「火山の冬」「夏のない年」破局噴火が及ぼす影響

 私はどこかで書いたように岐阜県出身者である。だから、たまたま飛騨王朝説を耳にする機会に恵まれたのだが、私が飛騨王朝説をある程度の確信をもって実在を検討しているのは、郷土愛などとは無縁である事を改めて述べておく(むしろ目立った点が何もない事こそ、岐阜の最大の長所なのだとすら考えている)。


 私が古代飛騨王朝説をトンデモ説だと一蹴せず、一定の支持を示すのは、何度も書いてきた鬼界カルデラ噴火によるものである。この破局噴火の影響を考慮した場合、飛騨、または現在の長野県のあたりで原始国家が成立した可能性が高いと考えている。


 鬼界カルデラ噴火は破局噴火と呼ばれる超巨大噴火であり、この噴火は「火山の冬」(後ほど説明する)を引き起こし、これが世界各地の文明成立のトリガーになると共に、日本においても原始的国家の成立に繋がったと考えている。そして、その場所が飛騨であるというのは、飛騨が当時の原始的な国家成立に必要な条件を満たしている地域の一つである、と考えているからである。



・タンボラ山のウルトラブリニアン噴火

 我々、現代人はいわゆる破局噴火と呼ばれるほどの巨大噴火を目撃した事がない。最も新しい破局噴火の事例は1815年のインドネシア、タンボラ山のウルトラブリニアン噴火である。以下、Wikipediaの抜粋である。



”大噴火を起こしたのは、現在のインドネシア・スンバワ島(当時はオランダ領東インド)にある活火山、タンボラ山である。タンボラは有史以降、数世紀にわたって長らく火山活動の記録がなかったが、1812年から火山活動を開始し、1815年4月に大噴火を引き起こした[4][5]。


大噴火は1815年4月5日から始まり[6][7]、爆発のクライマックスを迎えたのは4月10日〜11日である[8][9](活動そのものは7月15日まで続いた[8])。噴火に伴う大爆発音は極めて広範囲に伝わり、1,500km以上離れた場所でも聞こえたという[10](一説では約1,700〜1,800km先でも聞こえた[11][2])。噴煙は成層圏に達して高さ40kmを超えた[12]。


噴火によって莫大な量の火山灰が噴出され、半径約1,000kmの範囲で降灰が確認された[5]。火山灰により、500km離れたマドゥラ島では3日間にわたり(昼でも)暗闇となった[13][5]。噴火で発生した大火砕流は、25km離れた村を襲って集落ごと壊滅させ[2]、海に流入して大津波を発生させ[14]、直接の死者はおよそ1万人に達した。その後世界中で蔓延した飢餓や疫病なども含めて、約7万1,000人〜12万1,000人が犠牲になったといわれる[15](正確な犠牲者数については諸説あり[注 1])[16]。


スンバワ島の中心集落であるタンボラでの口語であったタンボラ語は、集落が壊滅しほぼ全ての話者が失われたことにより、僅か48語のみを残して死語となった[15]。


この大噴火により、直径6km・深さ1,100mの巨大カルデラが形成され[1][10][17]、タンボラ山の標高は4,000mから2,850mへと低下した[18]。約30km3の山体が消失したとされる[13]。


アメリカ地質調査所とインドネシア火山局の調査によって、この時に壊滅した山麓の村の遺跡が2004年に発見され、家屋や人骨などが見つかった[19]。”

(Wikipediaより抜粋 https://ja.wikipedia.org/wiki/1815%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%A9%E5%B1%B1%E5%99%B4%E7%81%AB )

 


 これを読めば、その被害を想像しやすい事だろう。火山から25km離れた村まで火砕流に飲み込まれ、周囲500kmの範囲が3日間も暗闇となったと書かれている。これが破局噴火である。


 その後、世界中で飢餓、疫病が蔓延したと書かれているが、これが「火山の冬」である。

 これも面倒なのでWikipediaを抜粋する。


”火山の冬(かざんのふゆ、英: volcanic winter)とは、火山の爆発的な噴火によって、火山灰や霧状の硫酸が太陽光を遮り、地球のアルベドを上昇させることによって温度が低下する現象のことである。長期間に及ぶ冷却効果は主に、大気上層部に構成されるエアロゾル中の硫黄化合物の増加が原因である。”

