クラフトライクの召喚術(旧)

きたなみ

序章   Black Lily

 目の前で人が解体されていた。


 蠢き続ける朱色の肉壁で囲まれた部屋の中央に「それ」はいた。部屋全体から放たれる仄かな灯りに照らされて、異形の「それ」と開腹された人体が男の目に飛び込んでくる。あまりにも浮世離れした異質な光景は、一種の神性すら男に感じさせた。

 男は最初、「それ」が何をしているのか理解出来ず、絶えず流動する生命体らしき「それ」と、その奥で痙攣を繰り返す人体を呆然と眺めることしか出来なかった。無知な男は目を覆いたくなるような凄惨な場面を目の当たりにしながら、血の脂で照付(てらつ)く人体の中身に美しさすら覚えていた。

 男は無知だった。人は腹を開かれると死ぬということを知らなかった。

「それ」は貪欲だった。人の腹の中を掴み上げては、様々な角度で臓器を眺めながら手元の紙に筆を走らせていた。

 男は臓器を覗き込む「それ」を見やった。黒い液体のような生命体は常に膨張と収縮を繰り返していたが、シルエットは辛うじて人型のように見える。体表には幾つもの感覚器が産まれては吸収されており、おおよそ……そう、文字通り捉えどころの無い容姿をしていた。

「それ」は自分の事を「ショゴス」と呼んでいた。太古の昔にそう名付けられたらしい。

 名前が無いと呼びづらい、男が文句を垂れた時に教えてくれた名だ。ショゴスは酷く面白く無さそうな顔――だったように男は感じていた――をしながら教えてくれたが、男にとっては喜ばしい事だった。自分だけ名前で呼ばれるのは不平等な気がしていたからだ。

「ん? 何だ、来ていたのか、ランドルフ」

 男の足音に気付いたショゴスが振り返る。体表に浮かぶ複数の眼球のうちの一つが男――ランドルフを捉えた。

「丁度良い。君も見ていくか? 君の反応も見てみたいんだ」

 ショゴスが体をずらした。ショゴスの体で隠れていた人の顔面が露わになる。解体されていた人の顔を見た瞬間、男はあっと声を上げた。

 その人は男の母親だった。男には母や家族といった知識は無かったが、それでも本能的に彼女が母親であると理解していた。ずっと世話してくれていたのだ。物心ついたときからずっと一緒にいてくれたのだ。毎晩一緒に寝ていた。男に人の温もりを教えてくれたのは彼女だった。

 その女性は今、目の前で白目を剥きながら開腹されていた。

 男は本能で悟った。これはとんでもない状態だと。ともすれば死ぬのではないかと。

「君という奇跡を産んだこの個体に一体どんな変化があったか調べたかったのだが……ふむ、特段の変化は見当たらないな。子宮も通常の個体と何ら変わりは無い。まあ、ランドルフ、君が人として産まれた段階である程度の予想は出来ていたけどね」ショゴスは手に掴んだ臓器を煩雑に投げ捨てた。「しかしこうして確かめることに意義がある。さて――君はどうだ?」

 男は女性の体に駆け寄っていた。何とかして助けてあげたいと思ったが、その方法がてんで分からない。困り果てた男は縋るように女性の手を握った。微弱な痙攣を繰り返す指先は、思わず悲鳴が出てしまうほどに冷たい。

 ランドルフは空っぽになりかけている女性の体を見やった。切開された横隔膜の向こう側に、鼓動する臓器が見えた。

「それは心臓だよ、ランドルフ」ショゴスが優しく声を掛けた。「それが止まるとヒトは死ぬんだ。そういう風に出来ている」

 心臓の鼓動はみるみるうちに弱まっていく。もう直ぐ死ぬ。無知だが聡いランドルフは、すぐにそれを理解した。してしまった。

「あっ……あっ駄目。と、まっちゃ、駄目」

 必死に言葉を吐き出しながら、男は弱り続ける心臓に手を伸ばした。しかし男が心臓へ手を添える頃には既に、茜色の臓器は一切の鼓動を停止していた。

 死んだ。

 母が死んだ。

 ……どうして?

 激情が男の脳内を支配した。疑問はそのまま怒りに変わった。体が熱い。脊髄が燃えるように熱い。男は自分の中から、何かが飛び出してきそうな感覚を覚えた。

「そうか。成功だ」

 ショゴスが独りごちた。男はその視線に憤怒を溜め込みながら、ショゴスを睨め付けた。

 本能のままに。そう、自分の激情に任せて。それを全て目の前のショゴスにぶち当てようとした。

 視界の至る所から紫色の触手が生えてきた。夜空に染め上げられたような触手の矛先は、全てショゴスに向いていた。

「……どうして」

 男の声は震えていた。

「ふむ。ちょっとやりすぎたか? これは骨が折れそうだ」

 対するショゴスの声は落ち着いていた。

 男は限界だった。激情のままに吼え、ショゴスへと突撃して――。

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