3:王太子からの婚約破棄

 父と母は記憶喪失の私を見舞いにきたものの、アグスティナという妹だけは来なかった。貴族だというのに礼儀はどこにいってしまったのか。なんとも非常識な人だ。


 初日はバルタサルに最低限のルールやマナーを教えてもらい、眠りについた。


 次の日も、昨日と同じ天井だった。夢であればよかったのに。


「おはようございます、お嬢様」

「ごきげんよう」


 朝の挨拶に来たバルタサルに、しっかり貴族の言葉で返すことができた。


「本日は、午後二時より王太子殿下がお見舞いに来られます」

「殿下が直々に⁉︎」

「ご結婚予定の方とあれば当然でしょう」


 まぁ、そうか。妹が非常識なだけで。


「それまでは、少しずつわたくしとお勉強とお作法の練習をいたしましょう」

「承知いたしました」


 王太子の人柄はどうなんだろう。

 私が記憶喪失だと知って、どのような反応をしたのだろう。そして、私とどのように接するのだろう。


 私はまだ貴族の正しい敬語もたどたどしい人間だ。王太子に失礼がないようにしなくてはならない。


 いや、こういうときは誠意を表せば大丈夫だ。たどたどしくても、貴族の人とあれば誠意はしっかり伝わるだろう。






 午前中に、身の回りのことの勉強と作法を徹底的に仕込まれ、午後になった。


 バルタサルは十分ほど前に「もうすぐ殿下がご到着なされる」とお迎えに行ってしまった。私はまだ病み上がりなのでベッドにいてよいらしい。


 廊下の方から声が聞こえてきた。複数人の足音。二人ではない。もっといる。


 ドアがノックされ、バルタサルとカルロス王太子と付き人が二人、部屋の中に入ってきた。


「バネッサ殿、お体の調子はいかがでしょうか」


 そのように言う王太子は、目が大きく、顔のパーツが整ったイケメンであった。こんな王太子と結婚できるなら、毎日が目の保養である。


「――と言うとでも思ったか」


 一瞬にして見下すような顔に変わる王太子。 


「殿下、どういうことですか」

「今のそなたは、私が結婚しようとしていたバネッサではない。全くの別人だ」


 王太子は続けて理由を述べる。 


「前世が人間ではないと聞いた。ということは、畜生の魂が入り込んだのだな。私はそんな畜生と結婚するつもりはない」


 ち、畜生だって……⁉︎


 私の前世は妖怪だ。確かに私はきつねの妖怪だったが、動物の狐と九尾は別の生き物である。


「私は妖怪であったことに誇りを持っています。畜生呼ばわりなんて許せません」


 空気が凍るのを感じた。バルタサルが王太子から目を逸らしている。


「ほう、私に口答えか」


 やってしまった。あれだけ王太子に失礼のないようにとたたき込まれたのに。


「そのような態度ならば、我々との縁談は破棄させてもらう。内政にも外交にも影響があっては困るからな」


 王太子は懐から封筒を取り出して、中の紙を広げてこちらに見せつけた。


「二ヶ月前、バネッサ殿に書いてもらった、婚約誓約書だ」


 両手で婚約誓約書の上辺を持ち、ビリビリと破っていく王太子。何回も破り、床にき散らす。封筒も床に落とされると、足で踏みつけてグリグリと擦るのだ。


「所詮は畜生だからな! ハッハッハ!」


 そして、やることは終わったとばかりに、高笑いしながら部屋を出ていった。


 あれ以上、何も言い返せなかった。畜生だと言われたこと以外は、全て王太子の言う通りだからである。


 しかし、誇りを汚されたことには変わりない。

 私は怒りのあまり、封筒を拾って片手で握りつぶした。角が手のひらに刺さっても構わない。

 片手で握れないほど固くなると、今度は両手で握りしめていく。


 封筒が紙の塊になると、テーブルの横のゴミ箱に投げ入れ、捨てた。

 怒りで震えが止まらないとはこういうことかと、今、実感している。






「あら、お姉様のお部屋からたいへんにぎやかな音が聞こえましたことよ」


 ドアが開いて、いわゆるお嬢様言葉を話す人が現れた。嫌味っぽい言い方だ。


「あなたが、私の妹でしょうか」

「あら、本当にお忘れなのね。オーホッホッホ!」


 人の不幸を笑うとは、やはり非常識な人である。


わたくしは、アグスティナ・デ・ルスファでございますわ! あなたの『記憶喪失の病』とやらを移されたくありませんので、この距離から失礼いたしますわ」


 失礼と言って、本当に失礼をする人がいるだろうか。


「ああ、恐ろしいですわ〜! ある日突然、目が覚めたら別人の魂が入り込んでいるなんて〜。ねえ、バルタサル?」


 わざとらしく私をけなし、さらにバルタサルまで味方につけようとするアグスティナ。


「魂が変わろうとも、こちらの方はあなた様のお姉様でございます。失礼な態度を続けなさるようでしたら、然るべき措置を取らせていただきます」


 鋭い目付きをしながら、アグスティナの元へ歩いていくバルタサル。


「あら、それでしたら、こちらも報復措置としてあなたを解雇することもできましてよ」

「解雇のご判断は旦那様しかできませんので」

「…………」


 父は、昨日すぐに見舞いにきてくれたことから、アグスティナよりはまともな人だと考えられる。きっと父親には敵わないのだろう。


 アグスティナは黙ったままドアを閉めて、どこかに行ってしまった。


「大変失礼いたしました。彼女には再教育をいたします」


 バルタサルが勢いよく頭を下げる。


「ご心配なさらず」


 私の千年生きた勘でわかる。あれは教育なんかで直せるものではない。表面上は取り繕えるようになっても性根は変わらないので、言葉の端々に出てしまうものだ。


「私は、最初からあなたが味方であることだけで、とても心強いのです」






 王太子と私の婚約破棄が決まるとすぐに、王太子の婚約候補は妹になった。


「右も左もわからないであろうお姉様に、教えてさしあげますわ!」


 妹がまた冷やかしに来た。


「結婚適齢期は十九歳まで。十八歳のわたくしはまさに結婚適齢期! 婚期を逃した貴族に、男性はもう残っておりませんの! さらに婚約破棄となれば、もう生涯独身であることは確定ですわ! オーホッホッホ!」


 結婚しているわけではないのに、どうしてそのようなあおりができるのだろう。


 アグスティナはそれだけ言って、またいなくなってしまった。

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