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 どうせ人間なんて死んでしまえばすべて終わりだ。

 一人の人間のなにもかもが無くなっても、世界は非情なほどに狂うことなく時を刻む。

 この世は生きている者のためだけに動いているのだと分かった。死なない人間など誰一人いないというのに、皮肉なものだ。

 お父さんの遺体が棺に入り、千度を越える火で焼かれようとも、それでぼくの心がいくら絶叫しながら泣きわめこうとも、あの日の空は嫌になるほど快晴だった。命一つ分の価値などその程度のものなのだと思い知った。

 あの時、ぼくの感情の一部は確実に死んだ。

 比喩ではなく本当にまったく動かなくなったのだ。そしてもうそこだけはどうしても元に戻すことができない。

 だから、いつだったかたまたま図書館で見つけた「女子刑務所の実態」などというタイトルの本を手にしたとき、そういう現場にお母さんがいると思うといてもたってもいられなかったのに、その気持ちを自ら封印した。刑務所内でのいじめだの生活の厳しさだのを知りつつも、むりやり忘れようとした。

 あの時だってぼくの心は泣き叫んでいたんじゃなかったのか。

 それにしたって、もう悟さんにひどい強姦を繰り返されていた毎日だったから、ただただ自分の無力さを傍観的に噛みしめるしかなかったのだ。

 何事も気の持ちようだなんて言葉は信じない。

 そのありがたい「気の持ちよう」などで苦しみを誤魔化そうにも、そのためにまた新たな痛みを負わなくちゃならない人間もいる。けれど、そんなつらさは他人には知りようがなく、自分自身もまた麻酔をかけるようにして苦悩を忘れようと試みる。

 だから人生なんてものは少しでも楽に気持ちよく過ごせりゃいいなんて、最近のぼくも考え始めていたのかもしれない。つらい思い出など、記憶の彼方に追いやってしまえと、自棄に自棄を重ねるようにして。

 それをすっかりタカハシに見抜かれてしまっていたのだ。

 彼だから見抜いてくれたのだろう。ぼくを心から愛してくれている彼だからこそ。ぼくが夜中に呟いた言葉や浮かべた涙に気付き、自分ですら気付かなかった心の傷を癒そうとしてくれた。



 八月の最終週、新幹線と在来線を乗り継いで、二時間ばかりかけてお母さんのいる刑務所の最寄り駅に着いた。そこからタクシーで十分ほどで、日本最大といわれる女子刑務所がある。そこにお母さんは収監されていた。

 面会は予約制だった。その予約の電話一本を入れるときでさえ、タカハシはついていてくれた。

 あのブレスレットをプレゼントしてくれた夜以来、彼はもう過保護が過ぎるくらいの勢いで、ぼくを甘やかすみたいに始終そばにいる。あまりにべったりなのでぼくがうろたえてしまうほどだ。

 彼の予想していたとおり、刑務所内にはよほどの理由がない限り親族であるぼくしか入れなかった。タカハシは門の前で待つという。猛暑の盛りにそれは申し訳ないから、駅前の喫茶店で待っていてくれと頼んだのに、彼はここでもついてきてくれた。炎天下で待つ彼の体調のほうが心配になった。

「ゆっくり話しておいで」

 通用口の前でぎゅっとぼくの手を握る。

 ぼくにはもったいない人だと思ったから、爪先立ちして彼の頬にキスをした。タカハシは突然のぼくの行動に驚きながらも、包み込むようなまなざしで見送ってくれた。このときのぼくは、このキスを誰がどう眺めようが知ったこっちゃない気分だった。

 職員に案内されて窓口に向かった。

 あらかじめ用意してきた身分証明の住民票を差し出し、面会の目的などの事務的な質問を済ます。当然、子供だから会いに来たんです、くらいしか答えようがなかった。

 再度職員に連れられて、いよいよ面会室に入った。

 まるでドラマのセットみたいな、透明な板で真ん中を仕切られた部屋にパイプ椅子が向こうは一つ、こちらには三つあった。

 声音を伝える穴の開いた部分の正面にあたる椅子に、ぼくは腰掛けた。

 緊張で体が強張ってしかたない。がたがたと足が震えて、一つ一つの動作がおぼつかなかった。

 しばらく待たされた。

 どうにもこうにも心許ない。

 お母さんはすんなりとぼくに会ってくれるのだろうか。それも不安だった。

 縋るように、タカハシからもらったブレスレットに手を置いた。

 ―― I give you all my heart ――

 その意味をいま、思い起こす。

 そうだ、一人じゃない。ぼくにはいつでも彼の心がついてくれている。

 胸が熱くなった。

 幸せ者じゃないか?

 なぜ、いまのいままでそう思わなかったのだろう。

 どうしてこうもぼくは、大事なことに気付くのが遅いのだろう。

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