南唯奈

 個室のドアがノックされ、ドアが開く。

「おつかれ」と言いながら、南が顔を出すと、当時の面影が微かに漂ってきた。化粧は控えめになり、自然な美しさが際立つ。黒い艶のある髪にも、当時の奇抜さは感じられない。品のあるスーツを身に纏った南は健斗の前の机に腰をかけた。金髪だった頃の彼女とは別人のように感じる。

「健斗もムツキちゃんも久しぶりだね」

 南は冒頭から不可思議なことを言った。

「ムツキちゃん?」と、健斗は眉を潜め、南が言った言葉を反復する。

「ちょっとした知り合いなんですよ」

 雨ノ宮が言うと、南は「えっ?」と声を挙げた。

「健斗にまだ話してないの?」

「はい。話してないですね。また、折を見て話そうと思っていました」

 雨ノ宮は、ばつが悪そうな顔を見せた。

「なんですか?」

 気になり健斗は訊ねるが、雨ノ宮は「まぁ、後ほど話します」と健斗の疑問を流した。

「とりあえず、乾杯しようか。健斗、ビール頼んで!」

 南はにやにやと口元を緩める。

 三人の飲み物が揃って、グラスをぶつける。「乾杯!」と、南は心地よい笑顔を浮かべた。

「元気だった?」

 健斗が訊く。

「元気なさそうに見えた?」と、南は呆れて口角を下げる。

「なら、良かった」

 あの事件以来、南に会うことはなかった。健斗が南を最後に見たのは事件の翌日の朝であった。南は、翌朝になっても肩を落とし、表情からは無気力が伝わってきた。痛々しく目を腫らし、その目は宇宙の闇を見るように遠くを眺めていた。

「今は何をやっているの?」

「仕事のこと?」と、南は首を傾げる。

「うん。仕事のこと」と、健斗が返すと、南は自らの職業を「声優」だと明かした。

「声優って、アニメのキャラクターの声や外国映画の吹き替えをやっているってこと」

「うん、そういう仕事もあるね」と、南はスマートフォンを取り出す。

「ほらっ」と、画面を健斗に見せた。

 スマートフォンを覗くと、何かのライブ映像が流れていた。

「これ、なに?」と、健斗には彼女が映像を見せた意図がわからず、訝しい表情を見せた。

「ステージで、歌っているのは私。少しは人気なの」

 ぶっきら棒に南が言う。彼女の手に握られたスマートフォンから流れる動画を見て、健斗は驚いた。確かに、溢れるばかりの観客の前で堂々と歌声を響かせていたのは南であった。

「もういいでしょ」と、南は目を細め、流れる映像を停止させた。

「南さんはアニメ業界だと、ちょっとした有名人なんですよ」

 雨ノ宮の補足に、南は頭を掻いて照れくさそうにしている。

「声優なのに歌うんだね?」

 健斗の知らない文化であるので質問をした。

「歌うこともあるね。それに私は上手に踊れる」

 南が有名なダンス部の部長であったことを思い出した。南はステージの上に立つと別人のように変われるんだ。研修発表の時もそう。スポットライトに照らされた瞬間、鮮やかに羽を振り、風に誘われて舞い上がる蝶に変わった。

「千明ちゃん、死んだんだって?」

 唐突に南が切り出す。

「そう。それがきっかけで、七年前の事件のことを調べている」

 南が一瞬、表情を曇らせたのが伝わった。

「苦しいかもしれませんが、南さんに思い出してほしいことがあるんです」

 雨ノ宮の言葉と共に、健斗は胸ポケットに閉まった千明が綴った手紙を取り出し、それを南に差し出す。

「こういうのは、お酒を飲む前に渡してよね」と愚痴を言い、手紙を開いた。

 無言の時間が流れる。

 南は何を考えているのだろう。

 彼女は七年前の事件によって、愛する人を失い、我を忘れ、意識までもを失った。金子社長が死んで、苦しんでいる南の姿は健斗の目に焼き付いている。

 南はゆっくりと手紙を閉じた。

「ありがとう」と微かに微笑んで手紙を返す。

「二人で事件のことを調べているの?」

「はい。誰かが金子社長を何らかの方法で殺害した可能性があります」

 雨ノ宮が応えた。

「誰かって、そんなことができる人なんて限られているよね?」

「えぇ。七年前に皆さんのグループの中にいたどなたかでしょう。それは、山岡さんかもしれないし、南さんかもしれません」

 突然、名前が呼ばれて、背中にぞくりとした振動が走った。

「そうだね。私が殺した可能性もあるのね。聞きたいことって何?」

 南の顔からは、柔らかな表情が一掃される。

「まずは、事件の前日の夜のことです。南さんと金子社長が口論している声を聞いた方がいます。事件の晩、何があったんですか。どうして、南さんは社長と口論をしていたのですか?」