(Wikipediaより抜粋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%86%AC#:~:text=%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%86%AC%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%96%E3%82%93%E3%81%AE,%E5%A2%97%E5%8A%A0%E3%81%8C%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 )



 これは日傘効果とも呼ばれる現象である。火山灰が地球上空を広範囲に覆う事で気温低下をもたらすものである。



 タンボラ山の噴火における火山の冬は後に言われるところの「夏のない年」を生み出した。抜粋ばかりで悪いが、これもWikipediaから抜粋する。


”1816年の気候異常はアメリカ北東部、カナダ東部および北ヨーロッパにおいて多大な影響を及ぼすことになった。アメリカ北東部やカナダ南東部は春から夏にかけての気候は比較的安定している。平均気温は20℃から25℃ほどであり、気温が5℃を下回ることは稀である。夏に雪が降ることは極めて稀であるが、5月に吹雪が起こることはある。


1816年5月[7]、霜が発生したため農作物の大部分が壊滅的な被害を受けた。6月にはカナダ東部およびニューイングランドにおいて、2つの大きな吹雪により多数の死者が出た。6月初めにはケベックにおいて30cmもの積雪が観測され、農作物が害を被った。夏に栽培される植物の大部分は霜がわずかに発生しただけでも細胞壁が破壊されてしまい、まして土壌が雪で覆われてしまえばなおさらである。この結果、この地域では飢餓や伝染病が発生し、死亡率が上昇した。


7月と8月には、ペンシルベニア州南部で湖や河川の凍結が観測された。気温の急激な変化が頻発し、わずか数時間で平年以上の気温である35℃あたりから氷結するほどまで気温が低下することもあった。ニューイングランド南部においては農作物はある程度は成長したが、トウモロコシや穀物の価格が急騰した。例えば、エンバクの価格は前年は1m3あたり3.4ドルだったが、これが1m3あたり26ドルまで上昇した。


清(中国)においては特に北部で、寒さのために木々が枯れ、稲作や水牛も被害を受けた。残りの多くの農作物についても洪水によって壊滅した。タンボラ山の噴火によって季節風の流れが変化したため[要出典]、長江で破滅的な大洪水が発生した。同様に琉球諸島でも干ばつが発生したところに台風被害も重なり、飢饉によって宮古島で1563人が餓死したと伝えられている[8]。ムガル帝国(インド)においては、夏の季節風の遅れにより季節外れの激しい雨に見舞われ、コレラが蔓延した[9]。


徳川家斉の治世下にあった日本では、この年(文化13年)は江戸四大飢饉に匹敵するほどの大規模な飢饉を引き起こす事態が発生しなかったため、一般には「夏のない年」の日本に与えた影響は小さかった[10]とされており、時に「影響は存在しなかった」とさえ言われる場合もある[11][12]。しかし、歴史的事実としては全国的には冷夏が記録され[13]、9月に四国・東海・関東で暴風雨と洪水が頻発し、東北地方は凶作、静岡(遠江国、駿河国、伊豆国)は不作となった[10]。静岡における記録では小田原藩の本領地(相模国、伊豆国、駿河国)ではこの年のみ年貢米の収量が激減しており[14]、新城や島田では不作に伴う年貢米減免を訴える一揆や強訴が発生している[15][16]。


影響は広範囲に及び、翌年以降も続いた。1817年の冬は特に厳しく、気温が-32℃まで低下したこともあった。アッパー・ニューヨーク湾は凍結し、ブルックリン区からガバナーズ・アイランドまで馬そりで渡ることができた[17]。日本でもこの年(文化14年)も8月に九州で暴風雨と高潮、関東で干魃による凶作、冬は関東と甲府で降雪率(冬季全体日数に対する雪日数の比率)が江戸期で最大の値を記録する(ただし、弘前では減少に転じるなど地域差が見られた)等、各地で異常気象が相次いだ[10]。しかし、前年の凶作や異常気象も含めて大規模な飢饉に発展しなかったのは、天明の飢饉を教訓としたサツマイモをはじめとする救荒食の普及が各地で進んでいたことや、松平定信が寛政の改革で提示した藩政改革が各地の藩に広まっていたことの二点が功を奏した結果と考えられている[10]。”



