第18話 研修
岡部は、厩舎を後にすると真っ直ぐ事務棟に向かった。
事務棟は厩舎に比べると始業がかなり遅いらしく、これから始業の準備をしようというところだった。
職員はすみれ以外に、中年女性一人、青年男性三人、壮年の男性一人の計六人しかおらず、事務室もかなり狭い。
岡部が顔を出すとすみれはすぐに気が付き、窓口に寄ってきて挨拶をした。
「まだ研修始まるまでかなり時間あるけども、こないに早うどうしたんです?」
早く来て厩舎の仕事を見ていたと言うと、すみれは、感心、感心と満足げな顔を向ける。
戸川から、ここに来たら珈琲が飲めると聞いたと岡部が言うとすみれは笑い出した。
「戸川先生ね。ここの珈琲美味しい言うて、よう飲みに来はるんよ」
ちょっと待っててと言うと、すみれは事務室の向かいの給湯室に行き二人分の珈琲を持って帰って来た。
事務室横にある休憩所に二人は腰かけた。
先日もらった名札は、本当は厩務員の研修が終わった際に渡されるものらしい。
ただ、厩務員のほとんどが研修前に厩舎が既に決まっているので、先に手渡すことにしているのだとか。
ただし、資格の無い状態で竜の世話を行ってしまうと罰せられるので気を付けてね、すみれは人差し指を立ててほほ笑んでいる。
すみれは普段話し相手がいないのか、とにかく一方的に色々喋っている。
岡部がすみれの話を聞きながら珈琲を啜っていると、一人の男性がやって来た。
年齢は戸川と同じくらいだろうか。
中肉中背という感じで顔はかなり顎がしっかりしている。
パーマを当てているのか天然なのか、かなりボリュームのある髪型が特徴的である。
よく見ると目つきが鋭くかけている眼鏡の色が濃い。
吉川先生同様、パッと見は完全に反社の人である。
「すみれ。昨日言うてた転厩の紙持ってきたで」
岡部が男性に会釈すると、男性は笑顔を浮かべ、お邪魔だったかなとすみれを茶化した。
「叔父さん、何言うてはんのよ! 私はただ珈琲淹れたげただけで……」
「そしたら俺にも珈琲淹れてくれ。キンキンに冷えたやつな」
すみれは暫く露骨に憮然とした表情をしたが、男性にせかされ、ぶすっとした顔で珈琲を淹れに行った。
岡部は改めて男性に自己紹介をした。
「へえ。戸川さんとこの。俺はすみれの叔父で
そう言うと、南条は岡部に握手を求めてきた。
手が非常にごつごつしている。
「じゃあ、すみれさんは先生の関係でここに?」
「あれの祖父が『
「ということは南条先生も、その会長さんの血縁なんですね」
「うちの嫁があれの叔母や」
そうなんですねと相槌を打ち、岡部は珈琲をひと啜りした。
横に座り足を組んでいた南条が、突然机に前のめりになり岡部に顔を近づける。
「ところで君、あれのことどう思う? 俺はなかなか良え物件やと思うんやが」
そこに珈琲を持ったすみれが現れた。
「叔父さん、何の話をしてはんの?」
「彼の借家の話やがな」
「絶対嘘や!」
すみれは憮然とした顔で、南条に淹れたてと思しき熱々の珈琲を差し出した。
すみれと南条はその後も、注文が間違ってるだの、ここは喫茶店じゃないだのとあれやこれや言い合っている。
だが口では南条に一日の長がある感じである。
南条は珈琲を飲み終えると席を立った。
僕もそろそろと岡部も席を立つと、すみれが三人分のコップを片付けだした。
「いつでも珈琲飲みにきてくれて良えからね」
すみれは岡部の顔を見て優しい声で言った。
「なんや、こっちとはえらい待遇の差やな」
「あら、待遇は一緒よ? 接客が違うだけで」
すみれは南条の顔を見て煽るような表情で言った。
「改善を要望する!」
「極めて困難やけど善処します」
「絶対する気ないやつやろ、それ!」
さんざんすみれをからかって、南条は笑いながら帰って行った。
午前中の研修部屋は事務棟の二階だった。
岡部は梨奈から貰った筆入れを机に置いた。