「そうだったね。北条楓が聞いてたんだっけ……」と俯き、「全部私のせい」と、くぐもった声を発した。

「詳しく教えていただけませんか?」

 南は頬杖をつき、溜息を吐く。

「これでも、苦しんでいたんだよ」

「知っています」

 雨ノ宮の丸い瞳は、南から離れることはない。南は、「わかった」と重くした口を開いた。

「口論の原因は私が嘘をついたこと。妊娠をしていると彼に言ったの。彼を試すために」

「どうして、そんなことを」と、健斗は訊く。

 無表情に南が応えた。

「長くなるけど、いい?」

 健斗と雨ノ宮は同時に頷いた。

「わかった。悠真と出会ったのは私が高校三年生の春のことだった。私は、上質なスペイン料理のレストランでアルバイトをしていたの。その店は、繊細で美しい料理と、洗練された雰囲気が評判だった。悠真は、その店の常連だったの。彼とはじめて会った時のことはよく憶えている。彼は女性と二人でそのレストランに訪れ、私が担当するテーブルに案内された。テーブルに歩み寄り、笑顔で挨拶した。その瞬間、目が交わって、何か特別なものが始まる予感がしたの。本当だよ。ダサいでしょ?」

「そんなことはない」と、健斗は言う。

「可笑しいでしょ。悠真は女性と二人きりで店に来客してたの。一目惚れだった。彼が大きなIT企業の社長だということはその時は知らなかった。数時間したら女性は帰った。でもね、悠真はその席に残ったの。彼がお酒を注文した時に勇気を出して聞いてみたの、『お連れの女性と一緒に帰らなかったのですか?』って。彼は私の目を見て言ったの。『より素敵な女性が近くにいたら、目の前の女性に対する興味は薄れ、新たな幸運を手に入れたくなるだろ』と。私の想像していた人と、全然違った。凄くかっこ悪い人だと思った。『あなたを残して、帰れた女性こそ、幸運ですね』って、口にしてた。悠真は腹を抱えて笑っていた。たぶん、彼は酔ってたから。私も可笑しくて笑った。何故か、その夜、私たちは長い時間を一緒に過ごした。好きな料理や映画についての話が楽しかったの。私は悠真の彼女の一人になった。何人いるのかとか、何番目なのかとか、気にすることはなかった。大きな会社の社長だと聞いた時、私とは遊びなんだと理解した。でもね、悠真が私のことを愛してくれているのは徐々に伝わった。私を抱きしめる時、彼は太陽のように温めてくれたから。こんな退屈な話、続けていいの?」

 南は無感情に訊ねた。

「続けて」

「私はね。自惚れではなく、彼にとって、私が一番であることに気がついていったの。根拠はない。でもね、『君は太陽のようだよ』と彼は言ったの。それなら、私が一番だって思った。だけど、私という存在がいても、悠真は他の女性と遊ぶことをやめなかった。いつからか私は、悠真が私以外の女性へ目を向けることが嫌になった。悠真に『バザーラホールディングスの採用試験を受けてみないか?』と聞かれたのは、そんな矢先のことだった。『受ける』と、すぐに答えた。私が人生を何回やり直しても入れるような会社ではなかったから。チャンスだと思った。悠真にも『君は、君が思っている以上に優秀だ』って言われて自惚れていた。でもね、最終面接の時に面を食らったんだ……」

