二〇二四年の伊東春樹(一)

 映像の内容は、陰湿で不道徳な出来事に焦点が当てられており、健斗の感情に強烈な不快感をもたらした。

「どうして、こんな映像を僕に見せるんですか?」

 雨ノ宮は、強く塞いだ口蓋を破り、語りかけた。

「今日、伊東部長がこの支社に来ています」

 質問の答えになっていなかった。

「伊東部長がこの支所に来ていることと、この映像を僕に見せる関係性がわかりません」

 千秋からの手紙が届いてから一週間がすぎていた。

 健斗と同じグループのメンバーで、今もバザーラホールディングスに残っているのは伊東しかいない。

 伊藤春樹はメディア購買部の開発部門のトップとして、その職務に従事していた。同期の七十二人の中で一番の出世頭である。

「少し不快な映像でしたよね。私も最初に見た時は驚いてしまいました。少しでもヒントが残っているかと思って、当時の資料を探したら最終面談の動画が出てきたんです」

 雨ノ宮からは心苦しさを感じた。

「それを、何故、僕に見せるんですか。そもそも、当時の最終面談の映像なんて機密資料のはずではないのですか」

「リスクは存じております。ですが、山岡さんに見せた方がいいと判断しました。山岡さん達のグループのメンバーは、それぞれが何か隠し事をしているように感じました」

 雨ノ宮の発言には、引っかかる点があった。『それぞれが』という言葉を受け流すことはできない。

「伊東部長の映像だけじゃなく、他の人の最終面談の映像も見たのですか」

「はい」と、雨ノ宮は告げる。

「どうして、雨ノ宮さんがそんなことを……」

 健斗は呆れて、言葉が萎んでいく。

 当時の内定者の一人一人の映像を探し出すことは、極めて手間のかかる作業だっただろう。なぜ、事件とは全く関係のない雨ノ宮がここまでするのか。不可解さを感じざるを得なかった。

「もちろん、真実を見つけるためしたことです」

「雨ノ宮さんが事実を見つけるためなのであれば、僕にその映像を見せる必要はないじゃないですか」

「勝手な判断になってしまったことは謝ります。ただ、この件には山岡さんが関わることに意味があるのです。今日、伊東部長と話す機会を設けました。もちろん、山岡さんにも同席していただきたいと思ってます」

 健斗は、「なんということを」と唸り、不快感を帯びた表情を顕わせた。

「ごめんなさい。こんな強制する方法を取ってしまい。同席いただけないでしょうか」

 雨ノ宮は、その柔和な瞳に相応しくない言葉で健斗を追いつめた。そうすれば健斗は断ることができないのだ。


 伊東春樹は十分遅れて予約した会議室にやってきた。健斗と雨ノ宮はドアが開くと同時に起立した。

「そんなにかしこまらないでくれよ。雨ノ宮さんとは同じ役職だし。健斗とは同期じゃないか」

 微笑む伊東は七年が経ってもを美的な魅力を放っていた。変わったことといえば、彼の装いの品質が格段に向上したこと。スーツの生地は上質なウールで、深い色合いのネイビーブルーが光に当たり、輝くような印象を与えた。

