第5話

 麻布十番の商店街から麻布の高台へ通じる、急な坂道がある。

 暗闇坂という名の、薄暗い坂だ。片側は切り崩した崖の側面で、もう一方はオーストリア大使館に続いてマンションが並ぶ。坂を登りきり、住宅街を進めむと、有栖川公園にぶつかる。

 あの同窓会の夜、漣子はその坂を、心もとない足取りで進んでいった。坂は真夜中の静けさに包まれ、石畳を歩く漣子の足音だけが響いていた。

 

 私は今、小山との待ち合わせに向かいながら、最後に見た漣子の姿を思い出している。

 

 店を出る間際、私は榛原と話しこむ漣子を呼び出し、河野からの伝言である待ち合わせ場所を告げた。

 わかったわ、ありがとうと応えた漣子。

 小山に声をかけられたのは、漣子に伝言を告げたあと、商店街を帰路についたときだった。


「漣子は?」

 声のしたほうに振り向くと、小山が車道に止めた車の中にいた。

「彼女なら鳥居坂の方へ行ったわよ」

「なんのために?」

「――さあ、知らないわ」

 小山は運転席に坐ったまま、何かを考えているふうだった。

「漣子に用があるんでしょ?」

「――ああ」

「だったら、すぐ行くといいわ。彼女、たった今向かったばっかりよ」

 

 今思い返しても、あのときの私はどうかしていたとしか思えない。あのとき私は、なんとかして小山の嫉妬心を煽ろうとしていた。自分の心に燻る嫉妬心を、小山の中で燃え立たせたかった。

 急かす私に、瞬間戸惑った小山。あのときの小山を思い出すと、今でも胸が痛む。

 もし漣子を殺したのが小山なら、その動機の一端は私にあるのではないか。小山が河野と鉢合わせれば、河野の気持ちが変わるかもしれない。私がそれを期待していなかったと言えば、嘘になる。惨めな暗い心の奥で、私は河野への未練を消せなかった。



 小山との待ち合わせは、小山の事務所があるという建物のエントランスだった。

 近くまで来たからという見え透いた私の言い訳に、小山はすんなりと承諾の返事をした。そして小山は、会うなり、声をひそめて言ったのだった。


「新聞を見たんだろ」


 健康的に日に焼けた顔は、ほとんど昔と変わらない。

 私は現在の小山が、充実した生活を送っていると見た。人材派遣会社を興していると噂では聞いていたが、同級生たちの揶揄をよそに、案外うまくいっているようだ。まわりが受験一色になった時期でも、懸命にテニス部の後輩の面倒をみていた小山は、人を使う商売に向いていたのかもしれない。


「誰かと話したかったんだよ。あの記事は漣子じゃないかと思ったから」

「どうしてそう思ったの?」

 私は小山の目を覗きこんだ。

「ピアスだよ、ダイヤの」

 小山もピアスから漣子を連想したのだ。

「あの夜、三次会のあと、漣子を追いかけたんでしょう?」

 小山は目をしばたたいた。

「そして漣子に会った。あなたが漣子を見た最後の人物ってことになるわね」

「ちょっと、待ってよ」

 私が何を言いたいのか、小山はわかったようだった。


「まさか僕が漣子をどうかしたと思ってるんじゃないだろうね」

「私が知っているのは、あなたは私に漣子の行先を聞いて、漣子の後を追おうとしたってことだけ」

「知らないよ、僕は。漣子があの夜どこでどうなったのか」

「白骨死体は神奈川県の山林だったって新聞に書いてあったわ。あの時間、当然もう電車は動いていなかった。誰かが漣子を車に乗せて」

 あの日、車で来ていた。酒を飲まない代わりに、買ったばかりの高級車を自慢したかったのだろう。

「違う、違うよ」

 そして小山は、噛み締めるように付け足した。


「僕は漣子に会わなかったんだ。僕は追いかけなかったんだよ」

「追わなかった?」

「そうだよ。僕は漣子にどうしても確かめたいことがあった。それで君に彼女の行先を訊いたけど、結局行くのをやめたんだ。もうどうでもいいと思ってね」

 坂を上っていく漣子の姿が思い出された。さびしげな漣子の後姿。

「もちろん、心配ではあったよ。あんな体だったから」

「あんな体って?」

 瞬間小山の表情が、硬くなった。

「漣子は妊娠してたんだ。僕があのあと漣子の行先を知りたかったのは、彼女に会って相手を確かめようと思ったんだけど」

 漣子が榛原に打ち明けた妊娠は、冗談ではなかったのだ。


「僕は追いかけて訊かなかったんだから、相手を知ることはできなかった。でも、僕じゃないことだけは、はっきりしてる。僕はあの同窓会で漣子に会うまでの半年間、アメリカへ短期留学していたんだからね」

「漣子が妊娠してるのを、いつ知ったの?」

「二次会で行った居酒屋だよ。まるで他人のことみたいに、漣子は自分の体の変調を告げたんだ」

「あなたのほかに、そのことを知ってる人はいたのかしら」

「その場にいたのは、河野だけだ」

 私に伝言を頼んだ河野も、二人きりで会って、相手の名前を訊き出したかったのだろう。


「そういえば」

 小山は遠くを見るように、目を細めた。

「あのとき、河野はひどくショックを受けてたな。顔色が変わってたよ。もちろん僕だって驚いたけど、いままでの付き合いを考えればあり得ないことじゃない。だから、河野の反応は大きすぎると思った」

 その先は、聞きたくない。

「父親は河野だと思うんだ。そうだとすれば、あいつの反応に納得がいく。僕だって、自分の子だと確信したら衝撃を受けただろうから」

 悲しみが私を浸していった。

「河野は苦しんだんじゃないかな。漣子は産むつもりだって言い張ってたから」

 困惑した河野の顔が見えるような気がした。産むと思いつめた漣子。それを阻止しようとした河野。そして諍いの末に、河野は漣子に殺意を抱いた……?


「――もういいかな」

 私の想像は、小山の声で断ち切られた。小山が腕の時計を見た。ビジネスの顔になっている。

「漣子だとわかったら」

 店を出ると、小山は言った。

「知らせてくれるかな。墓参りに行きたいんだ」


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