「最終面接の映像は僕も雨ノ宮さんも見たよ」と、健斗が南の言葉を遮った。

「そっか。それなら分かるでしょ。私がこの会社に入社したら、彼は堂々と他の女と遊ぶようになる。私とは別れたくないけど、女遊びはしていたい。内定をチラつかせて、私を支配しようとしているんだ。私が優れているなんて口から出まかせだと思った。私の悠真に寄せていた想いは私の一方的なものでは足りず、悠真の想いも独占しなければ収まらなくなっていた。私が嘘をついたのは、彼の愛を試したかったから。子どもができたと言ったら、悠真はどんな反応をするのだろうか。溜息をつかれ、墜せと言われればそれで納得する。やり方は間違っていた。でもね、それ以外に私には彼の愛を確かめる方法が思い浮かばなかったの」

「口論になったのは、あなたの嘘を金子社長が責めたからですか?」

 雨ノ宮が訊いた。

「違う。悠真は自分の信念を伝えることはあっても、人のことを責めたりはしない。私のお腹の中に子どもがいるって言ったら、彼、何て言ったと思う?」

 南は雨ノ宮の瞳を固くとらえる。

「産みたいと言ったでしょうね」と、何故か雨ノ宮は当然のこととして返事をした。

「そう。悠真ね、『そうか、そうか』って言って。泣いて喜んだの。びっくりしちゃった。私の部屋のベッドのシーツに顔を隠すの。私の心の中には罪悪感が沸いてきた。ただね、その頃の私は自分の精神を整える方法を知らなかった。自分の非を認めることができない、自分勝手な女だったの。十代の女の子なんて、そんなものでしょ? 『子どもなんて、いないよ』って笑った。彼の喜びを見て、彼が傷つくのは分かっていたけど、私は冗談にすることしかできなかった。悠真はね、私を責めることはしなかった。同時に『今日は一人になりたい』って言われた。悠真は自分の部屋に向かうため、外に出る扉に手をかけたの。『待ってよ!』って怒鳴った。それでも。悠真が扉を開けたから『別れよう』と切り出した。私が嘘をついた理由を聞かない彼を憎らしいと思った。本当に自分勝手よね?」

「大抵の女子高生はそんなものなんじゃないかな」と、健斗はわかったようなことを口にした。だが、大抵の女子高生の心境など健斗は学んだことなどない。

「それでも、悠真が部屋から出ようとしたから、私は更に大きな声をあげた。さすがの彼も止まった。すぐに、悠真に対する不満を吐き出したの。交尾期の毒蛇みたいに、攻撃的に巻きついて、とてもヒステリックだったはず。北条さんに聞かれたのは、どの言葉だったかは分からない。ただ、北条さんは私たちが別れたものだと勘違いしていたみたいね」

「金子社長と恋人の関係を解消したわけではなかった?」

 健斗が訊く。

 金子社長への憎悪がその後の事件を引き起こした可能性も考えられる。南は内面の不安を抱えていたのだ。その次の晩、抑制できない感情が増幅し、それが凶行のきっかけになったのかもしれない。

