くろねこのジャック

葛原瑞穂

第1話 引っ越し


 トンネルの出口から、一台のピックアップトラックが姿を現した。

 ガタゴトと音を立てながら走る緑色のトラックは、あちこちに赤茶けたさびが浮いていた。

 中に乗っている少年、ヘンリーはなんとなく窓の外をながめながら、ようやく平坦へいたんな道になったことにほっとしていた。しばらく山道が続いたおかげで揺れるし曲がりくねっているしで少々気分が悪くなっていたところだったからだ。

「疲れた? ハリー」

 助手席に座ったヘンリーの母、マリーが後ろを振り向きながら声を掛けてきた。

「もう山道は抜けたから安心して」

 運転している父のダニエルが言う。ヘンリーが山道だと車いをすることを知っているからだ。

「うん、ありがとう。大丈夫だよ」

 ヘンリーはこみ上げる酸っぱいものを懸命に飲み込みながら答えた。正直、あと一五分も続けば危ないところだった。

 ヘンリーの家族三人は、もうずいぶん長い間走り続けていた。昨日の朝八時には家を出たはずだから、もう一日半になる。

 こんなに遠くまでやってきた理由は、引っ越しをするからだ。ヘンリーにとっては初めての引っ越しだった。今日の朝まで住んでいたところにはもう住まないなんて、なんだか不思議な気分だった。それでも、新しい場所がどんなところなのか、という好奇心のほうがまさっていた。ヘンリーは新しい町、新しい学校、新しい友達、新しい家を思ってわくわくしていた。

 ふと、車のスピードが遅くなった。ヘンリーが視線しせんを前に向けると、なにかのネオンが見えた。ネオンは半分ほどが点灯しておらず、なんて書いてあるのか読めなかったが、ダイナーだろうという事は分かった。

「ここで食事にしようか」

 ダニエルが言い、車はゆっくりとダイナーの駐車場に入っていった。ダイナーの中に入ると、長距離トラックの運転手らしき人が奥にいるだけで、他に客はいなかった。

 椅子に腰を下ろしてメニューを見ていると、派手な化粧けしょうのウェイトレスがガムをみながらやってきた。

「何にします?」

 ずいぶんとぶっきらぼうなウェイトレスだ。

「ええっと、僕はライムギのパンにオムレツ」

「私はパンケーキにしようかな」

「僕はホットドッグとオレンジジュース」

 ウェイトレスは「ん」と言っただけでくるりと背を向けた。

「あ、それからコーヒーを二つ」

 ダニエルはあわててウェイトレスの背中に向かってそう言った。ウェイトレスは振り返りもせずにカウンターに戻ると店のオヤジに注文を伝え、そのままカウンターの椅子に座って雑誌ざっしを読み始めてしまった。

「トーンタウンまであとどのくらいかいてくるよ」

 ダニエルは店のオヤジのところに行った。

「朝までには着くかな」

 ヘンリーはマリーに訊いてみた。

「どうかしらね」

 マリーも本当に分からないようだ。できれば朝までといわず、今夜中に、いやあとほんの少しで到着してほしい。昨日の晩はホテルが見つからず、結局車の中で寝るしかなかった。ヘンリーは「キャンプみたいだね」とはしゃいでいたが、ダニエルたちは困った顔でうなずくだけだった。

 しばらくするとダニエルが帰ってきた。

「どうやらもうすぐそこらしい。あと二、三時間も走れば着くそうだ」

「ほんと!? 良かった、今日はベッドで寝られるね」

 キャンプみたい、とはしゃいでいたのは最初だけで、朝になると体のあちこちが痛かった。実のところ車で寝るのはもう勘弁かんべんだったのだ。

 ほっと胸をなでおろしたところで、派手な化粧のウェイトレスが食事を持ってやってきた。

 ライ麦のパン、オムレツ、パンケーキとホットドッグ。それにオレンジジュースとコーヒーが二つ。それから、ソーダのびんが一本

「ん?これは?」

 ソーダは注文してなかったはずだけど、とヘンリーが顔をあげると、派手でぶっきらぼうなウェイトレスが、

「あたしのおごり。車の中で飲みな」

 と言った。

「あ、ありがとう」

 ヘンリーは消え入りそうな小さな声でもじもじとつぶやいた。

 それでも、ウェイトレスは片目をつぶって、にっこり笑ってくれた。

 ヘンリーはあまり人と話すのが得意ではない。家族や友達となら話もできるけれど、知らない人と話すのがどうも苦手だった。ああ、そういえば、友達っていうのもいなかったな。

