星の雫

色街アゲハ

第1話 ホルムさんの来訪

 その街はとても辺鄙な処にあったので、その日の最終列車が着いても、空にはまだ月が昇り始めて間もないのでした。

 列車から降りて来たのはたった一人、まだ若い男の人。名をホルムさんといって、この街に越して来るために、わざわざ何十マイルも列車を乗り継いで来たのでした。何でまた? と皆さんはお思いになられるでしょう。実の所、ホルムさんはそれ迄住んでいた都会での暮らしに、すっかり嫌気が差していたのです。元々のんびりとした性格のホルムさんです。都会での慌ただしい空気に、最初から馴染める筈もなかったのです。自分でも気付かない内に、我慢の限界が近付いていたある日の事、偶々立ち寄った本屋さんで、何気なく手に取った観光案内の頁の片隅に載っていた小さな写真。普段から夢見がちなホルムさんの目は、すっかりそれに釘付けになってしまったのでした。

 それはある小さな街の一風景で、他の人達にしてみれば別にどうという事はない、ごくありふれたつまらない物に見えた事でしょうが、ホルムさんには、其処に写っている建物の一つ一つが、さながら童話で見られる、クッキーかケーキで出来ている様な何とも言えず素敵な物に思えて、此処にはきっと何か素晴らしい夢が眠っているに違いない、と思わせるに充分なのでした。そこで取る物も取り敢えず荷物を纏め、逸る気持ちを持て余しながら、この街にやって来た次第なのです。


 ホルムさんは、トランク片手に(それが今のホルムさんの持っている全てでした)途方に暮れていました。そこは小さな小さな駅でした。その余りの静まり様といったら。唯一つ灯る小さな明りが辺りを白々と照らしている様は、誰一人見られないガランとしている事と相俟って、ホルムさんは古い写真の中にでも閉じ込められた様な心地を味わうのでした。空気はそよ、とも動かず、明りから漏れるジリジリと微かに振動する音が間近に聞こえる様で、それと共に白い光が小さな粒になってパッパッ、と夜の空気に飛び散って行く。まるで動く物は自分とその小さな明かりのみ、といった様に思われて来るのでした。


 ですから、駅舎の扉が開いて、中から暖かい光が漏れ出て来た時に、ホルムさんが思わず安堵の溜息を吐いてしまったのも、無理からぬ事だったのでしょう。中から出て来たのは、髪に所々白い物が混じった、いかにも初老の男性、といった風で、少し眠たげな眼差しを向けつつ、

「ああ、間違ってたら、その、すまんが、あんたがホルムさんかな?」

と穏やかな声で問い掛けて来るのでした。  

「そ、そうです、間違いなんかじゃあありません。自分がそのホルムです。」

そんな慌ててどもり気味のホルムさんの様子に戸惑いつつも、その初老の男性はホルムさんに駅舎を指し示すのでした。

 駅舎の中はたいへん温かく、随分と使い込まれた石炭ストーブの上の薬缶が、今しも蒸気を噴き出し、ジュッジュと音を立てていました。

「今ちょうどお湯が沸いたところなんだよ。せっかくだから、まあお茶でも一杯。」

と、今度は随分歳をとった駅長さんが、さあさあ、と優しい手付きで手招きをするのでした。


「あんたは、いい時に此処に来たね」

 カップにお湯が注がれ、香ばしい香りと一緒に、底から小さな泡つぶがプツプツと湧き上がって来る様をじっと眺めていたホルムさんは、その言葉に目をパチクリとさせました。ホルムさんが始め駅員さんかと早合点したこの人は、実はさにあらず、これからホルムさんが住む事になる下宿の主人だったのでした。名前をバラムさんという、このどちらかというと口数の少ないこの人は、それ以上説明しようとせずに、

「街に着けば分かることさ。」

と言うだけなのでした。困ったホルムさんが駅長さんに目を向けると、此方も、

「祭りがあるのさ、年に一度のね。」

と、笑って答えるだけで、それ以上は話してくれないのでした。それでもホルムさんは、久しく感じた事のなかった安らぎを、この場に感じていました。本当のところ、この二人がそれを話したくてうずうずしているのを無理に我慢しているのが、ホルムさんには何となく察せられたからでした。