「それは、ない。悠真は、私との関係をもう少し真剣に考えると約束してくれた。無意味な誓いだったけどね」

 南は軽々しさを演じていた。

「もう一つ質問をしていいですか。南さんは事件の晩のことで隠してることがあるのではないですか?」

 雨ノ宮が確認する。

「具体的に言って。私が何を隠していると思っている?」

 南は雨ノ宮に聞き返した。

「事件の直前まで南さんの部屋で金子社長と会っていたのではないですか?」

 南は口を固く結んだ。その仕草から雨ノ宮の推測が事実であることが窺える。

「南、そうなの?」と、健斗は新たな事実に驚き訊ねる。

「うん。直前まで一緒にいた」

「どうして、本当のことを話さなかった?」

「だって……」と、南は再び、口篭ってしまった。

「それは、薬を飲ませたからではないですか?」

 雨ノ宮は感情を示さずに、言葉を発した。

 南は「えっ?」と目を見開き驚いている。

「どういうことですか?」と、健斗が訊いた。

「これは、私の推測です。事件の日の金子社長は強い咳をしていたと、山岡さんは言っていましたよね」

「はい。とても体調が悪そうにしていました」

「同じく、体調を悪そうにしていた人は他にいませんでしたか?」

「それは、北条さんですね……」

 北条の場合は風邪ではない。当時の彼女は夜になると、心の問題で体調を崩してしまうのだ。だが、当時は風邪だと思っていた。

「そうです。北条さんです。そこで、思い出してほしいのは、北条さんと南さんの口論です」

「口論?」と、雨ノ宮の言葉を繰り返す。

「はい。山岡さんは廊下まで響く声を聞いていたのですよね。その時、どのような言葉が聞こえてきたんでしたっけ」

 雨ノ宮が健斗に思い出すよう誘導する。

「あなたが盗んだんでしょ?」

「そう言ってたようですね。『あなたが盗んだんでしょ?』と北条さんは南さんを責めてた。お風呂から出ると、鞄に入れてたある物がなくなっていた。浴場には北条さんと南さんしか立ち寄ってなかったのに。もし、北条さんの言っているとおり、南さんがある物を盗んでいたとすれば、それはなんだと思いますか。この状況から、考えられるものです?」

 健斗は頭に浮かんだ答えをすぐに口にする。

「薬です」

「そう。北条さんの鞄の中に入っていた薬を南さんは盗み、それを金子社長に飲ませたのではないでしょうか。そして、金子社長が飛び降りてしまった理由を薬をあげたのが原因だと勘違いしてしまった」

「私の勘違い?」と、南が眉を潜めた。

「はい。南さんの勘違いです。南さんはタミフルを金子社長にあげてしまったと思ったのではないですか?」

 南は控えめに頷く。

「金子社長はインフルエンザを発症していた。タミフルを飲んだ子どもが自宅の窓から飛び降りてしまう事故が報道される時がありますよね。南さんは自分があげた薬のせいで、金子社長が飛び降りてしまったと思ったのではないですか」

 南は顔をしかめる。

 健斗は研修合宿の一日目に西野が発した言葉を思い出した。

『北条の奴、インフルエンザじゃないのか。最近、流行っているみたいだし。あいつ、無理して、研修に参加したんじゃないよな』と、西野はグループのメンバーに語りかけた。

 その言葉を聞き、南は北条がインフルエンザに効く薬を持っていたのだと勘違いしたのではないか。

「ですが、南さんがあげた薬はタミフルではなかったのです」

 雨ノ宮が言う。

「どうして、ムツキちゃんにそんなことが断言できるの?」と、南が反論する。

 ただ、健斗と雨ノ宮には断言することができた。当時、北条はインフルエンザを発症していなかった。

「実は北条さんに確認を取りました。念のため、盗まれたのがタミフルだったか聞いたんです」

 これには健斗も驚いた。「えっ?」と発した声に、「聞けば優しく教えてくれますよ。北条さんは……」と雨ノ宮がつぶやく。

「タミフルを飲んだから飛び降りてしまったんじゃないの?」

 南が雨ノ宮に訊く。

「はい。それが理由ではありません。それに、タミフルを服用したことによる異常行動を起こす年齢層は十代だと言われてます。稀に、大人でもとっぴな行動をとってしまう人がいると聞きますが、いずれにしても、タミフルを服用したことによる異常行動が飛び降りた原因だったわけではありません」

「嘘?」と、南の瞳には驚きと困惑が宿っていた。

「本当です。自分のせいで、金子社長が飛び降りてしまったと思い込み、直前まで一緒に部屋にいたとは言えなかったのではないですか?」

 南は言葉に出すべきか逡巡していた。だが、南の表情を覗けば、雨ノ宮の話したことが事実であることは容易に確認できた。

「じゃあ、あの薬は何だったの?」と、南は微かな影を漂わせる。

「睡眠薬です」

 雨ノ宮が断言した。

 北条はその時期、心の均衡を欠いていた。彼女は失眠症で苦しんでいたと言っていた。彼女の鞄の中に睡眠薬が入っていても、決して奇妙なことではない。

「これも北条さんに聞きました。やはり、鞄からなくなっていたのは睡眠薬です。睡眠薬には効果がすぐに現れるものと、ゆっくりと現れるものの二種類があるらしいですね。効果がゆっくりと現れるものは、一般的には長時間の睡眠ができると言われているみたいです。北条さんが持参した薬はすぐに効果が出る薬でした。眠りにつくのは早くて、寝ている間は叩いたりしても起きることはない。ただ、効果は一時的で目が覚めてしまえば、もう一度眠ることはできないと、そんな薬を服用していたらしいです」