「久しぶりです」

 ぎこちない挨拶になってしまう。

 伊東とはあれから七年も会っていなかったのではないか。

「本当に久しぶりだな」と、伊東は健斗の向かいの席に座った。

「で、話ってなんですか。まさか、同期との再開の場をセッティングしてくれたわけではないですよね」

 伊東は雨ノ宮に向かって訝し気な視線を送る。

「おっしゃるとおりです。伊東部長に聞きたいことがありまして、貴重な時間をいただくことにしました」

 健斗に説明するようにと、雨ノ宮が横目で促す。

「これを見てください」と、健斗はジャケットの胸ポケットに閉まっていた千明からの手紙を伊東に渡した。

 伊東は手にした手紙を入念に拝読する。彼は、目を細め、まばたきの回数を減らした。

 伊東は黙って、健斗に手紙を返す。

「千明は先週亡くなりました」

 健斗が言った。

「病気か。まだ若いのにな」

 伊東は悲痛さを滲ませる。

「で、最後に残したのがこの手紙か」

「会社に届いたんです」

「この手紙を見て、私と話したいと思ったということは、健斗と雨ノ宮さんも金子社長の死に何か疑念を抱いているということか」

「えぇ」と小さく頷いたのは雨ノ宮だった。

「警察は自殺と結論付けているはずだ」

「そうですね。ただ、有川千明さんはそうとは思っていないようでした」

「なるほど。千明の最後の悪戯に振り回されているのか」

 伊東は苦々しく笑った。「それで……」と、伊東は表情を引き締める。

「俺に何を聞きたい?」

「金子社長が飛び降りた時、伊東部長だけ現場に駆けつけなかったと聞いています。どこにいたのですか」

「警察みたいなことをしてるんだな。それは、俺のことを疑っているということか」

「いえ、その時の状況を詳しく知りたいだけです。教えていただけないでしょうか」

 雨ノ宮の温和な瞳には力強さも潜んでいた。

「大浴場にいたよ。ゆっくり浸かってたから、駆けつけるのに少し時間がかかってしまったんだ」

「大浴場やそこに向かう途中で誰かにすれ違いましたか」

「証明する人物か。それは、いないな」

「そうですか。もう一つ、よろしいでしょうか」

 伊東は口を強く結ぶが、雨ノ宮は続けた。

「伊東部長は金子社長のことを恨んでいましたよね?」

「何が言いたい?」

 伊東が鋭い目を雨ノ宮に向ける。

「伊東部長のお父様は自分で命を絶ってしまったのですね」

「あぁ、なるほど。最終面談の映像を見たのか」

「はい」と雨ノ宮が肯定する。

「健斗もか?」

 伊東は射抜くような視線を健斗に向けた。気弱な健斗は小さく頷く。

「隠してもしょうがないな。恨んでたよ。最終面談では感情を出してしまったから、正直、最終面談で落とされとると思っていたんだけどな。私の父親は小さな町工場の社長だった。従業員だって、五人も抱えていたんだよ。雨ノ宮さんもその役職にいたら、人を雇うことの責任や困難さはわかるでしょう」

 雨ノ宮は黙って伊東の顔を見つめる。

「会社の経営は問題なかった。事業は順調に進んでいたんだ。まさか、自分の仲間に騙されるとは思っていなかったみたいだな。父の同年代の昔ながらの友達だと言っていた。自分の地位のために父を騙したんだ。父は立派だった。家族のため、従業員のため責任を果たしてきた。そんな父を金子社長は侮辱した。背徳感が湧き上がっても仕方ないでしょ」

「伊東部長が感情を露わにしている様子は映像からも伝わりました。部長の胸中の憤りはご自身の父親に向けられたものだけが原因だったのですか?」

 伊東は表情筋の訓練をするような機械的な笑みを作った。

「それだけが原因のように見えたか? なぁ、健斗、おまえはどう思った」

 突如としてかけられた言葉に、健斗は思考の狭間に追い込まれる。伊東の胸中を微かにも理解できている自信がなかった。

「相変わらずだな健斗は」

 口篭る健斗に伊東が告げた。伊東の言葉は、健斗を馬鹿にするような言い方ではない。ただ、さりげなく放たれただけに健斗の心を痛めた。

「当時のバザーラホールディングスは、企業を拡大させるためには、あらゆる策略を駆使していました。中には黒い噂もあって。雨ノ宮さんも健斗も聞いたことはあるでしょう。そんな手法が許されるはずないんだ」

「どうして伊東部長はバザーラホールディングスを受けたんですか。たしか、大学に推薦があったからって、バザーラホールディングスのことはあまり知らなかったって言ってませんでしたか」

 健斗が訊く。

「そんなわけないだろ。こんな大企業知らない奴なんかいないさ」

 伊東は鼻を鳴らした。

「俺と同じような被害者をつくりたくなかったんだ。弱者が正論をぶつけたところで企業は変わらない。根柢の構造を変えるには自分が企業の芯に近い位置にいなければならない。そうですよね、雨ノ宮さん」

 雨ノ宮は微かに首を横に傾けた。

「そのために俺は勉強もしたし、実際に企業で成果を出した。だから、この地位にいる。現にこの会社の黒い噂は払拭されているはずだ」

 伊東は小さな椅子に背中をもたれ、胸を張った。

「とても努力を重ねてきたんですね」

 雨ノ宮の言葉には、どこか軽薄な印象を受けた。風に舞う落ち葉を見ているような、そんな目をしている。

 健斗は、七年前の伊東が決意と使命を抱いていることを微塵も感じていなかった。伊東は血が滲むような努力をしてきたのだろう。正義感が彼を動かした。彼は立派だ。だが、共感できない箇所はいくつかある。

「そろそろ、よろしいでしょうか」

 伊東は立ち上がった。

「最後に一つだけいいですか」と、雨ノ宮が訊く。

「なんですか」

「金子社長が誰かに殺された可能性はあると思いますか」

 伊東は二度頷き、「私たちの仕事は、可能性をゼロだと決めつけてはいけません。そのはずですよね」と告げる。

「では、私たちの調査は否定されることではないですよね」

「雨ノ宮さんの言う通りだな。金子社長は何人かの内定者に憎まれていた。現に私だって、殺すまでではなくとも、憎しむ気持ちはありましたから」

「例えば、他に誰が金子社長を恨んでいましたか?」

「そうですね」と、伊東は立ったまま逡巡した。

「南唯奈。お二人が真剣に犯人捜しをしているのであるなら、彼女の話は聞いた方がいいでしょうね。金子社長が殺された日の前夜に、私は南唯奈と金子社長が口論しているのを聞きました。二階の社長の部屋の前で聞こえてきたんです。『あなたなんて、殺してやる』と、南唯奈の声でした」