「さあ、そろそろ行こうか。」

と、バラムさんは立ち上がり、

「街はここから少しばかり離れちゃいるが、なあに、一寸歩けば済む事さ」

 ホルムさんは、此処の人達の言う、一寸、という言葉が、元いた処とは掛け離れた物である事を、その後たっぷりと思い知らされる事になるのでした。で、街に着く頃には,ホルムさんはすっかりぐったりしていたのでした。

 それにしても、

「静かな処ですね。お祭りだと聞いていたのに。」

 全く以てその通り。街中はひっそりとしていて、駅の時と同じく、誰の姿も見られないのでした。時折、カーテンの隙間から洩れる小さな光と、微かな話し声がなければ、其処は人のいない街、さながら廃虚の様に思われた事でしょう。

「何、そういう祭りなのさ。始まるまでは、みんなこうして静かに待つ。そして始まっても、やっぱり静かなんだよ。」

「それはまた、いったいどうしてです?」

「まあ、あせらない事だよ。下宿に着く頃には、そろそろ始まる時間になるだろうから。もうすぐ、もうすぐだよ。」

 いっこうに要領を得ない会話に、ホルムさんは、そぞろ不安を感じて来るのでした。もしかしたら、自分は場違いな処に来てしまったのかも知れない。このバラムさんの言う祭りというのは、、此処に住む人達だけのものであって、自分の様なよそ者には縁も所縁もない物なのかも。こんな思いに、ホルムさんは先ほど感じた寂しさに、またしても捉われていくのでした。

 でも、ホルムさんの些か勇み足な不安は、すぐに消え去る事となりました。つまり、それは下宿の玄関の扉が開いた時に。

「あら、早かったんですね。」

其処に立っていたのは、ホルムさんと同じ位か、あるいは若干年下かと思われる女の人でした。一目見てホルムさんは、

「まるで、月みたいな人だな。」

 と、思わずにいられませんでした。何故って、その肩まで伸ばしたおかっぱの月色の髪に、黒づくめの服が、まるで夜の空にポッカリ浮かんだお月様を連想させたからです。おまけにその名まで、

「ルナといいます。よろしく。」

 なのですから、これはますます月じみている、と、ホルムさんはこの人のはしばみ色の瞳、光の具合でしょうか、やはり月色に見えるその瞳にじっと見入りながら考えるのでした。

「さあさあ、部屋に案内するからついておいで。」

 と、バラムさんがたしなめ半分、からかい半分に急き立てたので、我に返ったホルムさんは、その後をついて、ルナさんの頻りにクスクス洩れる笑い声をを背に、階段を昇って行ったのです。

 案内された部屋は、思っていたよりも広く、中には簡素なベッドに箪笥、小さなテーブルと椅子が一つずつ。窓は通りに面して、外の様子を見下ろす形。

「気に入ったかね?」

 気に入ったも何も、これこそが自分の思いに適った部屋だ、とホルムさんは感じ入るのでした。そして、これは不思議な事ですが、初めての筈のこの部屋が、まるで久しく会えなかった親しい友人に思いがけず会った時の様な、奇妙に懐かしい気持ちがわき起って来るのでした。

「それじゃあ後で呼びに来るから、それまで寛いでおいてくれ。」

 バラムさんが階下に降りて行った後、ホルムさんはトランクを開けて、しばらくの間、中にある物一つ一つを手に取って、物思いに耽っていました。一つ一つの小さな品々。それらには、それまでのホルムさんの決して平坦とは言えない人生の思い出が込められていたのでした。どれだけの間そうしていた事でしょう。と、不意にドアをノックする音。そこに立っていたのはルナさんでした。

「あの、そろそろ始まる時間ですよ。」

「何の……ですか?」

 ホルムさんは思わず聞き返してしまいました。

「バラム叔父さんから聞いていませんか? 今夜は年に一度のお祭りなんです。」

「ああ、その事ですか。でも……いったい何の?」

 少し驚いた顔をしてルナさんは、

「まあ、それじゃあ叔父さんは何も話さなかったんですね。でも……そうですね、何も知らない方が、かえって楽しみが大きいのでしょうね。だったら、一緒にこれから外に出てみませんか? あの、もしよろしかったらの話ですけど……。」