 雨ノ宮の説明を聞き、健斗は動揺していた。

 南と北条の話を合わせると一つの真実が浮かび上がってくるではないか。

「金子社長は眠っていた?」

「その可能性が極めて高いですね」

 健斗は口論する声を聞き、宴会場に入ってから、二十分以上もその場所にいた。南が金子社長に薬を飲ませたのは、それよりも前のことである。金子社長は眠りについていたはずだ。

「ってことは、千明ちゃんからの手紙の内容は本当ってこと?」

 南は空虚な眼差しを雨ノ宮に向けた。南にとっては、とても考えたくないことであろう。

「私は金子社長が誰かの手によって殺されたと考えています。南さんにはとても辛い話でしょうが……」

「ムツキちゃんにとっても、とても辛いことでしょ?」と、南が雨ノ宮の言葉に被せ告げる。

 健斗は、南の言葉の意味を解釈することができなかった。金子社長が誰かに殺されたという事実は、雨ノ宮にとって『とても辛いこと』なのか――と、ぼんやりと思索する。

 健斗は「ん?」と、疑問の意味で南に呆けた顔を向けた。

「ムツキちゃんは、金子社長の妹だから」

 南はあっさりとした口調で発した。『妹』という単語は、健斗の心に徐々に衝撃をもたらしていった。隣で座る雨ノ宮の方へ、ゆっくりと顔を向ける。

「妹?」

 雨ノ宮は静かに頷く。

「どういうことですか?」

「ごめんなさい。隠していたわけではないのですが」

 彼女の名前は『睦月』であった。

「元旦に生まれた妹?」

 最終面談の際に、金子社長は健斗に語りかけた。

 幼い頃、両親は離婚し、元旦の日に生まれた妹とも別々に暮らすことになったと、たしかに金子社長は言っていた。

「社長の妹であるなら、言ってくれても良かったんじゃないのですか?」

 上司に向かい少し荒い口調になってしまう。雨ノ宮は自分の兄が死んでしまった真相を知りたかった。そのために、健斗や千明を利用していたのではないか。

「山岡さんには先入観なく事件に向き合ってほしかった。私が金子社長の妹だって言ってしまえば、山岡さんは私に遠慮してしまいますよね?」

 『遠慮』という言葉に、納得してしまう部分があった。健斗にとって尊敬していた金子社長は、事件の真相が明るみになるにつれて、軽蔑の対象へと変わっていった。『金子社長に対しては、殺されても仕方がなかったのではないかと思うことはあります』と、健斗は雨ノ宮の前で告げたことすらある。

 仮に雨ノ宮が金子社長の妹であることを知っていたら、事件の真相や彼らの心の中に潜む本心を打ち明けてくれただろうか。

 対面した当時の内定者たちは、あの頃の想いを少なからず語ってくれた。もちろん、金子社長への想いも含めてだ。憎悪に似た感情を抱いていた者もいた。それでも、躊躇なく聞き出せたのは、雨ノ宮が妹である事実を隠していたからではないか。

「一理ありますね。当時の記憶についても全てをさらけ出すことはしなかったと思います」

「ただ……今まで打ち明けなかったことが悪いと思ってます」

 雨ノ宮は頭を下げた。

 長い黒上が顔を覆って、その表情は見えない。

「健斗?」

 南に促され、「頭をあげてください」と言った。

 それに、健斗にも後ろめたい気持ちはあった。

「僕の方こそ、金子社長を侮辱するようなことを言ってしまいました。すみませんでした」

 当時のグループの仲間に偏る気持ちがあったはずだ。今度は健斗が謝った。

「いいえ。たしかに、兄には誇れない部分も多くありましたから。金子社長は皆さんを精神的に追いつめるようなことを言っていました」

「でも……」と、すかさず南が反論する。

「でも、期待の表れだったんだよ。一度、悠真が話してくれたことがあるの。当時のグループの皆には苦悩を強いるようなことを言ったと。でも、彼らは優秀で試練を乗り越えることさえできれば大きく羽ばたけるような人材であると目を輝かせていた。苦しめ、嘲笑うために、皆に辛いことを言ったわけではない」

