第3話 宣告

 目覚めた集落は、突然の来訪者の剣呑な雰囲気に、宴の余韻までもめた朝を迎えることになった。

 ディーン族集落の長、パオドゥフは、長い衣のすそを擦りながらヴェレダの民を迎え、堂々とした佇まいで敬意の礼を示した。

 しかし、話を聞くなり短く驚きを口にした。長い眉の下で掠められる赤い目は、図らずも、人々の心に不安の影を落とす。


「聞け、皆の者。我らが友、水の民、ヴェレダの知らせを」


 しかし一族の長は、取り乱すことはなかった。ひとつ呼吸をおくと、あくまで淡々と、ことの次第を述べたのだ。

 心配をていしたさざ波は収まり、皆が固唾を飲んだ。


「この深いシンセロの森の先、河を越えた向かいの街が、何者かに襲われた。見る影もなく、一夜にして、滅びたそうじゃ」


 とたんに動揺が走った。ここから森を抜け、光を放つ大河を渡り、長く連なる白壁の尾根を目指せば一日経たずして着いてしまう距離だ。

 ヴェレダの男が片手を挙げて発言の機会を請い、尋ねる。

 彼は長い黒髪を後ろで束ね、成人の証である海蛇の刺青を、肩から肘にかけて彫っていた。


「森に住まうディーンの友よ、なにか異変を感じはしなかったか。昨日の大雨に紛れやってきた災いの手がかりを」


 みなしばらく顔を見合わせたが、心当たりはない。誰もかれもが子供たちの成長を祝い宴に興じていたのだから、無理もない話だった。

 しばらくして、パオドゥフが面々を見渡しながら呼びかけた。


「情報が欲しい。そこで、誰か、彼らと共に様子を見に行ってくれる者はおらぬか」


 するとすぐに、「俺が行きます」と声が上がった。

 カロンの剣の師であるクーダスだ。凛々しく精悍な顔をした中年の男に続いて、十代の青年から壮年まで、五人の男達が名乗りを上げる。


「クーダス、カイネル、ジャンドウ、フーラル、ハガサナ……頼むぞ」

「お任せください、族長」


 代表として、クーダスが礼を捧げた。

 一族の中でも、心身共に堅強で、剣の腕に覚えのある者達だ。彼らはさっそく、自身の家に戻って支度を始めた。クーダスもまたきびすを返したが、カロンの父、ケルトゼが呼び止める。彼は片足に膝からくるぶしまでを覆う革製の固定帯を付け、杖をついていた。

 かつて名剣士に数えられ、クーダスと親友同士、腕を競ってきた男だが、怪我が原因で足を悪くしては今回の偵察に同行することは叶わない。


「クーダス、お前にことは信頼している。だが、気を付けてくれ。悪い予感がする」


 声をひそめて、真顔のケルトゼが囁く。出立前の友人に不吉なことを言うのが憚られるのだろう。しかし、クーダスが気を悪くした様子はない。


「承知した。任せておけ、お前の良き好敵手に」


 口の端をそっと持ち上げたクーダスは、ついで、父の後ろにいるカロンへ視線を落とした。


「今日の稽古はないが、素振りだけは怠らずに。それが終ったら、皆をよく手伝ってくれ」

「はい、お師匠様」


 父の代わりに稽古をつけてくれるクーダスは、カロンにとって第二の父のような存在だ。素直にうなずいた弟子を見て、彼もまた、深く頷き返した。


 見送りには、カロンを含めた数人が同行した。

 河の畔は白く小さな花がそよぎ、涼しい風が抜ける心地よい場所だった。河の中ほどに、一直線に一筋、薄青色に見える場所がある。不思議と夜になるとぼんやり発光するため、「この辺りの心地よさに誘われ終焉の地に選んだ竜が眠る場所」と、まことしやかに囁かれている。真相は誰も知らない。というのも、一見穏やかに見える河の底には大海へ続く激しい水流があり、入るのはとても危険だったからだ。

 そこに、馬に似た水色の生き物が、綱で繋がれ首まで河に浸かりながら、青い眼でこちらを見ていた。

 ヴェレダの人々は海馬――彼らの言葉でマールセルヴォと呼ばれる生き物を飼いならしている。陸を駆ける馬より一回り大きく、体毛の代わりに薄水色の鱗を纏っている、水中を駆る美しい生き物だ。

 警戒心が強く、乗りこなすのも至難の技を極める生き物だが、ヴェレダの民はこの海馬をうまく乗りこなし、水面近くを走らせることで、乗り手は足だけを水中に入れたまま移動する術を手に入れた。

