第10話 こんなにも青い、この空の下で その2

 突然の窮地に、千里せんりは戦慄した。

 溺れかけていた万里ばんりを助けることはできた。

 どうにかこうにか足がつく場所までは辿り着けた。

 力尽きて崩れ落ちた彼女を守るために、身体を滑り込ませた。

 たちまち盛大な水しぶきが上がって――今、メチャクチャ密着している。

 そう、密着。

 千里は海パンを穿いているだけ。

 万里は紐みたいなビキニを身に着けているだけ。


――ままま待て待て待て、こ、これを着ていると言っていいのか!?


 万里のビキニはズレていた。

 否。よく見ると、紐が外れていた。

 つまり――猛烈に、とてつもなく、ヤバいのだ!


――いずみ……気づいてないのか?


 覆いかぶさってきた万里は、千里の胸に顔を埋めてうずくまっている。

 顔を上げてほしいような、上げてほしくないような、気付いてほしいような、気付いてほしくないような……でも、ずっとこのままでいられないことだけは間違いなくて、その現実が千里を苛んでやまない。


――ふおぉぉぉっ!


真壁 千里まかべ せんり』は――男だ。

 十七歳の健全な男子高校生だ。

 ごくごく当たり前に恋愛に憧れを抱いているし、性欲を滾らせてもいる。

 同じクラスの一軍女子のリーダー格な美少女が自分の腕の中で震えている、このシチュエーションに身体のとある部分が強烈に反応してしまった。

 止めようと思っても止められない。

 本能、あるいは生理的な現象なのだ。


――ヤバい、これは俺の方がヤバい……んだが……


 声が出ない。

 万里は、命拾いしたばかりだ。

 死を身近に感じた恐怖は、今なお彼女を縛り付けている。

 獣じみた欲望を抑えきれないからといって無慈悲に突き放すのは……人として、どうなのだろう?


――でもなぁ……


 離れてもらうとしても、その前に水着を直してもらわねばならない。

 このまま間合いを取ってしまうと、それはそれで大惨事だ。

 たったひとつの選択ミスで悲惨な結果に一直線。

 別の意味でも――迂闊に声を出せない。


「ぷっ」


 軽い声が千里の耳に触れた。

 笑いをこらえるような、間違って漏れてしまったような声。

 怪訝に思って視線を降ろすと、先ほどと変わらず震えている万里の姿があって……あって……


「ぷっ……あはっ」


「泉?」


 笑っている。

『え? 笑う状況か、今って?』

 異常事態を前に、思わず問いかけてしまった。

 顔を見ることはできなかったが……明らかに様子がおかしい。


「あは、あははっ……真壁、メチャクチャ真面目でカッコよかったのに……これ、なんなの。超ウケるんだけど……ゴホッ」


 うつむいていた万里は、千里にしがみついたまま笑い続ける。

 声はちっともか細くなくて、でも、ときおり苦しそうにせき込んだりして。

 背中をさすってやった方がいいのか、それとも距離を取った方がいいのか……どうにも判断に困る反応だった。

『これ、なんなの』と言われても、何のことやら。

 押し付けられる胸の柔らかさに侵された頭には、もはや思考能力など残っていないのだ。


「い、泉……その……大丈夫か?」


「大丈夫も何も、思いっきり当たってるし。これでマジに心配されるの、マジで困る」


 当たっている。

 万里の言葉が意味するところは明白で、それは今しがた千里が気を揉んでいたことに他ならない。


「あ、あのな……」


『誰のせいだと思ってやがる!』とキレる場面ではない。

 むしろ『ありがとうございます!』と頭を下げるシチュエーションな気がする。

 万里ほどの超絶美少女と裸で抱き合って巨乳を堪能するとか……今後の人生でここまでの幸運に見舞われる機会があるとは思えない。


――俺、前世で善行積み過ぎだろ!?


 しがみつかれたまま身じろぎされて、彼女の肢体の柔らかさを否応なく感じさせられている。

 生で。

 問題のアレは万里のすべすべしたお腹を突き上げているし、こうしている今も、彼女の豊かな胸のふくらみは千里の胸に押しあてられて形を変え続けている。華奢な手のひらは背中に回されていて、さっきからしきりに撫でまわしてくる。

