちであると理解して胸を撫で下ろした。
「おお、エディ。起きたか」
「留守にしてて悪かったな。調子はどうだ?」
ルーシャスと、ナイジャーだ。
ふたりは大股に近づいてくると、エデルを部屋の中に促した。
「歩いてて痛くないか?」
「うん。ゆっくりなら。手当てしてくれたんでしょう? ありがとう」
「いや。起き上がる元気が出たようで良かったよ。具合はどうだ?」
ルーシャスのしっかりとした大きな手が伸びてくる。熱が引いたか確かめようとしたのだろうが、エデルはとっさに顔を引いて避けていた。
「…………」
避けられたルーシャスが大きな目をぱちくりと瞬き、避けたエデルも自身の行動に驚いて声が出ない。
「どした?」
横からナイジャーが首をかしげる。
ルーシャスはわけがわからないと首を振り、エデルは避けた姿勢のまま、さらに一歩後退ったのだった。
「……お風呂に入りたい」
顔をしかめて言うと、ナイジャーが声を上げて笑い出す。
「元気出たな。良いことだ。でもまあ、まだちょっと待て」
「やだ、無理。気づいちゃったけど我慢できないよ、これ。わたし汚れすぎ」
誘拐された時点で一度も風呂に入れていないのに、逃げ出すときに汗だくになり、さらには泥まみれになったのだ。そのあと、一体何日が経っているのか。
一度考えてしまうと、気を失う前に平然とルーシャスに背負われていた自分がとんでもないことを仕出かしたように思える。
気づけば髪だってもつれて絡まって、いくつも毛玉のようになっている。
もう一歩距離を取る前に、ひょいとルーシャスに抱き上げられた。
「わーっ! 触らないで‼」
「暴れるな暴れるな。傷の具合を見たい」
「歩ける、歩けるから!」
「今無理をして傷口が開いたら風呂はまた今度だぞ」
「…………」
「お、大人しくなった」
横からナイジャーが茶化す間にも、エデルは寝台へ座らせられる。
今の今までここで眠っていたのに、一度自身の汚れに気づいてしまうと寝台に座ることすら忌避感があった。せめて椅子に、とはお願いしてみたのだが、これはまったく黙殺された。
「歩けてはいるようだが、まだ無理はするなよ」
ルーシャスが丁寧に足を取る。痛みというより衛生的に触れられたくなくて、エデルは反射的に引っ込めようとした。
「動かすな」
「うう……」
「我慢我慢。今更だろ」
エデルの座る寝台とは反対側、おそらくふたりが寝泊まりしていたのであろう寝台のそばで、荷物をいじっていたナイジャーがからりと笑う。
どうやら、ふたりは買い物から帰ってきたところだったらしい。
「気にするほど汚れちゃいないさ。手当てをするのにいくらか拭いたからな」
敢えて意識の外に置いていた問題に触れられて、エデルは眼前に跪くルーシャスの紫紺の頭を見下ろす。
天井から吊るされた、雨だれのような照明が煌々と彼の髪を照らしている。癖はあるが艷やかで、彼の華やかな魔力の気配をそのまま閉じ込めたような、豊かな髪だった。
逃げることを許さずエデルの足を取った手もそうだ。片手ですっぽりと覆い隠せそうなほど大きく、骨ばってがっちりとした手をしている。皮膚は固く、剣を握る人のそれだ。
彼はどこもかしこもが華やかで立派な体つきだった。
――それに比べて、自分と来たら。
エデルは寝間着らしい簡素な白い上下の衣服の下に隠した、自身の貧相な身体を思う。
養父が亡くなってから、村長の家でそれなりの暮らしはさせてもらっていた。しかし、それでもお腹いっぱい食べられることはなかったのである。
村長がエデルの生活に関わる費用を切り詰めたのではなく、彼の妻が良い顔をしなかったからだ。
お陰で、この一年でやや肉が落ちて骨ばった体つきになった。それでも最低一食は食べさせてもらえていたのだから、それだけで十分恵まれていると思っていたのだ。だからひもじい思いをすることがあっても、体型など気に留めたこともなかったのだが。
そのことが、今になって突然重大な問題として、エデルのお悩み第一位に鎮座してしまったのである。
だって、こんな立派な人に――しかも男の人に――一体どこまで肌を見られたのやら。
「……言っておくが、おまえの身体を拭いてくれたのはここの従業員だぞ」
そんなエデルの内心を見透かしたように、ルーシャスは淡々とそう言った。図星に肩を震わせると、ルーシャスは包帯を取ったエデルの足を検分し終えてようやくこちらを見上げた。
その金の目はどこか呆れている。
「当たり前だろう。医療行為とはいえ、意識のない女を無断でひん剥く趣味はないからな」
「そ、そか……」
要らない心配だったわけだ。
エデルは内心ほっと胸を撫で下ろす。
実は、最初の手当てだけは宿屋の従業員に頼むわけにはいかず――医者を呼ばれても治癒魔法の効かないエデルには無意味だからだ――足の捻挫も全身の打ち身もルーシャスが手当てしたのだが、彼はしれっとその事実は伏せたままだった。
エデルの見えないところから、ナイジャーは竜の目をじっとりとルーシャスに向けていたのだが。
「まあ風呂くらいなら良いだろう。くれぐれも患部をいじったり、長湯はするなよ」
「うん」
入浴許可が出たので、エデルはぱっと顔を輝かせた。
その目の前にナイジャーが一抱えの包みを差し出す。
「これは?」
「着替えと、
「いいの⁉ ありがとう」
今のひどい汚れを落とすのに石鹸は必須だと思っていたが、染髪剤はともかく整髪剤まで用意してくれているとは。ダマダマにもつれた髪もなんとかなりそうだった。
エデルは喜んで早速湯を用意してもらおうとしたのだが、ルーシャスはふたたびエデルを抱き上げたのだった。
「ここじゃ部屋で湯浴みをしない。宿屋には専用の浴場が用意されていて、そこで湯を浴びるのが一般的だ。この店も一階に浴場がある。行くぞ」
とんだ文化の違いにぽかんとしたあと、エデルはまた抱き上げられていることに気づいて、活きの良い魚のようにビチビチと暴れたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます