第19話 転覆病
水槽の上に、ぷかぷかと金魚が浮かんでいた。
死んでいるわけではない。だけど、うまく泳ぐことができなくなったようで、何度も尻尾をばたつかせている。
みかんさんが学校を休み始めてから一週間。先生は風邪だと言っていた。
実際のところどうなのかは私にも分からない。私がvtuberをやめたショックで寝込んだなんて思うほどうぬぼれてもないし、ただ、連絡先を交換していなかったので確認のしようがなかった。
私とみかんさんは、
「なんだ、いるのね」
ドアが開いて、黒い髪が靡く。
会ったのは一ヶ月ぶりくらいだろうか。あれから蛍は理科室に来ることはなかった。とはいえ、私も週に二回しか来ていない。
「な、なにしに」
「別に、来たっていいでしょう? どうせ幽霊部員しかいない幽霊部活なんだから」
「そ」
喉の奥で泡が生まれる。死ぬために生まれてきた泡だ。
蛍は向かいの椅子を引き腰掛けると、頬杖を突いて私を一瞥した。
「あなた、そんなに喋るの下手だった?」
「あ、ぇ」
そういえば、一週間くらい言葉を発していなかったかもしれない。お母さんに呼ばれたときに、吐息混じりの返事モドキをした記憶はあるけど。
「vtuberやめたんだってね」
水槽に浮かぶ金魚は、お腹を天井に向けている。口をパクパクと動かしているが、無表情だ。一体何を訴えかけているのだろう。
「み、みかんさんに、聞いた、の?」
「あなたの配信が滞っているのと、
同じことじゃないか。
「ありがとう、やめてくれて」
「な、なんで?」
「言ったでしょう? どうせなら早いほうがいい。どうせ長続きなんかするわけないんだから」
蛍の瞳は出会った頃からずっと冷たい。だけど、今日に限っては、温度すら存在しないように見えた。完全に停止した瞳は、まるで石膏のようだ。
「柚木先輩はね、昔、とあるvtubaerを推していたの」
蛍も水槽に浮かぶ金魚に気付いたようで、立ち上がって近づいた。
「元々柚木先輩は大人しい人でね、人見知りなところもあった。彼女と初めて会ったのは小学校の頃だったけど、引っ込み思案で、人の目を見て喋れないような人だった。だけどそのvtuberの影響で、人と喋るようになって、明るい性格になって、服装なんかも派手になったの」
指で金魚を小突くと、金魚は驚いて水槽の底に逃げていった。
どうして触るんだろう。金魚は絶対、そっとしておいて欲しかったはずなのに。
「ずっとコメントをしていたこともあって、あっちにも認知されてたみたい。柚木先輩はDMなんかでずっと応援とか、配信の感想を送っていたらしくってね、時々会話もあったと言うわ」
底を泳ぐ金魚。だけど、重心が安定しておらず、すぐにまた水中を漂い始める。私でも分かる。あれはもう、ダメだ。
「だけどある日、そのvtuberが引退したのよ。原因は事務所の対応の悪さと、それから数字の伸び無さ。あとは――」
蛍は水槽の中の金魚を見ていた。目を細めて、だけど哀れむような視線ではなかった。どこか、慈しむような瞳をしている。
「リスナーさんからの応援が重かったって」
言葉が私の言動をなぞるようだった。
途端に目のやり場に困る。視線が、金魚のように不規則に泳いだ。
「自分のことだって気付いた柚木先輩は、かなりショックだったみたいで、長い間部屋から出てこなくなったわ。幼なじみの私が言っても出てこなくって、それから少し経って入院した」
「にゅ、入院?」