 この状況でアレを隠すことなどできるはずがないのだが……ほかならぬ万里に指摘されても素直に頷けない。


「仕方ないだろ、これは!」


「そんなに焦らなくてもいいし。別に怒ってないし」


「……そうなのか?」


「恥ずかしいっていうか、居たたまれないっていうか、そういう気持ちはあるよ。けど……それ以上に、私、生きてるんだなって、嬉しい」


 嬉しい。

 そう呟いた万里が腕に力を込めた。

 すでに限界と思っていた密着度合いが、さらに高まる。

 とっくの昔に千里の理性は限界で、震える口から洩れる声はうわ言めいていた。


「う、嬉しいって……」


「そう、嬉しい」


 泳げないくせに見栄を張って海に入って、急に深くなっているところで足を踏み外して溺れた。

 もがいても身体が浮かび上がらず、呼吸もままならない。


「かなりマジで『私、ここで死ぬのかな』って思ってたのに、思ってたのに……」


 そんな自分が、今、こうして自分の身体に興奮している千里の反応を直に感じている。

 肌越しに千里から熱を感じている。身体の内側から熱を感じている。

 熱。それはすなわち――生きている証に他ならない。


「そう考えたら、怒るよりも嬉しくって安心しちゃって……こんなことで喜んじゃう私ってバカなんじゃないかって、それで笑えてきた」


 万里が顔を上げた。

 涙が滲む漆黒の瞳が、あまりにも近い。

 教室ではついぞ見た覚えがない、飾り気のない笑顔だった。

 その輝きに目を細めながらも、小刻みに挟み込まれる咳が耳について……千里もまた万里の背中に手を伸ばした。


 指先が、触れた。

 すぐに離した。

 ほんの一瞬で、万里の震えを――今にも壊れてしまいそうな繊細さを感じ取った。


 でも――それだけだった。

 手を払いのけられたりはしなかった。

 むしろ千里の胸に頭を預けて、そのまま目蓋を閉じた。

 安堵と興奮がないまぜになったまま、千里はもう一度手を伸ばす。

 しっとり湿った白い肌を、できるだけいやらしくならないように撫でさする。


――いいのか、これで本当にいいのか!?


 そのすべらかな感触に我を忘れながらも、手を止めることはしない。

 頭の中は興奮とか心配とかグチャグチャに入り混じっていた。

 笑いと咳を往復する万里の呼吸が、次第に収まってくる。


「はぁ……笑った、笑った」


「……元気そうで何よりだ」


「今さら取り繕っても……ゴメン、またツボに入った」


「あ~、もう、好きなだけ笑ってくれ。俺にもどうにもならないんだ」


「ふ~ん、そんなに私見ていやらしい気分になるんだ?」


「見てというか触れてというか」


 お前はもっと自覚を持て。

 そう付け加えると、万里はおもむろに頭を上げた。

 至近距離に迫った漆黒の瞳、その艶めいた眼差しに悪意の類は見当たらない。


「……」


「……」


 気まずさは感じない。

 しかし、何を言えばいいのかわからない。

 それでも――見つめあうことがまったく苦にならなかった。


……ふぅ


 頬に風を感じた。

 熱く濡れた万里の吐息だった。

 鼻先を甘い芳香がかすめ、千里は喉を震わせた。


「もう、大丈夫なのか?」


「……大丈夫って言えば大丈夫なんだけど、ちょっと休みたいかも」


「病院とか行かなくていいのか?」


「溺れてたの、そんなに長い時間じゃないし。真壁がすぐに助けてくれたから」


「だったら、とりあえず海から上がって落ち着けそうな場所を探すか」


「そうね。水に浸かったままだと落ち着かないし」


 頷きかけて、硬直。

 それは、とても、マズい。


「お、おい……ちょっと待て」


「ダメ。待たない」


「あ」


 千里の肩に手をついた万里は、ようやく身体を離し――バランスを崩して後ろに倒れ込んだ。

 軽めの水音、小さな水しぶき。

 尻もちをついて、スラリと長くて白い脚がわずかに開かれて、デリケートな部分に張り付いた赤い三角形は濡れそぼっていて、その下半身は何もかもがどうしようもなく蠱惑的だった。

 そして――視線を上げた次の瞬間、千里の視界が白く弾けた。


――わ……我が人生に、一片の悔いなし!


 万里の整い過ぎた顔には、相変わらず屈託のない笑みが浮かんでいる。

 ゴクリと唾をのむ音が、頭の奥でやたらと大きく響いた。

 言うべきか言わざるべきか――迷いはなかった。


「すまん……大事なことを言い忘れていた」


「大事なことって、なに?」


「水着、脱げてるぞ」


「……へ?」


 間の抜けた声に沈黙が続いた。

 目蓋をパチパチさせた万里は自分を指さし、千里は口を引き結んだまま首を縦に振った。

 傍目に見てもわかるほどに頬を引きつらせた万里は、ゆっくりと自分の身体を見下ろして――その白くて細い喉から迸った絶叫は、空と海の狭間を激しく切り裂いた。

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