▶20XX/06/05(2)

 窓が半分開けられ、裏山の手前にあるフェンスに鳥がとまっていた。葉擦れの音が廊下の雑音を覆い隠し、日常が遠い世界になる。


 ユウタの目の前にいるモエは艶を帯びた黒髪だった。


「モエ、その髪。それに制服……」


 白いブラウスに緑色の細いネクタイ、スカートは紺と深緑のタータンチェック。似ているけれどこの学校のものではなかった。彼女は書架の間を抜けて窓を全開にする。


「学校探検するなら目立たないほうがいいでしょ?」


「それ、モエが高校のときの制服? それとも撮影用の衣装?」


 モエは質問には答えず、ヒョイと窓枠に腰かけた。スカートの裾を押さえて片足を外に投げ出すと、もう片方の足も引き抜いて顔だけユウタに向ける。


「行くよ」


 呆気にとられるユウタに、彼女は「早く」と手招きした。職員会議が終わったらしく廊下から担任と養護教諭の声が聞こえ、ユウタは壁際に身を寄せ息を殺す。ふと窓を見るとモエの姿は消えていた。


「じゃあ」


 高波の声がしてスリッパの音が遠ざかり、ユウタは慌てて窓へ駆け寄り身を乗り出す。


「モエ?」


 しゃがみこんだ彼女が頬を膨らませてユウタを見上げていた。


「ユウタがさっさとしないからバレるかと思った」


「高波はモエが学校に来てるって知らないの?」


「知ってるよ。でも、あたしが学校で何してるかは知らない。ここにいるのがバレてマズイのはあたしじゃなくてユウタでしょ?」


「じゃあ、なんでモエが隠れるんだよ」


「あたしのせいでユウタが授業サボったって疑われたくないもん。会いに来れなくなるじゃない」


 モエはパンパンと音をさせてスカートを払った。


「ユウタが行かないならいい。あたし一人で行くから」


 校舎沿いに歩き出したモエのあとを、ユウタは慌てて追いかけた。腰あたりまである黒髪がユウタを誘うように揺れている。


「モエ。その髪、カツラ?」


「違うよ」


「地毛?」


「地毛ともちょっと違うかな? 今だけ特別なの。制服とセットでお試し価格。せっかくだから学校の制服着てみたかったんだ。やっぱり、プレイエリアを日本に選んだ時点で髪色は黒にすべきだったのかも」


「プレイエリアって、ゲームの話?」


「さあ? 意味不明だよね」


 モエは悪戯っぽく笑う。非常階段の下で人目をはばかるようにあたりを見回し、「ここならいいか」と一番下の段に座った。


「どうぞ」


 隣に空けた一人分のスペースを手で叩き、金属が鈍い音を響かせる。ユウタはそこには座らず、校舎に背を預けて地べたに腰を下ろした。


「あたしの隣は嫌なの?」


「モエの隣なんて緊張する。それに、隣に座ったらモエの顔が見えない」


「顔が見たい?」


「そういうわけじゃないけど、やっぱりキレイだなって」


「作り物よ。こんな顔」


「整形とか?」


「整形?」


 モエが素っ頓狂な声を出し、ユウタはしどろもどろに「ごめん」と謝った。


「気に障った? 整形のことはよくわからないけど、モエの顔は昔と変わらないように見えるし」


 モエはアハハッと笑い声をあげ、うなじにこもった熱を逃がすように髪を両手でかき上げる。


「気に障るとかじゃないけど、整形かぁ。ある意味そうかもしれない。自分の好きなように作った顔だから」


「どういう意味?  それに、さっき言ってた髪の色が制服とセットだとか。染めたの?」


 モエは小首をかしげ、うっとりと自分の髪を梳く。


「黒髪って綺麗ね」


「モエは元々黒髪? 前から思ってたけど、肌も白いし日本人っぽくないよね」


「ニホンジンっぽくない、か。やっぱり視覚情報って重要なのね」


 空を見上げたモエは、遠い目をして深呼吸した。


「ねえ、ユウタ。あたし、嘘が下手だからバラしちゃうね」


「バラす?」


 あのね、とモエは唇に人差し指を当てる。


「この世界は作り物。ゲームなの」


「え?」


 ユウタが眉をひそめると、モエはまたアハハと笑った。


「アブナイ女って思ったでしょ。でも本当。あたしはゲームのプレイヤーで、この姿は自分で設定したの。あたしのアバターが〈モエ〉。この黒髪と制服はオプションで購入できるんだ。今だけキャンペーンで一週間お試し無料」


 モエはスカートに触れ、「かわいい」と無邪気な笑みを浮かべる。ユウタはその笑顔を見つめながら彼女の言葉の真偽を考えていた。嘘をついているように見えないけれど、嘘にしか思えない。ユウタの動揺をよそにモエは喋り続ける。


「あたしはタレントのモエだから、普通にプレイしてたらユウタには会いに来れないんだ。この前は撮影っていうミッションがあったから特別。今あたしがここにいるのはルール違反なの。強引なやり方で来てるからバグっちゃったみたいで、演技派のモエでも人間じゃないってバレちゃう」


「何言ってるのかわかんないよ。モエは人間にしか見えない」


「人間じゃないよ。だってほら」


 モエは腰を浮かせ、ユウタの腕を掴んだ。


「ほら、バレちゃった」


 ユウタはいくら目を凝らしても目の前で起きていることが理解できなかった。モエはたしかにユウタの腕を掴んでいるのに、圧力も、温度も、何も感じられない。五感と思考回路が一致せず、目を閉じるとまるで一人きりだった。


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