 南は口を早めて伝える。

「それでも、皆さんが過度に追いつめられていたのは事実です。現に最後の食事会の際、皆さんからご不満の声があがったわけですし」

「それでも、殺す必要なんてなかったでしょ?」

 悔しさを言葉に出した南は、唇を噛みしめ、目を充血させていた。

「そうかもしれませんね」

 肯定した雨ノ宮も口を閉じた。

 健斗は雨ノ宮の心情に思いを馳せていた。

 彼女の胸の中には、絶え間ない悔しさが覆い、深い沈痛として根付いていたのではないか。

 以前、雨ノ宮が北条に言った言葉は、彼女の気持ちを率直に吐露するものであった。

『金子社長の無念を晴らすためです。もし、仮に殺人を実行した犯人が存在するとしたら、その人は罪を償うべきですよね』

 至極真っ当な言葉であった。

 だが、健斗の胸中には、金子社長が命を絶たれたのだとしても、それはやむを得ぬ運命であったという微細な納得が潜んでいた。

 内定者たちの想いに共感し、殺されたのは仕方がないことであったという想いを抱いていた。

 何故か、千明のことが頭に浮かんだ。

 この七年間、千明の心の中にはどんな感情が交錯していたのだろう。彼女は犯人を知っていた。或いは、彼女自身が犯人だという可能性も考えられる。

「南さん、聞きたいことがあります。南さんが金子社長の元に駆けつけた時、四階の自分の部屋から落ちてしまったと思ったはずです。金子社長に生きてほしいと願うなら、その高さを確認するはずですよね」

「うん」と南は頷く。

「何か、変わったことはありませんでしたか?」

「変わったこと?」

 南が首を傾げる。

「例えば、人の影を見たとか」

「残念ながら、何も見ていないよ。ムツキちゃんが言うように頭上を見上げて、最初に私の部屋を見たの。暗かったけど窓が開いていなかったから、きっと屋上から落ちたんだと思った。もちろん、屋上にも人影はなかった」

「何か紐のようなものが見えたとか?」

 今度は健斗が聞いた。

「細工のようなものはなかったと思う。私も動揺していたから見落とした可能性はあるけど」

「もう一つ、いいですか?」と、雨ノ宮が訊く。

「どうぞ」

「北条さんのバックから薬を盗んだタイミングを教えてください」

「盗むつもりはなかったの。たまたま、大浴場に入ったら、先に北条さんが中にいた。脱衣所で北条さんのバックを見つけ、彼女が薬を服用していたことを思い出したの。バックから薬を取って、風呂には入らずに部屋に戻った」

「そこで金子社長に薬を飲ませた?」

「そう。悠真に薬を飲ませた後、私は再び、浴場に戻った。北条さんは私と入れ替わるように、お風呂場から出て行った」

「浴場から出た後、すぐに北条さんに電話で呼び出されたのですか?」

「少し違うかな。お風呂から出て、携帯を見ると北条さんからの着信が何件か入ってた。私から電話をかけた。そしたら、すぐに宴会場に来るように北条さんに言われた。そこから、あの罵声よ」

「お風呂には、どのくらいの時間入っていたの?」

 健斗が訊く。

「そんなこと知りたい?」と、南は目を細め不審がる。

「知りたい」

 健斗は真顔で断言する。

「三十分くらい」

「南さんの部屋には戻らなかったのですね?」

 今度は雨ノ宮が問う。

「そう」と、南は悲し気に呟いた。

「他に、何か南が気になることはなかった?」

 健斗は、南に問いかけた。だが、彼女は首を振る。

「ないけど、一つだけ言いたいことがある。悠真の時計を盗んだのは千明ちゃんだと思うの。時計は間違いなく、私の宿泊した部屋に置かれていた。誰かに盗まれたのは間違いない。事件の後、千明ちゃんの弟の手術が成功したことは知っていたの。彼女の家には、その多額の費用を用意する力はなかった。悠真の時計が使われたのだと、すぐに確信した」

