第4話 ありがとう、サヨナラ

 そして、数日後。

「私たちにできることはここまでだから」って、電話越しに勢いよく背中を押された。

 里奈ちゃんが握りこぶしをつくって応援している姿が見える気がした。


「頑張れ、綾。後悔しないように、とにかく頑張れ!」


 うん、と私はうなずいた。

 未来のことなんてわからない。

 ただ、今を後悔で満たしたくはないから。

 私は先輩に会いに行く。


 あんなにグルグルと今まで悩んでいたのに、決心するとそれは驚くほど簡単だった。


 先輩が旅立つ日。

 早めに家を出て、先輩の家の最寄りの駅で待つ。

 変な例えだけど、出陣前の武将みたいな気持ちだった。

 未来のことなんてどうでもよくて、とにかく今の私の気持ちを伝えようと決意を固めていた。


 出立するだいたいの時間は聞いていたけれど、もしものことがあるから、二時間も前から改札の近くに立っていた。

 それほど大きな駅ではないけれど、人の流れが早いからうっかりしていると見過ごしてしまいそうだ。


 会いたいけれど、会えないかもしれない。

 そんな不安と期待とが入り混じる。


 余裕がなくなって胸がいっぱいになりそうな時、吾妻先輩が現れた。

 ほとんどの荷物は発送しているらしく、ディパックをひとつ背負っているだけだった。

 私を見つけると、先輩は大きく目を見開いた。


「綾ちゃん?」


 どうして? と問いかけられて、私は精一杯の笑顔を向ける。

 先輩の驚きが本物だったので、心の中で出立日時を調べてくれた里奈ちゃんたちに感謝する。

 私が来ることを知っていたら、引っ越す日時を変えていたと予想つくぐらい、吾妻先輩は驚愕していた。


「見送りにきました」


「新幹線ホームまでついていきます」と告げると、先輩は一瞬空を見上げて絶望的ともいえるため息を吐き出した。

 苦痛なのか喜々としているのかわからない表情でしばらく悩んでいたけれど、ふっと肩をすくめると両手をあげる。


「降参、綾ちゃんには敵わないや」


「おいで」と手を差し出されて、どうしていいかわからなくなったけれど、おずおずと私も手を伸ばす。

 先輩は当たり前の調子でキュッと手を握る。


 そして「いこう」と言って、私に合わせたゆるやかな歩調で歩きだす。

 在来線に乗って、新幹線が発着する駅まで移動する。


 本当は私から、なにか言うべきなんだと思う。

 だけど手を握った瞬間に頭の中が真っ白になって、臆病な声は喉の奥に張り付いた。

 先輩の顔を見た途端、迷いがむくむくと顔を出す。

 私の気持ちを一方的に届けることが、本当に正しい事なのかわからなくなってしまった。


 私がどんなに「好き」って言ってもただそれだけで、私の「好き」は駅のホームに置き去りにされることがわかっているから。

 私は先輩に「好きだよ」って言われて嬉しかったけれど、それと同じくらい今が悲しいのに、先輩に対して同じことをしてもいいのかな?


 その事に気がついた途端、何を言っていいかわからなくなって、私は先輩の手をただ強く握りしめる。


 先輩も無口だった。

 でも、怒っていないことはその表情でわかった。


 しっかりとつないだ手が熱い。

 指と指をからめあうような手のつなぎ方は、はじめてだった。

 後で知ったけれど、恋人つなぎと呼ぶらしい。


 好きって言う?

 また会いたい?

 ずっと待ってる?

 付き合って欲しい?

 それとも、サヨナラ?


 別れの時間が迫っているのに、私たちの言葉は迷子のままだった。

 言いたいことが多すぎて、会話のきっかけすら見つからないまま、新幹線のホームにたどりつく。


 ピュウッと冷たい風がホームを駆け抜けていく。

 手をつないだまま、私たちは無言で立ちすくむ。

 からめあった指だけが、離れたくないと主張するように熱を持っていた。


 何も言えないままどんどんと時間が過ぎていく。

 先輩が「もう行くよ」と言い出しそうな雰囲気に、私はやっと顔をあげた。

「吾妻先輩」と呼びかけると同時に、先輩も「綾ちゃん」と私の名前を呼んだ。

 くしくも同じタイミングで名前を呼び合って、視線をからめるように見つめあう。


 先輩の瞳の中には、泣きそうな私がいた。

 きっと、私の瞳の中にも先輩がいる。

 そう思うと、迷子になっていた気持ちが一気に押し寄せてきた。


 このまま離れたくないと思った。

 ついていくことはできないけれど、また会いたいと思った。

 今日が最後になるなんて嫌だった。

 あふれてくる気持ちと一緒に、言葉がはじけた。


「吾妻先輩、好きです」


 うん、と吾妻先輩はうなずいた。

 僕も同じ気持ちだよって伝わってくる、穏やかな微笑みだった。

 だけど「綾ちゃん、好きだよ」とは言ってくれなかった。


 先輩は言葉のかわりに、スッと身をかがめる。

 とっさのことで、私は動けなかった。

 急すぎて目を閉じることもできない。


 風に舞う花びらみたいな優しさで、先輩のぬくもりが落ちてくる。

 目じりから頬をたどり、気がつくと唇と唇が触れ合っていた。

 閉じられた瞼が隠しているから先輩の涼しげな瞳は見えなかったけれど、長いまつ毛が揺れている。


 絵筆で触れるような、やわらかで長いキスだった。


 かすかに震える熱に、息が詰まる。

 もどかしくて、もっと触れ合いたくて、離れがたくて。

 行かないでって我儘すら簡単に封じてしまう、自分ではない熱に頭の芯がクラクラする。


 それでも時間は止まらない。

 唐突に、ゴウッと強い風が巻き起こり、先輩の乗る新幹線がホームに滑り込んできた。

 それが合図だったみたいに、重なっていた唇が離れた。


「ありがとう、サヨナラ」


 その一言を残して、先輩の背中が遠ざかる。

 振り返りもせずに、新幹線に乗り込んでいく。

 想いごとふりきるような潔さで歩み去るから、先輩って呼び止めることもできなかった。


 先輩を乗せた新幹線はすぐに発車してしまい、あっという間に見えなくなった。

 姿を探してもホーム側の窓に先輩の姿はなくて、私は手を振る事も出来ずに、ただ、遠ざかる新幹線を見送る事しかできなかった。

 ひとり、ホームに残された私は、人差し指で震える唇をそっと押さえる。


 私、キスした。

 触れただけなのに、想像していたよりも強い先輩の想いを感じていた。

 好きだって言われた何倍も強く、私の気持ちまで求められている気がした。

 でも、先輩と私の恋は終わってしまった。


 キスしても、ちっとも甘くなかった。


 好きで、好きで、軽く触れただけなのに、どうしようもなくて。

 だけど、明確な別離で。


 ありがとう、サヨナラ。


 残された別れの言葉をかみしめながら、そっと指先で唇に触れる。

 もう二度と、会えない。


 初めてのキスは、涙の味がした。


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