「精神的なショックで食事ができなかったと親御さんは言っていたわ。部屋で倒れていたからすぐに救急車を呼んだらしいけれど、点滴を打って、しばらくの間入院することになったの」
そんなことがあったなんて知らなかった。あのみかんさんが、ショックで寝込むだなんて。
「私もすぐにお見舞いに行ったわ。でも、病室にいた柚木先輩は抜け殻みたいに動かなかった。私が花を置いて帰ろうとしたとき、柚木先輩は言ったの。『好きになっちゃいけなかったんだ』って」
蛍は椅子に腰掛けることはせず、テーブルにお尻を乗せた。足を組むと、私を見下ろす。
「でも、それからまた一週間後にお見舞いに行ったら、柚木先輩は生まれ変わったみたいに元気になってたわ。お見舞いに来た私に気付くと、柚木先輩は嬉々としてスマホを見せてきた。そこに何があったか、あなたには分かる?」
分かるわけない。私は首を横に振った。
「柚木先輩が見せてきたスマホにはね、雨白というvtuberが映っていたわ」
頭がぐらついた。
記憶をなくす前の自分の姿を、写真で見せつけられたかのようだ。そんな自分存在しないはずなのに、この世界に存在していた証拠だけを突きつけられる。
「柚木先輩は何度も私に言った。『好きになっていいんだよ!』『この人みたいに、あたしも自分の気持ちに嘘を吐きたくない』って。一字一句、覚えているわ。あの日見た柚木先輩の笑顔は、今でも忘れることはない」
「わ、私、の?」
「ええ、そうよ。あなたよ。あなたを見て、雨白の配信を見て、あの人は希望を取り戻したの」
「なん、で」
「あなたの投稿しているギアテニ配信の中に、一つだけ再生数が多いものがあるわね」
蛍の言う通り、一年ほど前に投稿したアーカイブ動画の中に、他のギアテニ配信よりおも明らかに伸びている動画がある。
「そこに答えがある」
水槽のろ過装置が循環を始めて、理科室にボコボコと音が鳴り始めた。
「vtuberなんてね、スナック菓子みたいなものなのよ」
「お、お菓子?」
「消費されるだけの代物ってこと。あなたも薄々気付いているんでしょう? 初見配信にだけ沸く視聴者。ゲームによる伸び率の変化。コメントの比率。上っ面だけのチャンネル登録数。大手事務所に所属している人は違うかもしれないけれど、これが個人勢の現状よ」
数字……そうだ、私がずっと欲しがっていたもの。欲しくてたまらなかったもの。
「誰もあなたを観に来ていたわけじゃない。リスナーは『自分の好きなゲームをプレイしている誰か』を観たかっただけなのよ。コメントをしてくれる人は全員『コメントを確実に拾ってくれる弱小個人勢』を狙い撃ちしているだけ。大手の配信でコメントしても、流されるのがオチだから、そんなような日頃から誰にも相手にされないような人間の欠陥品が、承認欲求を探しに歩いて辿り着くのがあなたのような配信者なのよ」
蛍の言ってることに反論したかった。
だってそうしないと、私の配信に来てくれた人たちを否定することになるから。
だけど、声がでない。
リスナーさんの名前は、私なりに全員覚えていたはずだ。だからこそ、来なくなったリスナーさんの名前も、一人欠けることなく覚えている。
身に覚えなど、百ほどあった。
「vtuberの実態ってそんなものよ。最初は楽しければいい、自分のやりたいことをやるっていう風に始める人がほとんどだけど、結局数年経てば、数字という残酷な刃物に切り裂かれて限界が来る。あなたみたいにね」
限界が、私にも来ていた?