「南は、誰にも千明が怪しいとは言わなかったよね?」

「そうだね」

「言えば、金子社長と最後の部屋にいたのが南であるのがバレてしまうから?」

「違うよ。千明ちゃんの家族の問題は私も知っていたから。それに、時計を盗んだからといって、千明ちゃんが悠真を殺すことはないと信じていた。時計が盗まれたことと、悠真が死んでしまったことは全く関係のないこと。悠真は幸せな家族を作ることに憧れていた。だから、私が妊娠したと嘘を告げた時、信じて大泣きして喜んだ。千明ちゃんが自分の弟を助けるために時計を盗んだのなら、きっと悠真も強く責めることはしないと思う。ムツキちゃんは納得しないかもしれないけどさ。だから、私は何も口にしなかった」

「そっか。僕も千明が時計を盗んだのだと思うよ」

 健斗が言った。

「でもね。健斗だけには、千明ちゃんのことを信じてほしいんだ。健斗は憶えている? 同じ内定者に私が言いがかりをつけられた時、千明ちゃんは私を守ってくれようとした。彼女は、人の立場に立って物事を考えられる人なの。彼女に人殺しはできない。そうでしょ? それに、彼女は健斗のことが好きだった。苦渋の選択だったはずだよ。ずっと、千明は後悔して生きてきたと思う。もしも、彼女が時計を奪わなければ、内定を辞退することはなかった。素敵な未来が待っていたんだよ」

 健斗は頷くことも、言葉を発することもできなかった。


 それから、しばらく事件とは関係のない話をした。その間も南は終始浮かない顔をしていた。そして、彼女は不意に席から立ち上がった。

「ちょっと早いけど、今日は失礼するね。久しぶりに悠真のことを考えてたら、なんだか辛くなっちゃった」

 南が店を後にするのと同時に、健斗と雨ノ宮もそこを去った。

「また、会おうよ」と言う南を見送り、健斗と雨ノ宮は駅へと足を進めた。

 街頭の柔らかな光が舗装された小道を照らされていた。一日の仕事を終えたビジネスマンや、帰路につくカップルが、楽しげに語らいながら駅の方向へと歩んでいる。時折、居酒屋から流れる軽快な音楽や笑いが混じり合った声が不思議なほど寂しさを掻き立てた。

「犯人がわかったのですか?」

 健斗は雨ノ宮に訊く。

「はい」

 雨ノ宮が頷いた。

「雨ノ宮さん。それなら、真実を明らかにしましょう」

 雨ノ宮はその場で立ち止まり、健斗の方へ顔を見上げた。

「明らかにして、何をするつもりなのですか?」

 雨ノ宮が訊く。

「罪を償わせるんです」

 健斗が応えた。

 雨ノ宮は唇を噛みしめ、再び歩きはじめた。

「ありがとうございます」と小さな声が遅れて聞こえた。

 仮に、どんな結末が待っていたとしても真実と向き合う覚悟はできている。

「犯人は誰なのですか?」

「それは……」と雨ノ宮は言い淀む。

「教えてください」

「根拠とともに説明したいんです。明後日、長野県の研修施設でバザーラホールディングスの幹部研修があります。泊りがけで行われる研修に私も参加することになっています。そこで、犯人のトリックが可能であったかを確認したいんです。山岡さんも来ていただけませんか?」

「幹部研修にですか?」

 曇った表情をまじまじと雨ノ宮に見せた。

「はい。山岡さんが必要なのです」と、雨ノ宮は念押しをする。

 幹部たちが参加する研修に足を運ぶのは、当然ながら迷いが漂う。

 だが、ここまで雨ノ宮と共に事件と向き合ってきたのだ。迷う必要はないのではないか。

 健斗は、「はい」と返事をした。「ただ……」と、健斗にははっきりとさせておきたい事柄がある。

「やはり、犯人が誰なのかだけでも教えていただけないでしょうか?」

 このまま、二日間、穏やかに時が過ぎるのを待つことなど健斗にはできない。

「そうですね。ですが、やはり、その場で実行可能かを確かめながら説明させてほしいです。おそらく、問題なく実証は成功するでしょうが、今は言及を控えさせてください。でも、手掛かりだけは伝えることができます」

「手掛かりですか?」と、健斗は雨ノ宮の言葉を反復した。

「はい。おそらく、山岡さんは、大きな勘違いをしています。その答えに辿り着くことができれば、犯人は自ずと導き出すことができます。今ある事実を組み合わせれば、全てが明らかになりますよ」

 雨ノ宮は柔らかな口調で告げた。

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