偶然パラドクス

@satomi_jo

プロローグ

「おばーちゃん大丈夫?」

その声の主の頬は赤く火照っていて、刈り上げている襟足に、汗が滲んでいた。身にまとっている真っ白なTシャツにも負けないほど青年の肌は透き通っていた。カーキのジョガーパンツに片手を突っ込んだ立ち姿は、今時の若者そのものだが、眼差しはどこか古風で昔の自分を思い出してしまう。


 確か朝のニュースでは、日中の気温が30度を超える猛暑日を記録するだろうと報じていた。それだけでもうんざりなのに、周囲はサラリーマンや学生の集団、それらに伴う都会特有のむさ苦しさでごった返していた。日本の人口密度がいかに高いか思い知らされるこの池袋駅で、勤め先へと向かうため、改札を出た人志は偶然それを目撃した。

 数メートル先を歩いていた老婆が何かにつまずいたように突然地面に倒れこんだのだ。老婆は何かを疑っているかのように、そして不安げに視線を揺らしながら、その場から動けずにいた。困惑する者、何事かと好奇の目で見つめる者、憐れむ者、いかにも迷惑そうに通り過ぎていく者さえいたが、誰一人として彼女に手を差し伸べようとする者はいなかった。かくいう人志も、その傍観者の一人として彼女の横を通り過ぎようとしていた。そこでふいにある視線が気になった。二人の男子高生が彼女を見て笑っていた。いや、ほくそ笑むといった表現のほうが近い気がする。とにかくその顔を見てかなりの嫌悪を感じた私は見なかったふりをして、人ごみに流されるままに東口へと向かおうとした。

 その時、改札へ向かう大きな流れに飲み込まれない青年がいた。決してその流れにやみくもに逆らおうとはせず、それでも凛とした姿で青年はふいに現れ、地面にひざまずき彼女に手を差し伸べた。

「おばーちゃん大丈夫?」

休日のゴールデンタイムに動物番組で見たチワワを思い出させる、その心配そうな横顔に気を取られているうちに、彼女は青年に手を借りて立ち上がっていた。

「ありがとうございます。急に何かにつまずいたんだけど、人が多いもんだから怖くて立ち上がれなくなってね」

その顔から先ほどの動揺の色は消えていた。青年の内面からにじみ出ている人の好さが不安を和らげてくれているのだろう。

「それは怖かったね。とりあえず怪我しているかもしれないから一緒に病院行こっか」

青年は当然のことのように彼女のカバンを持ち、連れ添いながらゆっくりその場を離れていった。何があったのかと不思議そうに見守る者、青年の温かさに感動する者、行動できなかった恥ずかしさを滲ます者、みなが目的地へとそれぞれ歩いていった。

 10年ほど前のことだったか、以前もあのような場面に出くわしていた。その時はなんの迷いもなく手を差し伸べていた。そんな人志だったが、少し前に前職の職場で問題を起こして、転職をしたばかりだった。最初は、手違いでやってしまったことだったが、誰も気づかなかったことで、癖になり、いつしかそれがストレス発散になってしまった。問題が明るみになったときには、事が大きくなりすぎていて、自分の手には負えない状況になっていた。上司にも波及するほどだったが、どこかで自分の責任ではなく、この大都市の騒々しさや、社会のせいにしていた節があった。結局上司にもまともに謝罪をせずに、逃げるようにしてその場を去ってしまった。 以来、人志は誰ともまともに目を合わせることが出来なくなっていた。向かい合ったら、自分の弱さや醜態がすべて見透かされるような気がしていた。その症状は日を重ねるごとに酷くなっていき、今ではポスターの人でさえもまともに見れないくらいだった。だけどあの青年は、一点の曇りもない目で真っすぐに老婆を見つめていた。彼はきっと、人にも自分にも、正面から向き合ってきたのだろう。

 人志は、駅を出てすぐの横断歩道の前で立ち止まった。歩道の先にある飲食店の壁には、チラシやポスターが毎日貼っては剥がされ、貼っては剥がされてきた。先週までは確かそこには男女が病院の一室で笑い合っている怪しげな高収入バイトのチラシが貼ってあったのだが、剥がされた今は、ただ白い壁に額縁のような汚れがついているだけだった。だけどその汚れこそが、ポスターの歴史を示す勲章のようなものだ。何年もの月日を経てできたであろうその痕跡の横には某政党のポスターが貼ってある。人志は一度目をつむり深呼吸をして、そのポスターの男性と目を合わせてみた。胃が少しだけキュッとしたが、思っていたほど苦しくはない。先週あたりから、自らの不貞でワイドショーを賑わせている男性議員だった。まずはこの男性と毎朝顔を合わせよう。それが一週間続けられたら、今度はテレビに映っている人を一週間。生身の人間とも顔を向き合わせることができるようになったら、いつか上司だった人に会って、あの時のことを謝罪したい。今度は逃げずに人と向き合いたい。人志は青信号になった横断歩道を一歩踏み出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る