「是非、お願いします。ところで、バラムさんは?」

「叔父さんなら、約束があるって、飛び出して行きましたよ。フフッ、一体何の約束なんだか。」


 ルナさんの後に着いて外に出たホルムさんは、思わず驚きの声を上げずにいられませんでした。これはまあ何とした事か。何時しか街中は煌々と燈を点した露店がそこかしこに犇めいているではありませんか。しかし、その光は決して騒々しいものではなく、何か柔らかい物でくるまれているかの様な、ほんのりと優しい光なのでした。それは、まるで、何時か夢の中で見た様な、見る者をノスタルジックな気分に誘うものなので、実際、ホルムさんは、ホウ、と溜息を一つ吐いたきり、暫くは物も言えず、夢の中を漂っている様な心地良さの中にいた程ですから。それに……、先程から感じている何やら身体中がフワフワする様な、また、肌の上を優しく撫でてて行く様な感じは何だろう? とホルムさんは首をかしげるのでした。

「お気づきになられました?」

 と、ルナさんは、いたずらっ子の様に笑いかけるのでした。

「ほら。」

 と、ルナさんが空を指差すと、おや、まあ、ホルムさんの頭のすぐ上の辺りで、絶えず波紋が現われたり消えたり。そう、水面の上を、石か何かを投げ入れた時に出来る、あの波紋です。それが、見てる間に、幾重にも幾重にも連なって、その先に見える星や月やらが、それに合わせてユラユラと、踊るように揺れているのでした。それは、なんて心奪われる綺麗な眺めだった事でしょう。それを眺めている内に、ホルムさんは、すっかり当てられて、知らず体が右に左へと動き出すのを抑え切れなかったのでした。

「あれは、いったい、何なのですか?」

 足元も覚束なく、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、途切れ途切れに言葉を紡ぐ事しか出来ないホルムさん。仕舞いに足を取られて倒れ掛かるところを、ルナさんはそっと受け止めて、耳元にささやく様に答えるのでした。

「あれは、みんな星から来るのですよ。一年の内、今夜この日だけ空の星から、それはそれは綺麗な雫が降って来るのです。それがこうして街いっぱいに満ち溢れるのです。」

 ホルムさんは、まだ酔い心地で、

「でも、なんていい心地がするんでしょう。」

と、答えるのがやっとでした。

「ええ、この中にいると、どうしてだか、どんな人でも心の奥が解きほぐされた様になって、今までで一番大切な思い出が目の前に浮かんで来るんです。ほら、あすこに。」

 と、ルナさんが指差した先には、道端に座って、まるで海藻にの様にゆるやかに揺れているお爺さんの姿がありました。

「あの人はきっと、まだほんの小さかった頃の事を、ゆっくりと味わう様に思い出しているのでしょう。まるで、温かい暖炉の傍でおばあさんからお話を聞いている様に。」

 星の雫がもたらした流れに乗って、二人の後ろから漂って通り過ぎ去って行く人は、

「あの人は昔子供の頃、遠くの山で羊飼いをしていたんです。きっと、その時の羊達 と一緒に山を駆け回った時の事を思い出しているのでしょう。ほら、あんな楽しそうなお顔で……。」

「そして、私は……。」

 と、ルナさんはそっと目を閉じると、ゆっくりと話し始めるのでした。

「私の思い出も、やっぱり他の人達と同じ、小さい頃の誕生日の事なんです。」

「それが、何時の頃の誕生日だったのかまでは思い出せないのだけれども、ただ、私を囲んだ大人たちや小さいお友達が楽しく歌っている中で、テーブルの上のバースデーケーキの蠟燭の光が、暗い部屋の中にぼんやりと灯って、時には楽しそうに、時には少し哀し気に揺れ傾いでいたことが、何故だか瞼の裏に浮かんで来るんです。」

 ルナさんが言い終わるが早いか、突然ホルムさんの背中をかすめる様に。幾人かの子供たちが通りを駆け抜けて行きました。その先頭に何かキラキラと輝くものを追いかけて。

「魚の幻燈です。」

 と、ルナさんの言葉。

「この日にはあちこちで見られる子供達の遊びなんです。あんな魚の形をした幻燈を星の流れに乗せて、子供達はそれを追いかけて、街中を走り回るんです。何時までも、息の続く限り、それが夢の向こう側に届くものと信じ切って。だって私もそうだったから。」

「きっと、あの子達が大きくなった時にも、この日の事を思い出すのでしょうね。」

 ホルムさんは、それまでずっと一言も言葉を挟まないままルナさんの言葉に一つ一つ相槌を打っていましたが、突然、

「僕の中には、一つの風車があって……。」

 などと言い出したものですから、ルナさんの目はそれはそれは大きく見開かれる事になりました。

 自分で思っていたよりも大きな声になった事に驚いたのか、ホルムさんは誰かにではなく、まるで自分に向かって話しかけている様な低い声で、半ば伏し目がちになって続けるのでした。

