第6話 上杉謙信、石動山本陣にて漢詩を読む

 天正五年九月十三日(1577年10月24日)

 能登国石動山せきどうざん本陣。


 もうじき中秋の名月、今宵は十三夜。

 前日までの長雨のせいか空気が凛として澄み渡り、空に浮かぶ月が一回りほど大きいように見えた。そして僅かに欠けたそれは『後の月』とも呼ばれ、満月よりも好きだと古き女性歌人が居たという。


 上杉謙信は床几に座り、大振りの酒盃を傾けながら七尾城より届いた密書に目を落とす。内容は遊佐続光らに送り付けた内応に対する返事と七尾城内での惨状を報告するものだった。そうか、想像していた以上に凄惨な状況だったんだな。


 空からはキァキァと聞こえた為に仰ぎ見る、雁が空を渡っていた。海を超えた遠き先ではもう冬が近づいてくるのでこちらに渡ってくるという。とはいえここら辺も冬は雪も降るし冷えるのだから、もう少し暖かいところへ行けばいいのに。そう思い再び酒盃を傾けた。



 謙信は越後国春日山城を出立する前に、二つ文を用意した。


 一つは七尾城内で当家に宥和的な遊佐続光や温井景隆、三宅長盛への内応の密書だ。このまま力押しで七尾城を落としても良かったのだが、後にこの七尾城を使う上条政繫の事を考えてそれを避けたのだ。そしてせっかくの名城を灰塵にするなんて勿体ないし、復興に掛かる金や労力を考えたなら、遊佐らの手引きで落としたほうが良いだろう。


 それに人間は窮地になると尋常ならざる力にて抵抗するし、後に能登国を統治するのなら続光や隆景など使い、地元に知見のある者を抱えてた方が民衆らの心情の受けも良いだろう。次の一手を考えた文である。



 もう一つは加賀国金澤の尾山御坊に、越前国より侵攻してくる織田家への妨害工作依頼だ。進軍を遅らせたり弱体化させたり、なんなら撃退まで出来れば能登国の地盤強化の時間は稼げるだろう。場合によっては一向宗徒の連中らとの金や兵糧等の融通の窓口にはなるだろうという打算もある。


 ただ、軒猿を使って情報収集をしたところ、尾山御坊で幅を利かすこの七里頼周という男の評判がすこぶる悪い。自称“加州大将”の頼周の人望は皆無に等しく、数少ない取り巻きが持ち上げてるだけの『お山の大将』との報告も受けている。しかしそれでも加賀地方軍令だ、こういう輩とは宜しくやっていきたくはないのだが、使えるものは使おう。


 ただ頼周からの返信は、未だ無い。




     * * *




「春王丸様、どうぞしっかりしてくだされ! 春王丸様!」


 七尾城本丸の一角、小さな布団に横たわる幼児に声を掛けるのは長綱連であった。しかし春王丸の顔色は既に土気色になっており、どれだけ身体を揺さぶっても目を見開くことも声を上げる事も無いだろう事は想像に難くない。


 一年間は上杉謙信からの攻撃にも耐えた七尾城は既に風前の灯であった。


 謙信は兵に命令し七尾の町どころか近隣の村落に火をつけて回り、乱暴狼藉を働いた。そうすればそこに住んでた農民らは慌てて七尾城に殺到する。もちろんこれは謙信の罠であった。



 何せ七尾城は山の尾根に作られた堅城であったため、屎尿処理能力が皆無だったのである。



 本来なら下水なりを整備して排泄される屎尿を適切に処理すれば良かったのだろう。しかし近隣の農民らが殺到した為に便所の用意が一切足りず、皆があちこちに排泄物を捨てたのだ。これは今回に限った話では無く前回の攻防戦でも同じ状態だったそうだ。


 そこに目を付けた謙信の一計が、農民らを追い立てて城内に籠らせる事だったのだ。


 もちろん排泄物があちこちに放置されれば城内は劣悪な衛生状態となり病気や感染症が発生するのは想像に難くない。そうなれば身体の抵抗力が低い子どもや高齢者から高熱や下痢嘔吐、そして下血吐血を起こしてばたばたと倒れていく。長い時間を掛けて兵糧攻めにするより効率的だろう。