中を開けると、シャープペンと赤と青のボールペン、消しゴムが入っている。
それと小さな文字でがんばってと書かれた小さな桃色の紙が入っていた。
暫く待つと研修担当が入室した。
岡部が仰々しく挨拶をすると、研修担当の男性はくすりと笑った。
「戸川くんの知り合いなんだってね。二人きりだから気楽にしてくれたら良いよ」
男性は、おもむろに岡部の横の椅子に座った。
担当は『
比較的背が高く、さらさらした白髪混じりの髪を真ん中で別けている。
実は戸川とは同期の開業なのだが、成績が振るわず廃業したのだそうだ。
その割には戸川よりも少し若く見える。
……息が少し酒臭い気がする。
座学は競竜全体のものと呂級限定のものがあり、初日は競竜についてのものだった。
恐竜と人との歴史から始まり、産業革命で絶滅危機が叫ばれたこと、国際競竜協会の設立、瑞穂国内の競竜の歴史。
これまである程度戸川から聞いていた競竜についての基礎知識をより詳しく学んだ。
残念ながら、岡部は熱心ではあるのだがそこまで頭の出来が良いわけでは無いのか、途中の小試験の結果は散々だった。
戸川からは昼食になったら厩舎に戻ってこいと言われている。
すみれからも日野からも昼食に誘われたのだが、丁重に断って厩舎に向かった。
厩舎に顔を出すと、戸川が奥さんの作ってくれた二人分の弁当を取り出した。
蓋を開けると特製のり弁が姿を見せた。
弁当を持たされたのは何年ぶりだろうと、戸川は噛みしめるように食べている。
普段は事務棟の横に食堂があり、そこできつねうどんを啜っているのだそうだ。
「あそこのきつねうどんは、あれだけで店出せる代物やから、機会があったら食べてみたら良えよ」
出入りの記者も楽しみに食べていくのだそうだ。
戸川と日野の話や研修の話をとりとめもなくしていると午後の実習の時間が近づいた。
午後の実習は使われていない調教場を使って行われる。
日野は一頭の竜を簡易竜房に繋いで待っていた。
竜牙への
やればやるほど馬と似ていて、午前中の座学とは異なり非常にやりやすい。
十分引き運動を行ったところで、いよいよ竜に乗る事になった。
竜の背から見える景色は数日前までは当たり前に見ていた景色だったのだが、非常に新鮮なものを感じる。
轡には『
竜は、かちゃかちゃという馬よりも少し高い蹄の音を立て歩き出す。
手綱をゆっくり引き竜を停止させると竜から降りた。
竜を調教場から竜房横の洗い場まで曳いて行く。
鞍と鐙を外し竜を水洗いしブラシで全身をこすると、竜は心地の良さそうな鳴き声をあげる。
その鳴き声は全く馬のそれではなく、どちらかというと大型の鳥のそれだった。
よく見ると顎の下に喉を守るように何枚か鱗が生えていて、そのうちの一枚が逆に生えている。
日野の説明によると、この鱗に触れると竜は非常に不快感を覚えるらしく暴れ出してしまう。
その為、手入れの際に触れないように注意が必要なのだそうだ。
膝から下には体毛が無くぼこぼこした肌が剥き出しになっていて、三又に割れているように見えた蹄は後ろ側にも蹄があり四又に割れている。
尻尾も馬のように長い毛がまとまっているのではなく、少しだけ皮膚が突き出ていて、そこから尾が生えている。
抜けた毛を見ると付け根に細く硬いストロー状のものが付いていて、それが長く細い尾羽だということが確認できる。
一見すると馬のようなのだが、詳しく見れば見るほど、なるほど馬ではない。
予定より早く午後の研修を終え厩舎に戻ると、戸川は帰り支度を終え厩務員と雑談をして待っていた。
戸川は岡部を見ると厩務員に挨拶をし厩舎を後にした。
二人は車に乗り込みゆっくりと家路についた。
「馬に似てますが、確かにあれは竜でした」
戸川はそうだろうと自慢げな顔をした。
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