”火山の噴火が続いたことにより、農作物の不作が数年間続いた。アメリカでは「夏のない年」によってニューヨーク中部や中西部、西部への移住が進んだと多くの歴史家は見ている。


ヨーロッパでは、ナポレオン戦争が終結しつつあったが、今度は農作物の不作による食糧不足に苦しめられることになった。イギリスやフランスでは食料をめぐって暴動が発生し、倉庫から食料が略奪された。スイスでは暴動があまりにひどく、政府が非常事態宣言を発令するに至った。食糧不足の原因は、ライン川を始めとするヨーロッパにおける主要な河川の洪水をもたらした異常な降雨であり、1816年の8月には霜が発生した。2005年5月にBBC Two(英国放送協会)で放送されたドキュメンタリーでは、スイスにおける1816年の死亡率は平年の2倍だったと推定しており、ヨーロッパ全体ではおよそ20万人もの死者が出たとしている。


タンボラ山の噴火はハンガリーに茶色の雪を降らせた。イタリアでも同様で、1年を通して赤い雪が降った。これらは噴火により大気中に放出された火山灰が雪に含まれたためと考えられている。


清では、夏の異常な低気温により雲南省では稲作が壊滅的な被害を受け、広範囲にわたって飢餓が発生した。黒竜江省では、霜によって畑に壊滅的な被害が発生したことが報告され、徴兵から逃れる者もいた。国内でも南部に位置する江西省や安徽省においても夏に雪が降ったことが報告されている。台湾においても、新竹市や苗栗市で雪が降り、彰化市では霜が報告された[19]。


文化的な影響


ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー『チチェスター運河(英語版)』(1828年)


香港の夕暮れ(1992年撮影)。前年のピナトゥボ山の噴火の影響を受けている。

噴火により大量の火山灰が大気中に放出されたことにより、この時期には壮大な夕暮れを見ることができた。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの『チチェスター運河(英語版)』(1828年)にも、この時期の薄い黄色の夕焼けが描かれており、有名である。似た現象は1883年のインドネシアクラカタウのラカタ島の噴火の後にも観測されており、1991年のフィリピンのピナトゥボ山の噴火の後にアメリカ西海岸においても、同様の現象が観測されている。


馬の飼料として利用されるエンバクの不足により、ドイツ人の発明家のカール・フォン・ドライスは馬を使用しない新しい輸送方法を研究することになり、軌道自転車やベロシペードが発明されるに至った。これらの乗り物は現代の自転車の原型である[20]。


農作物の不作により、ジョセフ・スミス・ジュニア一家はバーモント州ウィンザー郡シャロンからニューヨーク州ウェイン郡パルマイラへ移住せざるを得なかった。ジョセフ・スミスはモルモン書を出版し、末日聖徒イエス・キリスト教会を設立することになる[21]。


1816年の7月、イギリスの小説家のメアリー・シェリーはジョン・ポリドリら友人とスイスで休暇をとっていたが、絶え間なく降り続く雨のため屋内にいることが多かった。一人一作ずつ怪談を書くことが提案され、シェリーが書いた作品は後に『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein, or The Modern Prometheus) として発表された。ポリドリが書いた作品は『吸血鬼』(The Vampyre) として発表されている[22](ディオダティ荘の怪奇談義)。詩人ジョージ・ゴードン・バイロンは夏のない年に触発され、詩『暗闇(英語版)』を書いている。


ドイツの化学者のユストゥス・フォン・リービッヒは、子供の頃にダルムシュタットで飢餓を経験した。リービッヒは後に植物の栄養素について研究し、化学肥料を開発することになる。”

(Wikipediaより抜粋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%84%E5%B9%B4 )



 タンボラ山噴火は近縁一帯を壊滅させただけでなく、遠く離れた北米大陸、ユーラシア大陸にも大きな影響を及ぼし、北半球の日本も不作に見舞われたのである。当時の人口は現在の約1/7。つまり、この噴火による犠牲者が7万人という事は、現代で言えば、50万人が亡くなったということになる。(ちなみにコロナウイルスによる死亡者は550万人とされている)


 

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