「いいえ、本当に身体の中に風車があると言っているのではありません。物の例えです。ただ、時々そんな気分になる、というだけの話です。この僕の中にある空想の風車は、普段は特に変わりなく、それこそ自分でも気付く事もないくらい滑らかに廻っているのですが、どうかすると、羽や軸なんかに、何か脂ぎった嫌なものが一杯こびり付いて動かなくなってしまうのです。もし、動いたとしても、それはギシギシと苦しそうな音を立てて、そんな時は、日がな一日何もする気が起きなくなってしまうのでした。僕がここに来る以前に住んでいた街での事です。

 そんな時僕はどうしたか、といいますと、街で一番高い建物の上に駆け上がり、その上に果てしなく広がった夜空に一杯にちりばめられた星々の光に、この身をさらしたのです。」

 一息ついて、少しの間黙り込んだホルムさんは、今度はルナさんに向き直って、ゆっくりと語り掛ける様に話し始めました。

「一体、星の光というのはどうしてそれを見ている人に、何か、こう、身体中がすっとする様な清らかさを感じさせるのでしょう。

 考えてもご覧なさい。今こうして僕達が眺めている星々の光は、何千年、何億年もの前のものなのです。その間にその元となった星々自体が疾うに無くなっている事だってあり得る位には。そんな長い間、暗い何もない宇宙のを旅して来た光は、どうなってしまうのでしょうか? それは、地下で砂や砂利などで濾されて、すっかり混じりけのないものになった湧き水みたいに、旅の途中で、それが始めに含んでいた様々なものを振り捨てて、僕達がいるこの地へと届く頃には、それはそれは清らかなものになっているのでしょう。

 そんな星の光が、屋上に立っていた僕の身体の中を、まるでそこに何も無いかの様に、すんなりと通り抜けてしまう様に感じたのでした。そしてそんな風にしてじっと星の光を浴び続けていると、いつしか僕の中の風車にそれまでこびり付いていたものが、少しずつ剥がれ落ちていくのを感じ、気が付くと、僕は自分の風車がゆっくりと、再び音もなくクルクルと滑らかに廻っているのを感じながら、この上なくさわやかな気分で立っている自分に気付くのでした……。」

「これが、僕の思い出です。それにしても、この事を今まで忘れていたのは自分でも不思議です。尤も、あの都会での事は、なるたけ思い出さない様にしていたからかも知れませんけどね。」

 話しながら、ホルムさんはだんだん心配になってきました。何故って、聞いている筈のルナさんは、あさっての方向を向いて、何か考え事をしている様に見えたからです。おかしな話をして退屈させてしまったのか、と。

 結局、聞いていなかったのかな、とホルムさんが半ば諦めかけたその時、突然、ルナさんはパッと向き直り、

「それでは、やっぱりあなたは遅かれ早かれここに来る事になっていたんですね。」

 と、弾む声で言うのでした。そしてまたサッと向きを変えると(この仕草が、嬉しくてたまらないといった時に、ルナさんが見せる物である事にホルムさんが気付くのは、もっと後になっての事です)、また元の様にゆっくりと歩きだすのでした。


 それから、二人が一通り街を巡ってから、下宿の前まで戻って来ると、玄関の扉は開け放され、中からは明るい光と、いかにも愉快でたまらない、といった笑い声が洩れ聞こえて来るのでした。ルナさんは少し笑って、

「ホラ、思った通り。叔父さん達、もう始めてますよ。」

 中に入ると、バラムさんとその友人と思しき人達は、既に何本かの酒瓶を空にしており、ホルムさんも入るなり否も応もなく大きなテーブルの前に座らされて、手に押し付けられたグラスの中に、たった今開けたばかりの瓶の中身を縁一杯まで注がれる羽目になったのでした。苦笑しながらもグラスを口に付けようとしたホルムさんに、その時、ルナさんはそっと耳打ちするのでした。

「大丈夫、後で酔い覚ましのお茶をさしあげますから。」


 この後、ホルムさん達がどんな事を話し合ったか、また、ルナさんの煎れてくれたお茶がどんな味だったか、皆さん色々と興味がおありでしょうが、その事はまたの機会という事で、今回はここまでという事で……。



                                 おしまい





 



 

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