第3話 不知ぬが仏の散歩道①

 東京都を東西に結ぶ路線、総武線。東京の最東に位置する駅は、新代にいしろというらしい。東京の地理に疎い啓介には初耳の地名だ。

 江戸川区、新代町。その駅から十分程歩いた場所に、〈コ〉の字型の大きなマンションが在る。ミューズと呼ばれるイギリス式のマンションで、馬でも通れる背の高い門の付いた中庭が特徴的な建造物だ。

〈ブロウン荘〉と銘打たれた集合住宅の一室。そのベランダで腰壁に身体を預けて、パジャマ姿の啓介は眼下の中庭を見下ろしていた。

 啓介が此処に引っ越してきたのは、ほんの数日前。電網探偵・明石家九郎の助手として雇われた彼は、福利厚生の一環としてこの一室を与えられた……というのは建前で、手に入れた玩具を手元に置いておきたいのが彼女の本音だろう。

 時刻は朝の七時。勤務開始の八時までには、まだ充分な猶予がある。

 啓介がふと顔を上げると、中庭を挟んだ向かいで、一つ下の階に位置する一室が目に留まる。


「ん……?」


 無防備にカーテンの開け放たれた窓からは、部屋の内側が丸見えになっている。そこから見えたのは、裸の上から白いブラウスを羽織っただけの九郎だった。深い谷間と程良く腹筋の浮いた腰回りが見えてしまい、啓介は数秒硬直する。

 辛うじて残った理性が身体を跳ね上げ、半ば後ろへ倒れるようにして、啓介は腰壁に身を隠した。


「な、何をしてるんだ私は……最低だぞ啓介……!」


 自らを叱責し、若干やつれながら啓介は自室に戻っていく。スーツに着替えながらも、脳内では先程の光景が焼き付いて消えなかった。


 始業時間の三十分前に、啓介は九郎の部屋の前で扉を叩く。


「入りたまえ」と言われたのでドアノブに手を掛けると、すんなりと開いてしまった。カーテンだけではなく、玄関の鍵すらも閉めていないらしい。呆れた無防備さだ。


「おや、スーツで来たのかね。部屋着でいいと言ったのに」


 奥の部屋から玄関に出てきた九郎は、黒いスポーツブラとスパッツ姿に先程のブラウスを羽織っただけの、極めてカジュアルな格好だった。


「く、九郎さん。その格好はちょっと……」

「何だね、顔を赤くして。ボクのカラダならもうだろう?」

「んなっ⁉︎」

「ほら、早く上がりたまえ。朝食にしようじゃないかね」


 啓介が見ていた事を、彼女は知っていたのだ。いや、態と見せつけていたのだろう。


「あれも福利厚生だよ。ボクの美しい姿を拝んで、一日の活力にしてくれたまえ」


 あながち効果が無いとは言えないのが、啓介には情けなかった。

 靴を脱いで九郎の部屋に上がった啓介は、一つの荷物を持参している。風呂敷の包みだ。

 ダイニングキッチンの食卓に、彼はそれを広げる。中に入っていたのは、出汁巻き卵とウインナー、加えてアルミホイルに包まれたおにぎりである。


「これこれ。これが食べたかったのだよ!」


 九郎はうきうきと銀紙に手を伸ばし、剥いていく。中から現れたのは、艶々と醤油色に照り輝く炊き込みご飯である。キノコ類と根菜が実として炊き込んである。


「昨日の残りをおにぎりにしてくれたのだね。ボクの期待通りだとも!」


 啓介に与えられた業務の一つが、九郎の衣食住を世話する事であった。彼女の生活力は極めて低い。特に炊事に関しては、一日の三食をサンドイッチのみで済ませる程だ。幸い啓介は長い一人暮らしで一通りの家事経験があった為、九郎の強い希望で家政夫としての仕事を任されたのである。