「どうして、南さんは、金子社長にそんな言葉を」

「知りませんよ。喧嘩の内容は気になったが、盗み聞きなんて悪趣味でしょう。すぐに部屋から離れました。俺の部屋は三階にあって、階段を登っている途中で北条とすれ違った。北条も喧嘩の声を聞いているはずだ。もしかしたら、北条の方が詳しく喧嘩の内容を聞いているかもな。その時は、ただの痴話喧嘩だと思っていたが、金子社長が殺されたということであれば話は変わってくる。事件の前夜の口論がきっかけの犯行の可能性はあるよな。それに、一番最初に金子社長の元に駆け付けたのは南唯奈だったんだろ? 屋上には鍵がかかっていて、その唯一の鍵は社長の胸ポケットの中に入っていた。それは、密室状態だったと言えます。だが、一番に社長の元に駆け付けた南唯奈だけは、その密室状態のトリックを作ることができますよね」

「社長のポケットに南唯奈が鍵を入れたということですか」

「その可能性があるってこと。空想の話だよ。あれは、自殺だ。集められた俺たちのグループメンバーは各々が暗い事情を抱えていた。何の目的でか、敢えて、そんなグループを作ったんだ。これ以上、詮索するようなことは勧めないね。個人の事情にあまり首を突っ込むべきではないんだ。探偵ごっこはここで終わりにしろ」

 伊東は小会議室の取っ手に手をかけた。「じゃあな」と、伊東は部屋を後にした。

 伊東の背中を見ることなく雨ノ宮は俯き、考え込んでいた。

 しばらくして、張り詰めた空気が残る部屋の中、雨ノ宮が呟いた。

「不可解な点がいくつかありましたね」

「不可解な点?」と、健斗は復唱し、思考を巡らせた。たしかに、気になる点はあった。

 雨ノ宮のことを見た。彼女は腕を交差させ、瞼を閉じ、知識と洞察を整然とさせているようだ。

「伊東さんがバザーラホールディングスの採用面接に臨んだ理由には納得できましたか」

 雨ノ宮が健斗に訊く。

「あまり納得はできませんでしたね。自分の父親のような被害者を増やしたくないという気持ちは理解できます。ですが、その理由でどうしてバザーラホールディングスを選んだのでしょうか。それこそ法律を扱う仕事だとか、企業を第三者の立場から監査する職業を選ぶべきだし、優秀な伊東部長ならそういった職業に就くこともできたはずですよね」

「そうですね。それと大きな疑問がもう一つあります。金子社長が屋上から飛び降りた時に伊東さんはどこにいたのでしょうか」

「大浴場と言っていませんでしたか」

「はい。そう言ってましたね。ですが、本当に大浴場にいたのでしょうか。男性用の浴場は建物の二階に位置していたんですよね?」

 健斗は頷く。

「山岡さんは、大浴場で伊東さんの姿は見ましたか」

 事件発生の前、健斗は大浴場に入り、自分の部屋に戻る途中で南と北条の口論を聞いた。健斗の記憶では、浴場には誰もいなかったはずだ。

「いいえ。見ていません」

「では、山岡さんが大浴場を出た後に伊東さんは大浴場に向かったことになります。二階の宴会場では南さんと北条さんが口論していて、廊下までその声が響いていた。その廊下を通って大浴場に向かったということですよね」

 雨ノ宮の言いたいことはわかった。

『大浴場やそこに向かう途中で誰かにすれ違いましたか』と、雨ノ宮は伊東に尋ねた。もし、彼が大浴場に向かっていたとすれば、南と北条の口論は耳に届いていた可能性が高い。女性同士の口論だ。記憶に残っていても可笑しくない。だが、伊東はそのことを告げなかった。

「二人の口論を聞いていれば、それを告げてもいいと思いませんか?」

 雨ノ宮が訊ねる。

「たまたま、北条さんがヒートアップしていない時に廊下を通った可能性もあります。或いは、その記憶が抜けてた可能性も」

「そうですね。それだけで伊東部長を疑うのは良くないことでしょう。ただ、伊東部長は何かを隠していると思いませんか」

 雨ノ宮は再び、瞼を閉じて、思考を巡らせていた。

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