冷蔵庫のプリン

西の海へさらり

第1話・このプリンは誰のプリン?

 優斗ゆうとはマンションのドアを開けるなり、冷蔵庫に直行した。ドアを開けると靴が二・三足置ける程度の狭い玄関。そのままキッチンが左、トイレ付バスが右。キッチンの奥に冷蔵庫、昔ながらのすりガラスタイプの引き戸をガラガラと開けると狭いメインルームだ。大学生らしいというのが適当かわからないが、大学生らしい過度でも過少でもない、ワンルームだ。


 地元から離れ十八歳で一人暮らしを始めた。親からの仕送りは月五万程度、これでは生活できない。家賃すら払えない。奨学金とアルバイトで生計を立てている苦学生といえば苦学生だ。お金より大切なものはない、信条に揺らぎはない。


 食べるのと大学の教材の購入、で暮らしはカツカツだ。だから、冷蔵庫の中には特に食べ物らしいものはない。自炊をしている形跡すらない。包丁やまな板の類は一切ない。唯一の贅沢、冷蔵庫にプリンを一つ必ずストックしている。


 プリンは賞味期限が長いものが多いが、できるだけ新鮮なものをということだろうか、複数の買い置きはしていない。冷蔵庫には必ずプリンは一つという決まりだ。


 だが、今日は変だった。冷蔵庫にいつものプリンが一つ。カラメルがたっぷり底に詰まった小ぶりなプリン。これがいつものプリン。隣に、見たこともない買ったこともないプリンがもう一つあった。焼きプリンタイプに上に生クリームがかかっている。「とろーり生生プリンプリン」という商品名だった。なんだか下品なネーミング。ペリペリと剥がす蓋部分は、子どもが描いたような乳牛のイラスト。ネーミングと相まって、強烈な印象を与える。こんなプリンを買っておいて、買ったかどうか覚えていないなんてことはあり得ない。


 優斗は誰かの目を意識しているのか、不可解な顔をしてクリームの乗った見慣れない焼きプリンを手に取った。家に誰もいないのに、リラックスした表情ではない。誰かに監視されているような、どこか取り繕ったような表情だった。


「こんなの、いつからあったっけ?」


 部屋でも独り言をつぶやく癖が抜けない。優斗は大学でもブツブツとつぶやきながら歩いていることが原因で友達ができにくい。ずいぶん前から自覚している。原因が明確な割に、なおす気はない。これも個性だと母は言ってくれたからだ。


 優斗は一人暮らしをするようになってからは、家計簿をつけている。節約は自分の財布の中と外を可視化することが大切だ、両親から教わった唯一の教訓だ。富山のラーメン店を営んでいる両親、父は経営の才能はない。母も同じく。


 ウチが貧乏なのは両親の経営の才がないからだけではなく、お金のない子どもにタダでラーメンを食べさせているからだ。厳密にいえば、儲ける才能はないが、人から慕われる才能はある。そんな両親。儲からなくてもいい、ザルのような金銭感覚の両親を見て、優斗はこの教訓にたどり着いた。両親から教えられたわけではない。


「このプリンは、うーん。昨日冷蔵庫を開けた時にはなかったし…」


 優斗は「とろーり生生プリンプリン」を手に取り、扉を開けベッドとテレビしかないリビングに移動した。ベッドに腰かけて、牛の絵が描かれユニークな蓋を剥がした。そもそも食材となる生き物の絵が描かれているなんて、食べる側の気持ちを考えているのだろうか?優斗は疑問に思った。先日大学の先輩に連れて行ってもらった焼き肉屋は、店の看板に牛の絵が描かれていた。そのせいで、食欲が失せた。ホルモンなんてとても食べられない。


 パッケージから受ける印象は最悪だったが、賞味期限は明後日までだった。クリームタイプだから賞味期限は短いのか、特売品だったのか。


「まぁ、いっか。不可解ちゃぁ不可解だけど。無駄にするのもなんだし、食べよう」 優斗はキッチンに戻り引き出しからティースプーンを取り出した。ベッドに寝ころびながら、生クリームをかき混ぜる。プリンを口に運ぶと「おっ、意外とうまい。生クリームがしつこくないな」


 プリンをあっという間に食べた。気が付いたらベッドで眠りこけていた。一時間ほどしたころ、スマホのアラームが鳴る。夕方十八時、バイトの時間だった。優斗は食べ終わったプリンをそのままテーブルに置きっぱなしで急いでバイトに向かった。