 水辺に住む一族にとって、海馬との共生は都合がよく、欠かせないものの一つになったのだ。

 ディーンの男達は、海馬に乗ることに慣れていない。

 ゆえに、ヴェレダの民のあとにつづき、海馬にまたがった後は彼らの背中に強く抱き付くしかなかった。剣が濡れぬよう膝の上に渡しながら、居心地が悪そうに、ひっそり渋面をする者もいる。

 実はカロンは、初めて見たこの生き物に乗ってみたいと思っていたのだが、到底そんなことを言い出せる雰囲気ではなかったので、黙って見つめるだけに留めておいた。

 乗り手の合図で海馬は駆け出した。どぷりと音を立てて水を掻いたかと思えば、素晴らしい速さで河を渡っていく。上に乗る人間は水を切り白波を立てながら、どんどん遠ざかっていた。

 羨ましい反面、おそろしくもある。森の民であるディーン族の大半は、泳ぐことができないのだ。


 紫と橙の空に、桃色の雲がたなびくまで、カロンは言われたとおりに素振りをして、よく一族のものを手伝って過ごした。今日に限って、父ケルトゼは常にカロンの傍にいた。足が不自由だが、杖を突きながらも軽い足取りでカロンの横に並ぶ。普段を過ごす分には差し支えないとは、本人談だ。


「だいぶ、剣筋が綺麗になったな」


 日干しした肉の向きを変えながら、ぽつりと彼は言った。


「そうかな?」

「ああ、上手くなったよ。よく頑張っているな」

「素振りだけでわかる?」

「素振りでわかるのさ。基本を見くびっちゃいけないぞ。基本はどこまでだって磨かれるからな。よく捏ね練られた土と、捏ねの甘い土とでは、同じ技術を持って焼いても器の出来が違うように」


 そう言いながら差し出された干し肉の欠片を頬張り、奥歯で噛みしめながら「お師匠様と同じこと言ってる」とカロンは返した。


「そりゃそうだ。クーダスと父さんの剣の師は同じだから。クーダスは良い競い相手だったよ。このくらいの時間まで取っ組み合って、毎日泥まみれになって帰ったもんさ」

「毎日? よく飽きなかったね」

「夢中だったんだよ。と言っても、大体、朝に木刀担いで家の先に立っているのはあいつでさ。俺はまだ眠いのに引摺りだされてた。でもやってるうちに不思議と、眠いのなんか忘れて打ち合ってるんだよなぁ」

「私、お父さんに似ちゃったんだ。眠いのにお師匠様が呼びにくるもん」

「はっはっはっ! 親子そろって世話になってるなぁ、クーダスには」


 目元の笑い皺を深くして歯を見せたケルトゼは、懐かしむように目を細めて、自身の長い影を見つめた。


「……本当はな、父さんが、お前に剣を教えてやりたかったよ。けど、足を悪くして満足に教えてやれそうにないってなったとき、名乗りでてくれたのがクーダスだ。武者修行の旅から帰ってきたばっかりで、自分の家に帰るよりも先に父さんの所に来て、そう言ってくれたよ」

「そうだったんだ」

「しかも、まだお前が母さんのお腹の中にいるのにな」

「ええ? 約束するの早いね」

「早いよなぁ、やっぱり」


 顎の下を掻き、「せっかちだったなぁ」と懐かしむ彼は、とてもやさしい目をしていた。


「でも、本当にいい男だ。カロン、お前は生まれて来たとき、まだ開くはずもない手の平に、風の渦を持って生まれてきたんだ。小さな手の中で、青白い風の渦が巻いて消えた。そりゃあ騒ぎになったさ。久しぶりの『霊剣使い』の誕生だったから」

「爺様から聞いたよ。みんな驚いたって」

「ああ、みんな驚いた。でも、クーダスは決して約束を破ろうとしなかった。自分は霊剣を使えなくても、お前は使うことができるようにと、毎日あの祠に行って壁を調べたり、森の中で瞑想して霊気を感じ取ろうとしたり、『全部任せておけ』と言って譲らなかった」


 カロンは黙って聞いていた。


「……お前が霊剣に成功したとき、手放しにお前を褒めていたよ。俺が出るまでもなかったってね」

「そんなことないのに。集落のなかじゃなくて森の中で稽古したから、勘が掴めたんだよ」

「ああ、でもクーダスはそんなこと言わなかった。稽古に熱が入ることもあっただろう。けれど、お前を周囲の過剰な期待からも守ってくれていた」

「……うん」

「本当に、偉大な男なんだよ。お前のお師匠様は」


 空はゆっくりと夜の帳を纏い、森の上には一番星が輝いている。


「……早く帰ってくるといいね」

「帰ってくるさ」


 杖を掴んだ父に続いて、カロンは香草の詰まった麻袋を担いだ。ふたりは帰路に着く。母が待つ家へと、ゆっくりした足取りで向かって行った。

 父がなぜこの話をしたのか、ずっと考えながら。


 男達は翌日の夕方に帰ってきた。

 一族総出で迎えたが、誰から見ても、彼らは疲労困憊の極みにあった。あれほど丈夫な男達が、歩くたびに体を大きく左右に揺らし、目は落ちくぼんで、語らずも地獄を見てきたことを物語っていた。

