第38話 動悸2



 昼食を食べて街を歩き回り、フィリップやクレアたちへのお土産を買い集めた頃には私の胸を支配していた謎の動悸も治まりを見せていた。


(やっぱり気のせいだったみたい……)


 ホッとしながら息を吐く。

 前を歩くフランを見つめていたら、急に振り返って目が合った。それだけでも驚いていたのに、更にどういうわけか大きな手が私の手を掴む。



「走れるか?」

「えっ……!?」


 返事も待たずにすごい勢いでフランは駆け出す。

 私は置いて行かれないように懸命に脚を動かした。


 黄色い双眼は何かを見据えて前だけを向いている。人混みの中に目を凝らして、私はいったい彼が何を追っているのか見定めようとした。


(………魔術師?)


 黒く長いローブはラメールなどの魔術師が着ているものだ。聖女が光の力を借りるために白を好むのと同様に、魔術師たちは影を吸収する黒を身に付ける。


 逃げる魔術師は途中で散歩中の牛の群れに遭遇して慌てたような素振りを見せたが、左手で牛を押し退けてすぐにローブを翻すと、そのまま坂を駆け降りて行った。


 草に群がっていた牛たちは私たちがその群れを擦り抜ける時にはすでに様子がおかしく、牛の手綱を引いていた男が「早く歩け!」と脇腹を蹴飛ばすと、もたついていた最後尾の牛が短い角をとなりの牛目掛けて突き刺した。


 苦しげな声が響き、大きな身体が横倒しになる。



「まずいな、逃げられる……!」


 フランの視線の先でローブの逃亡者はすでに小さくなっていた。私は咄嗟に手を離して口を開く。


「フラン、ここは良いから行って!」

「だけどこいつはもう魔物になるぞ、」

「これぐらい私一人で大丈夫よ。理由は知らないけど逃しちゃいけないんでしょう?追い掛けて!」

「……分かった」


 フランは一つ頷いて駆け出す。


 私はジャケットの腕を捲って牛と向き合う。ぼんやりとした普段の様子からは想像出来ない荒々しい様子で牛は私の前に立っていた。黒い目玉の奥からどろっと血が溢れて柔らかな毛を汚す。


 火なのか、水なのか。

 どちらの属性か見極められたら良いけれど、まだ魔物に成り切っていないこの牛を待つのは危険だ。完全に魔物になれば、攻撃を見ることで属性を知ることが出来るものの、そうなった場合は一人で止められるか分からない。


(角さえ気を付ければ大丈夫よね、)


 恐る恐る近付き、脇腹に手を添える。浄化が効くのか分からないがやってみるしかない。幸いにも太陽の光は届いているから、一定の効果は期待出来るはず。


 ぽうっと牛の身体が光って、流れ続けていた血が止まった。私はスカートの裾を破って、汚れてしまった白い毛を拭う。地面にへばりついた飼い主には、念のため獣医の診察を受けるように伝えた。



 去って行く牛の群れを見送っていたら、フランが戻って来るのが見えた。


 黄色い目が私の顔を見た後、手に付いた汚れへと移る。先ほどの牛の顔を拭いた関係で、両手にはべっとりと血糊が付いていた。


「ローズ…!大丈夫か!?」


 普段の彼から想像もつかない声で、フランが私の名を呼ぶ。私はビックリして「牛の血だから」と小声で言い添えた。瞬間目を丸くしたフランが力が抜けたように座り込む。


「………ごめんなさい、服が汚れたわ」


 借りていたジャケットには赤い染みが出来ている。

 フランは下を向いたままで首を振った。


「そんなものどうでも良い。お前が怪我したかと思った」

「貴方、結構私のこと心配してくれるのね?」


 いつもの調子で皮肉が返ってくると思っていたのに、顔を上げたフランは真剣な顔をしていた。だらりと脱力した私の手を取ると、すっかり乾いた血の上に口付ける。


「フラン、汚いから……!」

「心配で堪らない」

「え?」

「あんたのこと、いつだって気にしてる。本当は昨日だって俺を選んでくれて嬉しかった。プラムのためじゃなくて、願わくば自分の意思でそう思ってほしいけど」


 徐々に暗くなっていく空に、気の早い一番星が浮かんでいる。らしくない態度と気紛れな優しさが重なって、心臓がまたグラグラした。「帰ろう」と差し出された手を取って歩き出す。


 私はただ、繋がれた手から伝わる体温を感じていた。

 今度の動悸はいつまで続くのだろう。


 夜道には二人分の影が伸びる。


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