 朝食を食べながらも、九郎は手元のノートパソコンで何やら作業をしている。


「執筆は順調ですか?」

「昨晩原稿が上がったところだよ。今は推敲作業中だ。それも、もう直ぐに終わるけどね」


 プロの作家である九郎は、〈クリーピー・テイルズ〉なるオカルト雑誌に小説を寄稿している。正直な話、原稿料は雀の涙である。だが単行本の印税はそれなりにあるそうだ。

 尤も彼女にはブロウン荘という莫大な固定資産がある為、生活の糧を得る為に働く必要は無いのだが。


「よし、完成だ! 今回はかなり納得のいく出来栄えだよ。啓介くんが現場でみっともなく喚いてくれたおかげでね」

「あ、ありがとうございます……」

「ときに啓介くん。原稿上がりの気晴らしに、少し散歩にでも行かないかね」

「散歩ですか? 別に構いませんが……」


 何の気無しに啓介が返事をすると、九郎はにまっと笑って卓上のノートパソコンを回す。啓介の方に向いた画面には、アカチャネルが表示されていた。


「今朝から話題のチャネルだ。【近所にある禁足地を挙げるチャネル】というのが盛り上がっていてね。ボクも色々と物色していたのだよ」


 禁足地とは、読んで字の如く〈足を踏み入れる事を禁じられた土地〉だ。


「私も少し見てましたよ。禁足地って、こんなに沢山あるものなんですね」

「ここにあるのは大半が創作だよ。また騙されちゃったねぇ、啓介くん」


 九郎はにたにたと笑って啓介を揶揄う。


「……そのチャネルが何だっていうんですか。何か意味があるから私に見せたんでしょう」

「興味深いものが一つあってね」


 七師「小さい頃に、江戸川の橋を渡った先で不思議な場所を見付けたんです。町のど真ん中に突然現れる鳥居で、その先には奥が見えないぐらいの深い雑木林が広がってたのを憶えてます」

 大師「もしかして、本八幡の不知しらず森神社?」

 七師「そうです! やっぱり有名な所なんですね」

 七師「神隠しの森だっけ。いかにも禁足地って感じよな」

 七師「近場に住んでるから、凸してみようかな」

 大師「お、やっと探索班が出てくれたか。マハトマ!」

 七師「実は写真があるので、送りますね」


 アップロードされたのは、道路越しに歩道から撮られた境内の写真だ。大きな道路の脇に立つ、幅二十メートル程の狭い空間。入り口となる小さな鳥居以外は格子状の塀で阻まれ、その奥には深い竹林が続いている。


 七師「雰囲気あるね〜」

 七師「こんな小さい森から出られなくなるなんてあり得るか?」


 チャネルが不知ず森神社に関して盛り上がっていく中、九郎はノートパソコンを閉じた。


「という訳で、今から此処に行くよ♡」

「散歩って……やっぱり取材ですか」

「当然だとも。ボクにとって、恐怖の探求以上に気晴らしになる事柄など存在しないのだからね」

「行きます行きます。仕事ですから……」

「ささっと行って、昼過ぎには終わらせるよ。準備したまえ!」


 数分後、いつもの縦セーターとジーンズにベージュのコートを合わせた九郎がヒールを響かせながら中庭に停めてある車へと歩いていく。ヒールの高さを足すと二メートルを超える彼女が平均的な身長の啓介と並ぶと、恐ろしい程の身長差があった。

 二人は車に乗り込み、前の座席に並んで座る。運転は勿論九郎だ。


「啓介くんはチャネルの確認と実況を頼むよ。できるだけ今の話題で盛り上げなければならないからね」

「はい……九郎さんは、どうしてそんなにチャネルを盛り上げる事にこだわるんです?」

「先日の首吊り死体の怪異もそうだが、怪異というものが現実世界に顕在化するには、〈一定以上の人間による観測〉が不可欠なのだよ」

「観測……でも実際にを目撃したのは私と九郎さんだけですよね」

「目視する必要は無いんだ。話題として取り上げ、認識するだけでいい。人間の持つ意志の力とは存外強力なものでね。一つの対象に束となって向けられれば、ボク達のような能力者が干渉可能なレベルで現実へと浮上してくるのさ」