 カロンも走って彼らの元へ出向いたが、到底、声をかけられる様子では無かった。それでも、師の姿を見つけると思わず声が出た。


「お師匠様」


 ゆっくりとクーダスが振り返る。五人の中で一番、気を強く持っている彼ですら、肩を重そうに下げている。


「……酷いありさまだった」


 苦虫を噛み潰した表情で、言葉少なに、クーダスは言った。


「お前たちには見せたくない光景だよ」


 そのときカロンは見た。クーダスの爪の間が、黒々と汚れ、ぼろぼろに欠けていたのを。

 『地下の国送りカーダサント』をしてきたのだ。遺体を土に埋め、悪しき精霊に魂が攫われ惑わされないよう、聖なる力をもたらす石を積み上げる。石というものは、堅実な土の精霊の力を吸い込み、蓄えて、長年育まれたものだ。死者の魂を守り、正しく地下の国へ導く道しるべになる。

 ――時間がかかるわけだ。酷い光景を目にしながらも、かの街の犠牲者を弔ってきたのだろう。

 傍にいた女たちがすぐに湯あみと食事、そして寝床の準備をしようとしたが、クーダスは四人だけを先に行かせて自身は断った。せめてもと差し出された濡れた手拭いでごしごしと顔と首筋を拭くと、

「族長はいずこに」と、左右に視線を振った。


「儂はここじゃ、クーダス。ご苦労じゃった」

「当然のことをしたまでです。それより、すぐにお伝えしたいことがあります」

「よかろう。儂の家でいいかな」

「ええ」


 連れたって行くふたりのために、人々は道をあけた。その背を見送るカロンだったが、不意に父に背をたたかれて、その場をあとにした。最後に、肩越しに師と祖父を見ようとしたが、もはやそれは叶わなかった。

 カロンは家で大人しくしているよう言われた。集落はやはり浮足立っている。窓からそれを見ていたが、そんな彼女の気を紛らわせるように、母は芋の皮剥きの手伝いをさせた。


「焦ったってしょうがないときもあるわよ。でも、今できることを、今のうちに終わらせることはできるでしょ」


 さっぱりと、そう言いながら。

 しかし時間が経つにつれ、カロンはますます落ち着かない心持ちになった。というのも、集落の大人たちがどんどん祖父の家に呼ばれて向かっているらしいのだ。話し合いは夜まで続いた。井戸まで水を汲みに行って、家から明かりが漏れているのをみると、つい覗いてみたくなる。しかし、そっと近づいてみても、入り口に立っていた大人に見つかって「早く帰りなさい」と促されてしまうのだった。

 手に桶を持ったまま立っていても仕方がないので、その言葉に従い、帰ろうとする。しかし彼女を呼びとめるものがあった。それは、人ではない。誰かに名前を呼ばれたわけでは無い。カロン自身、なぜ自分がいま足を止めたのか、しばらく分からずにいたくらいだ。

 やがて理由が分かった。集落の中はざわついているのに、その外が、いやに静かすぎるのだ。鳥の鳴き声はおろか、虫の声すらしない。シンセロの森が、静まり返っていた。

 カロンは急いで帰って水を汲んだ桶を置いてくると、その足で森を目指した。手に持っているのは、出るときに掴んできた松明だけだ。集落を走りながら、途中の篝火に差し込んで火種をもらい、誰かに見つからぬうちに森へと入った。

 夜の森は相変わらずの白と黒の世界だ。しかし考えは的中し、木々も獣も、みな息を潜めたように重苦しい空気が流れている。葬式のような沈黙を守る森。こんなのは、初めてだった。


(どうしちゃったんだろう)


 シーピース達は木々の間を縫い、しかし彼女たちですらも声を潜めていた。

 まるで、何かを慮るかのように。

 その囁きに、カロンは己のうちの魂が共鳴するのを感じた。何かが起きる。直感が告げる、予感。肌が粟立つ感覚。目には見えなくとも、脳裏に閃く確かな光景。

 そして、は起きた。

 突如、あたり一面の霧を吹き飛ばさんばかりに旋風が巻き起こる。強烈な蒼い風に、シーピース達は声をわななかせながら靡いた。

 カロンもとっさに腕で顔を覆った。松明の火は早々に靡いて吹き消える。

 風に乗った幾枚もの木の葉が、小石が、川を下る魚のように勢いよくぶつかり流れていく。息を止めた。そして肌で感じた。烈風の中に、確かに涼やかな、聖なる気配があることを。

