3-5

 花瓶を握りしめて真宙は廊下を歩く。

 桜良の机の上に三か月ほど前から置かれていたものだ。今は冬休みだが、登校期間中はこの花瓶には常に一凛の花が飾られていた。

 今にして思えばどうしてそんなものがあったのか疑問だ。どうして自分はそこに『明らかな異常さ』を感じなかったのだろう。どうして自分は「もういらない」などと口にしたのだろう。

(もういらないんじゃない。最初から、こんなものいらなかったんだ)

 気づけば置かれていた花瓶。誰が置いたのかなんてわからないが、悪戯にしては悪質すぎる。教室で桜良が自分の机の上のそれを見て悲しそうな顔をしていたのも当然というものだ。

(でも悪いのは僕も同じか)

 そんな悪戯をどうして放置したのだろうか。見つけた瞬間に花瓶を回収すれば良かったはずなのに。どうして……。

(教室に戻ったら桜良にちゃんと謝ろう)

 そう思って花瓶を握って一階の事務室へと向かう。

 が、教室を出てすぐに背後から足音が聞こえた。振り向くと和花が真宙のことを追いかけてきていた。

「粕谷くん!」

「古賀。どうしたの?」

「……その花瓶、どうするの?」

「どうするって、さっきも言ったじゃん。もういらないから返すんだよ」

 足を止めることなくそう言うと、和花は表情を曇らせる。そして一拍置いて、

「もう、やめよう……粕谷くん……」

「やめる?」

 和花がなにを言っているのか心底わからなかった。

 やめるとは、いったいなにをやめるのか。今この状況の中で、なにかをやめるようなことがあるのか。本当に、心の底からそれがわからなくて、真宙は首を傾げて問い返す。

「粕谷くん……」

 和花は真宙を見つめたまま困惑した表情を崩さない。しかし真宙からしても和花の意図がわからず同じように困惑するしかない。

 事務室は校舎の一階にあり、真宙たちの教室から階段を下りればすぐのところにある。距離もなく時間もかからないため、お互いに困惑しているうちに目的地に到着した。

 真宙は事務室のドアをノックし入室する。

 すると事務員が顔を真宙たちに向け、「もういいの?」と訊いた。一瞬、なんのことかわからなかったが、

(そういえば帰るときに顔を出さないといけないんだった)

 と、和花が最初に言っていたことを思い出し、事務員の言葉を否定。

「これを、返しに来たんです」

 言って花瓶を差し出すと、事務員は少し驚いた表情をした後に「いいの?」と訊いてくる。良いもなにも、桜良の机の上にこんなものが置いてあること自体がおかしいのだ。

 そう告げて花瓶を返却すると、事務員は視線を和花へと向けた。しかし和花がなにかを言うことはなく、事務員はそのまま受け取った。

「それじゃあ。……あ、もう少ししたらたぶん僕らも帰りますから」

 それだけ言って真宙は事務室を後にした。

「粕谷くん」

 教室へ戻ろうと階段に足をかけた直後、背後から名前を呼ばれて振り向く。視線の先の少し離れた場所で和花が立っている。

 どうも先程から彼女の様子がおかしい。どうしてなのか真宙には理解できず、和花に正面から向き合って問う。

「さっきからどうしたの? なにかあった?」

 ついさっきまで四人で教室にいた。真宙が花瓶を持って教室を出るまでは和花も特におかしなところはなかったように思う。なら真宙が教室から出て行った数秒の間になにかあったのかとも思うが、現実的に考えてその線は薄そうに思う。

 ならば本当に和花はどうしたというのだろう。

「古賀?」

 もう一度名前を呼ぶ。すると和花が息を呑むのがわかった。

 そして――。

「……粕谷くん。どうして花瓶を返したの?」

「……どういうこと?」

「花瓶を返しても、新学期には戻されてると思うよ」

「…………は?」

 その和花の言葉に苛立った。

 新学期になったらまた花瓶が戻されている? 意味がわからない。どうしてそんなことになるのか。いや、それよりも、どうして桜良の友人であるはずの和花がそんなことを口にするのか。

 和花は桜良の友人だ。おそらく同性では一番仲の良い友人。そんな友達からこんなことを言われては、いくら優しい桜良であっても傷つくだろう。「どうして」と問いたいのは正直こちら側だった。

「粕谷くん。桜良ちゃんは、もう――」

「――っ!」

 その言葉の続きは容易に想像することが出来た。

 この三か月、どういうわけか嫌というほど耳にした言葉だ。その度に否定してきたが、さすがにいい加減にしてほしい。

 我慢していた。そんな桜良を傷つけるような言葉を耳にしてもずっと我慢していた。

 でもなんとか感情を抑えられていたのは、それを口にしているのが自分たちほど桜良と仲が良かったわけではない人たちだったことと、それを聞いても桜良がなにも言わなかったからだ。

 でも和花から。同性で一番の友人のはずの和花がそれを口にするのはとてもじゃないが許せなかった。一番の友人だからこそ、これ以上は許せなかった。

 頭の中で一瞬なにかが切れたような気がして、気づいたら感情が高ぶって目の前の景色の見え方が変わっていた。

 このときはもう、抑えることが出来なかった。

「――なんで……っ」

「え?」

「なんで古賀が。よりにもよって古賀が、そんなこと言うんだよっ!」

 中学で出会って、仲良くなって、これまで同じ時間を過ごしてきて。初めて和花に対してこんなに声を荒げた。そして、吐き出した感情は止まらない。

「どうしてっ!」

 和花もこんなにも怒りの感情を爆発させた真宙を初めて見たせいか身体をビクつかせて一歩引いた。しかしそれでも胸の前で手を握りしめて、震える瞳をそれでもまっすぐに向けて言う。

