第3話 上杉謙信、動く
「ふぅ疲れたわい」
越後国春日山城。上杉謙信は自室に籠り一人ごちると酒盃を傾けた。ただその酒盃は一般のそれと比べて相当に大きく、小柄な謙信と比すれば随分と御大層に見えるだろう。まるで水を飲むかのごとく喉から音を立てて酒盃を空けると近侍を呼びお代わりを要求した。近侍も判ってるのだろう、すぐに襖が開くと空の酒盃を引き上げ
能登七尾城攻略は、北条家の関東北部へ大規模侵攻の恐れがあると報告を受けた為に留守軍をおいて引き上げた。しかし北条家を攻めるための橋頭保となる地の防衛の為に出陣したまでは良いが、発生したのは散発的で小規模な戦のみ。しかも越後国からの大軍を見て引き上げていったので完全に出鼻をくじかれたと言っていいだろうか。
しかし謙信自身は関東管領職、つまり関東一円の正当な管理者であり支配者なのである。その治安を揺るがす北条家は謙信にとって賊軍に過ぎないのだ。そのため正義の為の出兵だったと自身に言い聞かせてるが、このような散発的な戦闘を繰り返してたら兵たちは動揺するだろう。
朱塗りの酒盃に映る自身の顔を見つめながら今後の方針を考える。やはり喫緊の課題は能登畠山家のお家騒動だろうか。
あろうことか家臣達が自身の利権が失われたからと言って当主を追放して自分たちに
そして追放された義続・義綱父子は何度か復権しようと努力はした。しかも謙信も義綱の願いを聞き入れて七尾城に出兵したこともあるのだ。しかし越中国で椎名氏が反乱、その火消しのために上杉軍は撤退しており、そのせいか義綱はいくつか支城を落としたものの神明之地(※)で不慮の事態があったらしく撤退をしたのだ。その後も協闘依頼はあったものの義綱自身が
それなら正当な能登畠山家の当主は、現在は上条政繁を名乗る、義春であろう。天文二十二年(1553) に能登畠山家より上杉家に人質として来た彼は今では上条家の家督を継いでおり、それ相応の教育も受けてきている。能登一国を平らげた暁には彼に任せても良いだろうと思えるほどの御仁である。
しかし、能登攻略に当たって目下の悩みは三つ。
一つは加賀国に蔓延る一向宗徒。
彼奴らは義続・義綱父子を追い落とす時、重臣たちの権力闘争では必ずちらつく存在であった。しかも北陸の地は本願寺八代宗主の蓮如が各地に“講”を拵えて根気よく布教活動をしてきた結果、そして教えが簡単でかつ判りやすいのもあって各地で熱心な信者を増産してしまったのだ。
ひとたび彼らの指導者から仏敵と評されれば彼らは大規模に蜂起するだろう。そのせいで上杉謙信の祖父・長尾能景は越中国にて一向一揆との戦いにて戦死している。戦死は武家の習いと言えるかもだが───謙信にとって一向宗徒は敵でしか無い。
二つは現在長続連率いる家臣団。
どれだけ不仲な関係だろうが、沈みゆく船の上では手を取り合う。そのような故事があると聞くが畠山家でも同じことが言えたのだ。この前まで七尾城を包囲し、離間計や流言計をしても彼らの守りは堅く破ることが出来なかったのは課題と言えるだろう。
かの家臣団には長年溜め込んだ因縁がある、そう政繁が言ってたのを思い出す。特に七尾湾での海上輸送利権が絡んだ因縁を持つ遊佐家や温井家を揺さぶってみてもいいかもしれない。
そして最後は、織田信長の介入。
これもあちこちの民草に紛れてる軒猿からの報告だ。どうも孝恩寺の住職がここ最近不在らしく、越前国や近江国での関所を通った形跡があるとの事。きっと観音寺城の支城があった安土山に造営中の城に行ったと想像出来る。
「やれ、もしそうならいくつか手を打たなければ、な」
この織田信長という男、どうもせっかちな性格らしい。
信長の家老である丹羽長秀が安土山に縄張りを引き始めたと聞くや、いつの間にかその山に住み始めたと聞く。まだ何もできてないのに、荷車に色々詰めてやってきたと聞く。長秀が慌てて拵えた東屋に住み始め、城郭の一部が完成したと見るやそこに移り住み、また出来れば繰り返してると聞く。軒猿からも、徐々に住むところの標高が上がってると報告が来たこともあった。そんな上司の下で働く長秀の心労が目に浮かぶ。
その前は美濃国の稲葉山城に、麓から
そんなせっかちな男だ。今じゃ有名無実化した上杉家との軍事同盟なぞ無視して能登畠山家を救援に向かわせるだろう。この前せっかく頂いた
「おい、今すぐ文を書く。誰ぞ筆を持て!」
※神明之地
現在の七尾市神明町、JR七尾駅降りてすぐ、バスロータリーがある場所。地元の人なら『パトリアのあたり』で通じる。
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