 銀盤の月を、大きな翼を持った獣の影が隠した。

 逞しく空を駆る四本の足に、力強い翼。馬のようにしなやかで豊かな尾が弧を描き、高らかに響く咆哮が、闇夜を揺らした。


 ――戦が起きる。


 低く、威厳あふれる声が頭に響く。王者たるものの風格を帯びた声だった。


 ――この大陸は死に絶え、やがて戦火は世界をも包むだろう。このままでは、地下の国が動く。

 ――空から告ぐ、剣を持て、霊剣使い。導かれるままに探し出せ。そして命じよ、この世界に、暗闇を照らす黄金の時代を――


 そこまで言った大いなる獣は、唸るような風を巻き上げて、さらに上空、遥か彼方へ消えていってしまった。

 しかし、カロンの頬に、風に乗って運ばれてきた滴が当たって跳ねた。思わず手の平で拭ってみると、生ぬるい鉄さびの匂いがする。

(血……?)

 はっとして顔をあげるが、そこに獣の姿はない。

 怪我をしていたんじゃないだろうか。しかし、いまのは何だったのだろうか。狐につままれた気分で立ち尽くしていると、背中に大声がかかった。


「カロン! お前、なにをしている!」


 クーダスが血相を変えて駆け寄ってくる。

 そして手にした松明を近づけるなり、眉をしかめてカロンの頬を親指で拭った。


「お前、怪我をしたのか」

「……いえ、大きな鳥みたいのが、怪我をしていて」

「大きな鳥?」

「……みたいな。今はいないですけど……」


 自分でも夢をみたような覚束ない心持のため、自身を持って伝えることは難しかった。

 翼を持った獣は遥か彼方へ消えた。本当だろうか? 今見た景色は、本当に起きたことだろうか?

 しかし、己の頬で渇き、張り付くこの血は、疑いようのない事実の証明だった。


「剣を持て、と言われました」

「剣?」

「探し出せって、黄金の時代を……どうとかって」


 みるみるうちに、クーダスの目が見開かれる。

 そしてカロンの両肩をつかんだまま、しばらく考え込むように黙った。


「お師匠様……?」

「……カロン、とにかく帰るぞ。族長がお呼びだ」

「爺様が?」


 胸に一抹の不安が湧き起る。周りでざわめく木の葉の擦れが、胸にも移ったように。一夜のうちに、何度心臓が騒ぐのだろう。

 手を引かれて帰り道を急ぐ。木々の間からまっすぐに降りてくる月光の梯子は、まだらに行く道とふたりを照らす。昨日の森とは大違いだった。

 ――これは、本当に帰る道なのかな。

 いつの間にか木々からこちらを窺ってくるシーピースを振り返った。木々に細い指を添えた彼女らは、まるでカロンの不安が伝染したように、悲しげな声も出さずに黙って見つめてくる。


 戻ってきた集落は静かだった。

 クーダスはまっすぐにパオドゥフの住居までカロンを連れてきて、自分は壁側に避けて座った。他にも、集落の重鎮が壁に沿って並んでいる。語り部の婆の姿もあった。

 両脇を固められながら、カロンは落ち着かない心持で部屋の真ん中に腰を下ろした。そこに、座れと言わんばかりに藍色の織物が敷いてあったのだ。

 ちょうど、パオドゥフと正面から向かい合う形になる。


「来たか、カロンや。どこへ行っておった」

「……森の様子を見に。様子が、おかしかったので……」

「ならば一声かけて行きなさい。あのような事件があったあと、不用心にもほどがあろう」

「……すみません」

「今後は気をつけることじゃ。今後は、な」


 祖父の言い方に、妙な引っかかりを覚える。よく見ると、こちらを見つめる大人たちは、怒りや責めてくる気持ちではなく、こちらを心配するような眼差しを向けている。

 一言で言えば、。眼差しが、そう言っている。それは、一見厳しい表情を湛えたパオドゥフも例外ではなかった。揺らぐ瞳は、決して部屋を照らす火が躍っているせいではない。

「いいか、よくお聞き。カロン、風を持って生まれた子。英雄の血をひく霊剣使いよ。我々は今宵、ひとつの結論を出した」

 朗々とした声が部屋に響く。まるで自分を讃えるような、他人行儀のような祖父の声は、この日一番の衝撃をカロンに与えた。

「今晩、集落を発て」

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