 しかし失う命は農民の子ばかりでなく、能登畠山家当主の春王丸も例外では無かったのであろう。


 こうなると重臣らは次の旗印となる当主を擁立しなきゃいけなくなる。しかし現在七尾城に居る畠山家の血筋の者は誰一人居なかった。むしろ誰か居るようなら、数え年で二つ三つとなるであろう春王丸を担ぎ上げる事は無かったはずである。


 こうなれば守勢の士気は著しく低下する。何せ誰の命令の元で働けばいいのか判らなければ、あっという間に守勢側が寝返るだろうし、最悪な衛生状況であれば場所から早く脱出してしまいたいと思うのは人として当然だろう。何せ体力の無い者から血反吐を撒き散らしてバタバタと息絶えてく地獄に居たい人間なんてまず居ないのだから。




     * * *




「し、しかしあともう少しで織田家からの援軍が来るんだ! 取り合えずもうひと踏ん張りして時間を稼ごう」



 何十度目かの評定だろうか、相変わらず長続連は檄を飛ばし続けていた。しかしそれを胡乱な目で見つめていたのが、ここ最近発言する機会を失っていた遊佐続光と温井景隆、三宅長盛の三人であった。



「あと、今夜は中秋の名月だ! その日ぐらいはちょっと豪勢な飯でも食って英気を養おうじゃないか、な?」



 そんな余裕、どこにあるんだよ。

 長盛はふと独り言ちる。しかし自分に酔ってるのか救援が来ると本気で信じてるのか、続連は長盛の独り言にも気づかずに熱く弁舌を続けていたのだ。


 三人はもう既に謙信への内応を受諾する密書を送っていた。もうこの城は落ちる、果たしてどうやって開城させるべきか。


 いつ終わるか判らない評定を座してぼんやり眺めていた所、遊佐続光が急に立ち上がる。そして腰に差してた小太刀を抜くと上座にいた長続連を突然斬りつけたのだ。皆が慌てて床几から立ち上がると腰だめに手をやる、しかし掴んだ束はいつもの太刀ではなく脇差だったようだが。


「続光、乱心ぞ!」


 続連の子、綱連が叫び脇差を抜くがそちらは温井隆景が小太刀で二度三度と斬りつけた。


「長盛、そちらは任せた! 長家の横暴を許すな!」


 続光がそう叫ぶ。長盛は今、自分が置かれてる立場が理解できた。斬るべく相手はいつも通りこの評定の間では脇差しか差してない、しかし内応を示してた遊佐家や温井家の者らはこの評定の間には脇差ではなく小太刀で入ってたのだ。僅か一尺程度の長さの違いだが、命のやり取りをするには十分な長さだったようだ。


 目の前で脇差を突き出す長家の者を長盛は小太刀を振り下ろして袈裟斬りにした。そして外で警備してた兵たちも乱入した。


 つまり続光は、今日の中秋の名月の日に謀反を起こすつもりだったのだ。




     * * *




 霜満軍営秋気清

  霜が陣営に満ちて、秋の気配は清々しい


 数行過雁月三更

  数本の筋となって飛び去る雁と、十三夜が南を過ぎる


 越山併得能州景

  富山や新潟ばかりでなく、ついに能登での眺望まで得た


 遮莫家郷憶遠征

  地元に置いてきた家族らは心配してるだろうが、(この眺望を得た事を考えれば)それはそれで仕方ないだろうか



 もうじき七尾城は落ちる。

 謙信は静かに詩を口にした。



「御館様、それは漢詩ですか」


 上条政繫が横に立っていた。笑顔で酒瓶を掲げるので謙信は酒盃を政繁の元へ突き出した。


「あぁ、七尾城からの絶景を見てから越後へ帰ろうって七言絶句だ」


「そうですか、良い詩ですから残しておかないといけませんね」


 政繁がそう言うと謙信は小さく頷いた。そして政繁は注がれた小さな酒盃を傾けた。


「ただ、越後に帰る前に寄り道をする。能登の仕置きは任せたぞ、政繁」


「御意にござります、御館様」

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