 車を運転しながら、九郎はルームミラーからぶら下げられた御守りを指で示す。


「不謹慎な言い回しだが、信仰はその最たる例だろう。逆に言えば、人々から信仰を失った神社は次第に現実世界への影響力を薄れさせていくものさ。宗教団体や各地の祭りは、神々の力を維持する為に存在していると言っても過言ではないのだよ」

「神様と怪異なんて真逆の存在な気もしますけど……」

「それは聖十字教や拝火教的な善悪論だよ、啓介くん。霊的な上位存在の在り方は、土地によって異なるものだ。日本においては、〈良い神様〉や〈悪い悪魔〉なんてものは存在しない。人間と同じように善悪の両面を持ち合わせ、時々によってその振る舞いを変えるのさ」


 オカルト作家というだけあって、九郎はこの手の知識に対する造詣が深い。尤も、彼女が自他共に認める虚言癖持ちという点には留意すべきであるが。

 そうこうしているうちに、右手側の車窓に不知ず森神社が見えてくる。不知ず森神社のそばには駐輪場しかない為、九郎は向かいの料金制駐車場に車を駐めた。外に出ると、九郎は直ぐ近くに歩道橋を発見する。


「啓介くん、あそこに登ろう! きっと神社を俯瞰できるよ!」


 禁足地を前にすると、九郎は子供のように元気にはしゃぐ。一方の啓介は既に気分が重くなり始めていた。まだ道路を挟んだ位置にも関わらず、境内からただならぬ気配を感じる。


「おっほぉ! これは立派な竹藪だねぇ、啓介くん!」


 足取り軽く歩道橋に登った九郎は、片手を額に翳して不知ず森神社を見下ろす。コンクリートの町並みの中で僅か二十メートル四方程の竹藪が鬱蒼と茂っており、その空間だけ数百年前から時が止まっているかのようだ。


「かしこみかしこみ八幡の神よ。貴方がたの足元を、土足で暴かせていただくよ」


 一人で呟く九郎のそばに、若干息を切らせて啓介が上がってくる。


「啓介くん、疲れ過ぎ。体力が衰えてるんじゃないかね?」

「それもそうなんですけど……さっきからどうも身体が重い気がして……」

「霊的被虐体質と言える程の虚弱さだねぇ。ま、精々祟り殺されないように頑張ってくれたまえ」


 九郎は不意にひょいっと啓介の身体を両腕で抱き上げると、そのまま飛ぶように走って歩道橋の階段を駆け降りていく。


「ひえええっ……もがっ」


 ゆさゆさと揺れる乳袋に顔を塞がれ、啓介は悲鳴も上げられずにされるがままで神社へと運ばれていった。


「さて、遂にご対面だよ」


 正面から見た不知ず森神社は鳥居の奥に小さな社が立つだけのこぢんまりとした空間であり、脇に在る石碑に〈不知八幡森〉と刻まれるばかりである。その奥に凹の形で深い竹藪が続いている。竹から香る独特の青臭さが、細い葉の擦れる音や木洩れ陽と相まって、何か神秘的なものに感じられた。


「さて。写真を上げてくれたまえ、啓介くん」

「あ、はい」


 啓介がスマートフォンで撮った写真をチャネルに載せると、探索班の動向を待っていたチャネラー達が食い付いてくる。


 七師「うおお! 本当に行ったのかよ!」

 七師「え、マジで入るの?」

 七師「良いぞ、行け!(やめとけやめとけ!)」

 大師「無理だけはしないでくれよ⁉︎」

 七師「これから中に入って実況します!」


 禁足地への無断侵入。社会通念的には、かなりマズい行為である。だからこそ、チャネル内は期待でお祭り騒ぎになり始めていた。


「啓介くん。これから君は、カメラマンとして敷地内の様子を常に実況してくれたまえ。何かあれば、ボクが守ってあげるよ」

「うう……嫌だなぁ。これも仕事これも仕事……!」


 二人は各々の歩幅で鳥居を潜り、境内へと侵入する。


「あ、ちなみに鳥居を潜っただけで祟られるらしいから、気を付けてね」

「それ、潜った後で言います……?


 九郎は此処で自分を殺す気なんじゃないか、と思わずにはいられない啓介だった。

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