「どうしてって……。今日連れてきたのは桜良ちゃんじゃないんだよ?」

(……違う)

「あの子は妹の秋那ちゃんなんだよ?」

(……違う)

「桜良ちゃんは……もういないんだよ……」

「――違うっ!」

 溜まっていたものを全て吐き出すかのような真宙の叫びが、静まり返る校舎の廊下に響く。

「どうして……どうしてなんだ……っ」

 教師も、クラスメイトも、御調も、和花も。どうしてそんなことを言うのか。どうしてそんな悲しくて寂しいことを言うのか。どうして友人の桜良に対してそんな酷いことを言えるのか。

 わからない。わからないわからないわからない。

 本当に、どうしてなのかわからない。

「粕谷くんの気持ちは私だって少しくらい理解できるよ。だけど目を逸らしていてもなにも変わらないんだよ。だって……だって、桜良ちゃんは――」

(まただ。また、あの言葉……)

 頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 どうして周りが桜良をいないもののように扱うのか。どうして桜良はそれになにも言わないのか。どうして御調や和花までそんなことを言い出すのか。

 どうして、『もういない』なんてそんな酷いことを口に出来るのか。

「桜良ちゃんは、もういないんだよ?」

「――うるさいっ!」

 その言葉が放たれることはわかっていた。でもその言葉を聞いた瞬間目の前が赤くなった気がした。

 思考よりも、理性よりも先に、怒鳴り声が自分の口から出る。

 それは真宙の理性が停止したことを意味しているし、理性が停止しているから思考にまで至らない。ただただ感情のままに、ぶつけるように、吐き出すように、言葉だけが放たれる。

「そんなに桜良にいなくなっていてほしいのか! そんなに桜良のことが嫌いだったのか! 友達だって思ってたのに。あんなに友達想いで優しい桜良のことが!」

「ち、ちが……っ」

 和花がなにか言っている。でももう、それは真宙の耳には届かない。

「古賀も、御調も、他のみんなだって、一度くらい桜良に助けられたことがあったはずだろ! 一度くらい桜良の優しさに触れたことがあったはずだろ! なのに、それなのにどうして、お前たちはみんなして桜良のことをいないもののように扱うんだよ!」

「違う……聞いて、粕谷くん……。私は、私たちは……」

「うるさいんだよ!」

 もう和花の言葉なんて聞きたくなかった。御調の言葉だって聞きたくなかった。誰の言葉だって、聞きたくなかった。

 どうせ誰の言葉を聞いても「桜良はもういない」としか言わないんだ。どうしてそんなことを言う連中の言葉を我慢して聞かないといけない。意味がない、必要がない、聞いてやる義理だって、もうないんじゃないのか。

(……そうだ)

 聞かなくていい。聞く必要なんてない。

 桜良のことを蔑ろにして、桜良のことを裏切って、桜良のことを悲しませるような連中の言葉なんて、どうして聞かなくちゃいけない。

 そんな言葉、なによりも必要がない。

「…………ああ、わかったよ、古賀」

「か、粕谷、くん?」

「古賀がそんなに桜良のことを嫌いだったなんて、僕知らなかった。そんなに桜良にいなくなってほしいと思っていたなんて知らなかった。だったら、もういいよ」

「ち、違うよ、粕谷くん! 私はそんなこと思ってない、私は、私は――」

「うるさいな」

 なにかを訴えようとする和花を、その一言で黙らせる。

 真宙の発したそのたった一言は、怒り任せに放った乱暴な言葉とは質が違う。荒さはないが、その分言葉の中に全ての感情を押し込めて凝縮して固めたような密度のこもった言葉だった。

「そんなに桜良のことが嫌いなら、もう桜良に、僕と桜良に構わないでくれ。もう、僕らに関わらないでくれ」

「――っ」

 廊下に再び静けさが戻ってくる。身体に溜まっていた熱が言葉と共に放出され、冬の冷たい空気がさらに熱を奪っていく。そして熱が奪われていくのと同時に、真宙の頭も少しずつ冷静になっていった。

 そのおかげで今まで目に映らなかったものが見えるようになり、耳に入らなかったものが聞こえるようになった。

「……っ……っ」

 同時に、それを認識する。

 目の前にいた和花が肩を震わせていた。凍てついた空気を伝わって嗚咽のようなものが聞こえてきた。

 そしてだからこそ真宙の熱はより急速に冷めていく。

「ぁ、古賀……」

 名前を呼んだ。それと同時に、和花は顔を伏せたまま走り出し、階段を駆け上がっていった。

 すれ違いざまに見た彼女の顔は、想像通りのものだった。

「……っ」

 真宙は自分の放った言葉と、その言葉の意味とを、理解する。

 周りの言葉や態度に苛立ち嫌気が差していたのは本当だ。でも、少なくとも和花や御調に悪意がないことはわかっていた。だから今まではこんな感情を二人に対してぶつけることなんてなかった。

 だがその感情を怒りのままに和花に対してぶつけてしまった。

「くそ……っ」

 わからない。

 頭の中はもう本当に、かき回されたみたいにぐちゃぐちゃだった。

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