第2話

 書店で買った数冊の本を手に地下鉄を乗り継ぎ、自分の暮らす街へ着いたとき、あたりは淡い暮色に包まれていた。駅前の大通りに沿って延びた高速道路の橋桁が、夕日のあたたかそうな朱に染まり、立ち並ぶマンションの窓は、反射鏡のように光っている。

 空腹を覚えたが、外食をする気にはならなかった。

 女ひとりでレストランに入るのは、やっぱり気が引ける。

 花屋の前を通ったとき、硝子越しに見えた薔薇の花にかすかに心が動いが、結局そのまま通りすぎた。去年もその前も、私は誕生日をひとりで過ごしている。

 

 マンションに着いて、郵便受けからダイレクトメールと夕刊を取り出し、ひっそりとしたエントランスをエレベーターに向かった。私の部屋は最上階の十二階にある。

 

 ここを買うと決め長い年月のローンを組んだとき、私には、おそらく自分がずっとひとりで暮らしていくだろうと、そう思っていたふしがある。値段が高かった最上階を選んだのも、いつまでも飽きのこない物件を求めていたからだ。おかげで今でもここで暮らすことに満足し、そしてはじめの予想通りひとりで生きている。

 

 着替えを済ませシャワーを浴び終えたとき、母から電話がかかってきた。私の誕生日を覚えていてくれたらしい。ダイニングの椅子に坐り、夕刊を眺めながら話をした。

 三十五歳を過ぎたあたりから、母は私の結婚について何も言わなくなってしまった。都内の小さな家を売って春日部に移ってから、話題は専ら妹夫婦にできた子供の話ばかりだ。甥の健也が歩けるようになったと聞き、夕刊を畳もうとしたときだ。私の視線は、三面の端にあった小さな記事に吸い寄せられた。

 それは神奈川県の山林で、白骨化した女性の遺体が発見されたことを知らせる記事だった。遺体は死後十年ほどを経過していると見られ、胸部の骨に残った傷から、他殺体であると推定されている。遺体の推定年齢は二十歳から三十歳。身元は不明だが、いくつかの遺留品があった。朽ち果てて色や形が判然としない衣服の破片。その衣服に付着していたとみられる釦が数個。そしてダイヤのピアスが一個。

 

 私はその短い記事を、もう一度読み直した。


 電話の向こうの母の声が、どんどん遠くなっていく。心臓の鼓動が早くなった。両手にもじっとりと汗が滲み出てきた。

――ね。気づかなかったでしょ。

 あのときの蓮子れんこの声が蘇ったような気がして、私は思わず顔を上げた。

――私だけの秘密なのよ。

 あれは卒業を間近に控えたある午後だった。早春の光にふときらめいた硬質の輝きを、私は漣子の耳に認めた。普段漣子は長く髪をたらし、耳を見せることはなかった。

 私がそれを知ることになったのは、漣子の首を飾っていた細いネックレスの鎖がからまったせいだった。

 はずしてくれない? そう言われて、私は露わになった漣子のうなじに顔を寄せたのだった。

 

 ほのかなシャンプー剤の香りとともに、そのとき私は漣子の耳の輝きを見つけた。 

 それまで気づかなかったのは、そのピアスが、ちょっとめずらしい場所にはめられていたからだった。小さなダイヤの粒は、耳の上部の外側に、こっそり隠れるようにくっついていた。

「本物よ。きれいでしょう?」

 うらやましいと、思った。だが、私が妬んだのは、高価なその輝きにではなく、ピアスの輝きなどあせてしまいそうな、漣子の白いうなじのなめらかさだった。

 

 上の空で返事をする私を訝る母との電話を強引に切り、私は両手で顔を覆った。

「偶然に決まってる……。別の誰かに決まってる」

 何度呟いても、広がった不安は消せなかった。



 東に向いた部屋の窓がうっすらと白み、鳥の声も聞えはじめた。

 結局私は眠れぬまま、朝を迎えた。

 何度も眠ろうとしたが、そのたびに、ホテルで聞いた見知らぬ男性の声が耳の奥に響き、気持ちを静めることができなかった。夜の闇の中で、男性の声は私を誘うように木霊した。暗い土の中から蘇った漣子が、男性の声とともに徘徊する妄想が、私を悩ました。

 

 時計を見ると、五時を過ぎたばかりだった。私は思い切って立ち上がり、シャワーを浴びることにした。いつもの朝と同じように手早く身支度を終え、簡単な朝食を済ませた。まるで体が機械化されてしまったかのように、動作に迷いはなかった。ところが心の中は、ひとつの問題にぶつかり、また突き進んで、苦しい逡巡を繰り返した。

 職場でも、気持ちは乱れたままだった。この春から新しく入ってきた生徒のファイルをパソコンに打ち込んでいても、昼休みに企業会計の英文書類を読んでいても、神経を集中させることはできなかった。

 

 まっすぐ警察に行くべきか。一日中、私を苛んだのは、この問いだった。

 

 すぐにでも行くべきだと思う私に、もうひとりの私がブレーキをかける。

 

 もし遺体が、漣子その人であったとき、殺したのはきっと彼であろうと。この結末を、直視する勇気が私にあるのか――?

 ふと気づくと、私の視線は、いつのまにか、机の上の電話を見つめていた。手を延ばして警察に電話することが、私の使命ではないのか――。

 

 夕方になっても、まだどうするべきか答は出なかった。夜間部の生徒が廊下に溢れはじめ、遅番の事務員と交代する時間になった。のろのろと机の整理をはじめたときだ。職場で唯一の友人である講師が、先週貸した本を返しにきた。ついでに軽い雑談を交わす。

 講師の横顔に、ひとりの教師の顔が蘇った。彼もこの講師同様、生徒から人気のある教師だった。私は机の整理をそのままに、パソコンの画面に向かった。△○高校。検索結果はすぐに出た。時刻はすでに六時を回っているが……。

 

 まだ帰宅していませんように。私は祈るように電話の呼び出し音を聞いた。もし先生――三年のとき担任だった織田先生――が昔と変わっていないなら、まだ学校に残り、顧問となっているクラブの日誌に目を通したり、図書館で生徒に薦めるための本のガイドを書いたりしているはずだった。

 

 現在の織田先生について、私にはわずかな知識しかなかった。私のいた高校から今の都立高校へ移っていること。私の担任だったとき、教師になって七年目だったから、もう五十を超える年齢であろうこと。自宅は練馬区で、妻も教職についていたはずだ。

 この程度のことでも、思い出すのは容易ではなかった。当時は親よりも信頼できる人間だと慕っていたのに、年齢を重ねるにつれて、すべてが遠くなってしまったように思う。

 生徒たちに難問をぶつけられ、眼鏡の奥で戸惑っていた先生の優しい目を思い出したとき、受話器の向こうから、懐かしい声が響いてきた。

 

 卒業してから二十二年になるというのに、話をはじめると、私はちょっと臆病な少女に戻り、先生はあの頃と同じあたたかで大きな大人だった。

 ああやっぱり電話をしてよかった。

 私は受話器を握り締めながら、思った。

 それでも私の用件は、意外だったのだろう。漣子のことでと切り出すと、先生は驚きを隠さなかった。私は手短に、新聞記事の内容を伝え、そして警察に行くつもりであることを告げた。

「わかった。すぐに会おう」

 そう言った先生の声を、私は頼もしく聞いた。



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