 夜九時。冴島奈央子さえじまなおこが彼氏の前田徹まえだとおると一緒に大学から一人暮らしのマンションに向かっていた。このマンションはワンルームばかりでほとんどの住人が学生だ。奈央子は徹と付き合って二カ月。世間では少し早いが、部屋に呼ぶことにした。一緒に映画を観るためだ。


「奈央子、お腹減ったからなんかコンビニで買っていかない?」 奈央子の手を握る徹は、目が少しギラついていた。コンドームをコンビニで買いたかったからだ。今日はもしかしたら、もしかする。朝からそんな予感がしていた。予感的中で、突然奈央子に部屋に誘われた。


「いいよ、うちにあるから」「まぁ、飲み物も欲しいし。ビール買ってくるよ」


 徹は奈央子の手を引いて、コンビニに入った。ビールをかごに入れ、ちょっと他も見るねと言って手を放し、コンドームをこっそり買った。「お会計千二百円です」「あ、袋もください」「お会計変わりまして千二百五円です」


 レジを済ませると、徹は雑誌を立ち読みしている奈央子と手をつないで店を出た。コンビニの外でタバコの吸い殻を掃除していた店長が大声で「坂木くーん、バケツに水入れて持ってきて!」と叫んでいた。


奈央子は、振り返ると店内からバケツを持って出てきた坂木と目があった。


「どうしたの?」 徹は奈央子の顔を覗き込みながら聞いた。「別に、ちょっとあの人、大学でも見たことあるなって」「そう?見たことないけどなぁ。俺は」二人はコンビニから五分ほど歩いて、奈央子のマンションに着いた。奈央子はドアを開け、玄関の電気をつけた。だが、なかなか部屋に入ろうとしなかった。


「どうしたんだよ」


 徹は早く部屋に入たいという気持ちでいっぱいだった。「なんかね、最近嫌な感じで…」「おじゃましまーす」


 徹は乱暴に靴を脱ぎ、キッチンを通り過ぎ冷蔵庫を開けた。ビールを冷蔵庫に入れると、「あれ、プリンあるじゃん」「二個あるでしょ。好きな方食べて」「いや、一つしかないよ」


 奈央子は玄関で靴を履いたまま立ち尽くしている。 徹はリビングに入り、空のプリンの容器を見つけた。「なんだ、奈央子、食べてんじゃん」


 その瞬間、徹は強烈な打撃で意識を失った。徹が再び意識を取り戻したのは病院だった。


 医者と看護師、隣に刑事が二人、優斗がいた。


「この方が、救急車を呼んでくださったんですよ」 看護師は徹の点滴を交換している。 徹はベッドから部屋の奥に所在なさそうに座っている若い男に目をやった。


坂木優斗さかきゆうとと言います、僕の部屋の前で叫び声が聞こえたんで、その、救急車を呼んで。あの女の人を取り押さえて」 優斗は事情を説明した。要領の得ない説明だった。優斗の左手に打撲と切り傷があった。


「坂木さんがアルバイトで使う名札を忘れたらしく。家まで取りに帰ったときに、自分の部屋で知らない男の人が倒れていたそうです。それがあなた前田徹さん。で、知らない女は冴島奈央子を名乗っていますが、どうも偽名ですね。これから署で取り調べをいたします」 新米刑事の吉澤よしざわがてきぱきと現場を仕切る。


 小田切おだぎり刑事は病室内で事情聴取をしたそうだったが、看護師に止められて一旦、署に戻ることにした。「奈央子は?」 徹は自分を襲った奈央子がどこにいるのか、気になっていたようだった。小田切の目にはそう映っていた。部屋に落ちていた未使用のコンドーム。部屋でセックスしようとでもしたのだろうか。だが、あのベッドは坂木優斗のベッドだ。


「あの、たぶん僕が取り押さえた女の人は、前から僕の部屋に勝手に入っていた人だと思います。大学で部屋の鍵なくしちゃって、それを使ったのかと」優斗は滑らかに説明した。


 奈央子の動機はわからない。前科はないようだ。ようだ、というのは小田切自身がまだ自分の目で確認していないということだった。小田切は自分の目で見ないと、信用しない。用心深いわけではない、そういう気質なのだ。