「柚木先輩はね、大切な存在との別れを耐えられるほど強い人じゃない。あの人が小さい頃に、飼い犬が死んだのだけど、そのときも柚木先輩は数日寝込んで学校に行けなかった時期があったわ」
「え、じゃ、じゃあ。今、柚木先輩が学校に来ないのって」
「はあ? 気付いていないの? あなたのせいに決まってるでしょう?」
蛍は大きなため息を吐く。
「でも、感謝するわ。早い内にやめてくれて。これで三年ほど経ってから引退しますなんて言ったら、柚木先輩が何をするか分かったものじゃなかったから」
確かに、たった一年推した私がやめると言っただけで、寝込むくらいだから。推してる期間が延びれば延びるほど……みかんさんは。
嫌な想像をしてしまって、血の気が引く。
「少し話し過ぎてしまったわね」
蛍は立ち上がると、私に背を向けた。
「忠告を聞いてくれてありがとう。それじゃあ」
その優雅な歩き方を、羽が舞うようだと私は前回見たときに思った。だけど、今はどうしてか、歪に見える。この理科室に、今、正常に前を歩けている者はいない。
水槽に浮かぶ金魚も、私も、そして蛍も。
気付かないうちに、自分を支える何かが、腐りかけている。
「それ、だけ?」
蛍は足を止めた。
数秒、いや、一分ほどかもしれない。静寂のあと、蛍は振り返った。
「ずっとあなたのことを話してた」
「み、みかんさん?」
「あなたが雨白だって気付く前も、気付いた後も。ずっと私にあなたの話をしてきた。あの人はあなたのことが本当に大好きだった。尊敬していた。憧れていた。だから、推しだった」
ぺりぺりと、皮膜が破れていく。自分を守るために構築した防護壁がなくなり、言葉や感情を直に受け止めるしかなくなる。そうすれば傷つくし、血だって出る。けど、触れる温かさも褪せることなくこの身体に届く。
「あの人を悲しませない方法は二つある。一つ、vtuberをやめる。そうすればあの人の悲しみは、これ以上大きくなることはない」
「でも、悲しんでることには」
言って、睨まれた。
分かってる。私が言えることじゃない。
「そしてもう一つは、死ぬまでvtuberを続けること」
「し、死ぬまで?」
「あなたが、じゃないわ。柚木先輩が死ぬまで。あの人があの人の人生を終えるまで、あなたはvtuberを続ける」
「そ、そんなのできるわけないよ……」
「だから言ってるでしょう? 選択肢は二つあるって。そしてあなたは、前者を選んだ。それだけのこと」
それは、そうだけど。
理科室のアンモニア臭が、今はとてもキツく感じる。臭いも音も、いつにも増して心を脅かしていく。
「選ぶしか、な、ない、じゃん。前の、方を」
「あなた、少なくとも前会った時は、堂々と話していた気がするけれど……まぁいいわ」
蛍は長い髪を手で救うと、私の背後に目をやった。
「それから、あの金魚……転覆病ね。餌を減らして塩浴させれば治るはずよ。再発する可能性もあるから、根気はいるけれど」
「そ、そうなの?」
「ええ、引退すれば消えるvtuberと違ってね。命ってそういうものでしょう?」
「く、詳しいんだね」
蛍は理科室のドアに手を掛けた。出て行くとき、蛍の横顔が見えた。
蛍は笑っていた。
「金魚、好きなのよ」
そう言って去って行く蛍。
私は水槽に近づいて、ひっくり返っている金魚を眺めた。金魚は相変わらずお腹を天井に向けて、口をパクパクさせている。
もう長くはないって思っていたけど、まだ治るんだ。
でも、このひっくり返る病気は再発の可能性もあるって蛍は言っていた。
「ど、どうする?」
塩浴っていうのは、塩を0.5パーセントの濃度にした水で泳がせて、療養することだ。
塩水を作るだけなら、私でもできる。
でも、再発するって。
もしかしたら、今だけでも苦しいのに、また同じ苦しみが続くかもしれないんだって。
私だったら、そんなのはやだな。
だって、ずっと苦しかった。配信を始めて、人に見られるために努力して。でも、それが報われなくて、誰も観てくれなくて、落ち込んで、泣きそうになって、自暴自棄になって、色んな人を憎もうともした。
もし、蛍の言った選択肢の、もう一つを選択したとして、長い人生だ。必ずどこかで、私はまた、泳ぎ方を、生き方を忘れる日が来るはずだ。
そんなの、苦しいだけだよ。続けられないよ。
あなたは、どうする?
浮かんでいた金魚はくるっと身体の方向を変えると、水中に潜っていった。
不格好な泳ぎ方で。
下手くそな泳ぎ方で。
他の金魚たちを、一生懸命追いかけ始めた。
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