 ヘンリーの通っていた学校は、地元でも有名な進学校で、まわりのクラスメイトはみんな習い事や塾通いに忙しく、遊んでいる暇なんかなかったのだ。授業の休憩時間も本当に休憩している子なんていなかった。みな次の授業の予習をしたり、家庭教師が作ったテキストを広げているのだった。

 ヘンリーも塾には通っていたものの、そこまで勉強漬けというわけではなかったから、本当はみんなとおしゃべりしたりふざけあったりしたかった。しかし、そんな事をしていると変だと思われそうだったから、なんとなくノートを広げて読んでいるふりだけをしていた。

 結局、ヘンリーがまともに話せるのは家族だけなんだ。でも、今度行く学校はどうだろう。聞くところによると、田舎の学校はそれほど勉強に力を入れていないらしい。勉強は嫌いじゃないけど、あまり詰め込みすぎるのは辛かった。なんでもほどほどがいいと思う。


 それからまたトラックに乗り込み、目的地を目指して走り始めた。

 ウェイトレスにもらったソーダを飲む。トラックが揺れるので少し飲みにくかったけれど、間違いなく最高の味だった。人は見かけによらないというけど、あの派手な化粧のウェイトレスも実はいい人なんだろう。

 トラックの荷台にはヘンリーたちの家財道具かざいどうぐのすべてがんである。引っ越し業者を使わずに自分たちで運んでいるのは、荷物が少ないからではない。引っ越し業者を雇うお金がないからだった。

 ダニエルは小さいながらも会社を経営けいえいしており、けっこう裕福ゆうふくなほうだった。ヘンリーは詳しい事はしらないが、どうやら誰かにだまされて一文いちもんしになったらしい。これまでお金に困ったことなんてなかったのに、今では野菜ひとつ買うのでも値段とにらめっこしている。貧乏びんぼうになってしまったのは残念だったが、忙しくてまともに相手をしてくれなかった父と過ごす時間が増えたのだけはいい事だと思った。

 ハリーが通っていた学校は、進学校だけあって授業料も高く、とても払えなくなってしまった。それにかなりの大都会だったので物価も高く、求職中きゅうしょくちゅうの身ではなかなか生活が大変だったのだ。そこで、心機一転しんきいってん都会とかいから田舎いなかに引っ越して新しい仕事を探すことにした。家と家具を売って借金を返し、どうにか残ったお金で新しい家を借りて住むことになった。

 今乗っているぼろぼろのピックアップトラックは、果物屋さんがもともと荷物を運ぶのに使っていて、新しい車に買い替えたのでいらないからとただでくれたものだ。

 そんなわけで、ヘンリーの一家はトラック一台で運べるくらいの荷物しかなくなってしまい、こうやって長距離をのんびりと走っているのだった。

 ようやくトーンタウンに到着した時には深夜になっていた。ダニエルは新しい家の鍵と一緒に送られてきたメモを見ながら、ゆっくりと車を走らせる。同じ場所を何度もぐるぐると回ったあげく、やっとのことで新居にたどり着いた。

「さ、荷物を運んでしまおう」

 ダニエルはうーんと腰を伸ばしながら言った。二日間も車を運転していたので腰が痛いのだろう。マリーが鍵をあけて入っていく。ヘンリーも続いて中に入った。

 家の中はしばらく誰も使っていなかったのか、埃っぽくてあちこちに蜘蛛くもの巣が張られていた。おまけに電気もつかず、真っ暗だった。

「…仕方ない、もう一晩、車で寝るか」

 ダニエルとマリーは顔を見合わせて苦笑する。もう疲れてくたくただったし、今から掃除をする気にもならない。仕方なく、車に戻っていった。


 翌朝、みんなで早起きをして掃除をした。

 かなり長い事使われていなかったらしい家は、あちこちが傷んでおり、床はギシギシと音が鳴った。マリーは「泥棒どろぼうが来てもすぐ分かるわね」とジョークを言った。

 リビングにはスプリングが飛び出したソファ、ダイニングには脚がガタガタするテーブルなど、前に住んでいた人が置いていったらしい家具が残っていた。ダニエルたちは「落ち着いたら家具を買いなおさなきゃね」と、肩をすくめた。

 二階にはベッドルームがあり、ペンキのはげたベッドがあった。マットレスと毛布は前の家から持ってきた。今夜こそベッドで寝ることができそうだ。

 新居しんきょは想像よりもボロだったが、ここから新しい生活が始まると思うと、胸がドキドキした。

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