 小田切と吉澤が覆面の警察車両に乗り込んだとき、慌ただしく無線が飛び交っていた。通称、冴島奈央子が護送中に逃亡したらしい。


「小田切さん、冴島奈央子、逃げたんですって。どうやって逃亡したんでしょうかね」 吉澤は今年交番勤務から、念願の刑事課に異動になった。刑事の素養があるかどうかは先輩の小田切にはどうでもいいことだった。「知るかよ。前科もなんもねぇって聞いてる。この女。戸籍だって、照合できねぇ」


 優斗のたどたどしい説明と滑らかな説明。家の鍵をなくしたくだりは、どうもセリフっぽい。徹の何か含んだような言いっぷり。そして冴島奈央子、コイツは偽名だ。いったい何者なんだ。偽名だとしたら、どうやって、大学生になれたんだ?護送車から本当にどうやって逃亡したんだ。小田切はずっと考えていた。ずっと。


 冴島奈央子の目撃情報はどこからもあがらなかった。まるで、最初から存在していなかったように。手錠をされて、返り血も浴びている。そのまま逃げ切るのは不可能だ。護送車には最低三名の警察官。運転席と後部座席の両窓際。奈央子は両側を警察官に挟まれている状態だ。しかも、パトカーの後部座席は内側からドアを開閉できない。逃げられっこないのだ。


 小田切と吉澤の前には「奈央子はどうやって逃亡したのか」、という最大の疑問が立ちはだかっていた。


 だが小田切は冷静だった。絡んだ糸は引っ張らない、こするように糸と糸をほぐす。ほぐすと糸がばらけていく。一見関係のない糸同士も実はつながっていて、それは一本の糸になることもあり、別々の糸だったりもする。  小田切は刑事課の自分の椅子に腰かけた。キャスターが歪んでいる。小田切の貧乏ゆすりのせいでギリギリと音を立てる。ギリギリと音を立てている時は、課内の誰も小田切に声をかけない。課長でさえもだ。この時間、小田切の妄想からの仮説が生まれる瞬間だからだ。小田切の仮説には裏付け事実が薄い。だがその仮説をたどると事件解決の証拠に出会うことが多い。いわゆる、「アタリ」をつけるということだ。


 冤罪や誤認逮捕、そういった無実の罪が作られる懸念もある。ただ、事件の前に落ちている事実は、断片的だ。合理的・客観的事実が不足しているからこそ、仮説で糊付けしていくことも重要だ。要はその才能センス。小田切はその才能センスの持ち主だった。断片的な仮説を集めると、真実に近づく。だがそれは、事実ではない。小田切もそのあたりは心得ていた。


 小田切は今回のわからないことを整理し始めた。


【疑問1・どうして坂木優斗はいつも見慣れない方のプリンを食べたのか?】


【疑問2・坂木優斗はタイミングよく襲われている前田徹を救助できたのか?】


【疑問3・そもそも冴島奈央子はなぜ前田徹を襲ったのか?】


【疑問4・冴島奈央子は坂木優斗が買った覚えのない生クリームの焼きプリンを置いたのか?】


【疑問5・冴島奈央子はなぜ前田徹に致命傷を与えなかったのか?】


 もちろん、冴島がどこに逃げたのかもわからなかったが、これは悩んでも仕方のないことだ。今は仮説の立てようもない。この五つの疑問を解きほぐせば、何か糸口が見つかるのかもしれない。


 小田切は吉澤を呼んだ。


「吉澤、前田徹をしっかり見張ってろ。あいつに糸口があるはずだ」「坂木優斗ではなくですか?」「いや、前田から洗った方が早い」


 吉澤は坂木が怪しいと思っていた。だが、まだ自分にはキャリア・実績はない。交番勤務時代はナイフを持った強盗犯を現行犯逮捕、立ち寄った銀行強盗を追跡し逮捕、どれもパトロール中の出来事だった。


 交番勤務の警察官として、類まれな勇敢さを評価された。一人で対処したという無謀さについては、刑事の適正を問われていたが、小田切は吉澤の危うさを歓迎していた。自分にないものを持っているからこそ相棒になれるのだと小田切は考えていた。


 内線が鳴る。フロアには誰もいない。吉澤が受話器を取った。


「はい?え?前田徹が大学を退学した?」 前田徹は昨日、突然大学を退学したらしい。事件から二日目、まだ入院しているはずだったが。病院から忽然こつぜんと姿を消していた。


 翌週、老人会の山岳クラブが山林で男の遺体を見つけた。無造作に遺棄されていた。前田徹だった。


※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

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