第3話

 彼は結局一人で公演を見に行った。案の定ひどくつまらない公演で、後半はほとんど寝てしまっていた。帰りがけにジジに会った。会ったと言うより見かけたと言う方が正しいだろう。ホワイエで友達数人と話している背中を、彼は遠くから見つめていた。

 ジジは何やら顔を赤くして、友達数人に囲まれていた。彼といる時には見せたことのない表情を見せていた。彼は目を逸らしたいような、逸らしたくないような、不思議な気持ちになっていた。

 しかし思いがけない収穫もあった。その公演の主演は、電車で見かけたあの女だったのだ。それだけなら彼はなんとも思わなかっただろう。事実、その公演までの数週間、彼が彼女を思い出すことはなかった。

 しかし、彼女は再び彼の心に現れた。

 その公演の幕引きの時、彼女は着ていたスカートの裾を踏んで派手に転けてしまった。そして近くにあったセットの角に腕をぶつけてしまったのだった。

 彼女の腕から血が流れるのを、最前列に座っていた彼は見とめてしまった。その瞬間、彼の心はまたあのえも言われぬ感情で満たされた。

 彼はなんとかして彼女のことを知らなければならないと、その時確証した。

 公演が終わって、皆がぞろぞろと帰り始めている頃、彼は建物の裏口へ向かった。美しい彼女は、終演から一時間ほどで外に出てきた。彼女が出てきた時のことを、何も考えていなかった彼は、ただ彼女を見つめながら、なんと話しかけようかと焦ってしまっていた。

 そうすると彼女と目が合った。目が合った瞬間、彼女はその丸い目を大きく広げて、彼に近寄り、話しかけた。

「あっ、今日、きてくれてたよね?」

 彼は突然のことに焦ってしまって、声を裏返しながらなんとか彼女に答えた。

「そう、ええと、すごい面白かった。」

「嘘つき。後半、寝てたでしょ。」

 そう言って笑う彼女は、ザワザワと風に揺られる木々の、木漏れ日に照らされていて、彼はその姿をずっと見ていたくなった。思っていたより小さな歯は、彼の視線を捉えて話さなかった。

「ああ、うん。…見えてたか。」

「見えてた。て言うかさ、前も、電車であったよね。」

 彼は驚いた。あの時のことを、彼女が覚えているとは思わなかったからだ。

「ああ、うん、そう。」

 突然に告げられた、その事実を彼はどう受け止めて良いかわからなかった。こう言う時、どうすれば良いのか、彼は今すぐ誰かに教えてもらいたかった。

「あの、僕、あの時のこと、謝りたくて。」

 彼は咄嗟に嘘をついた。そうするのが一番自然だと思っていた。

「えっいいよ」

 彼女は目を丸くして彼のことを見つめた。

「ほんと、気にしないで、私も前見てなかったし。」

「いや、僕が悪かったよ、急にあんなこと、ごめんね。大丈夫だった?」

 一度方向性を決めればすらすらと流れるように嘘が口をつく。それは彼がこれまで生きてきて培った社交術のようなものだった。

「うん、平気。それより、あの後、押されてたでしょ、背中。ごめんね、私が騒いだから。」

「うん…いいんだ。」

「本当?ごめんなさいね。あの時はまだ誰か知らなくて。」

 彼女はきらきらと光を集める、その大きな瞳で彼を見つめた。彼女の美しさとしつこさで、彼の感情はぐるぐると苛立った。

「あのさ、」

 つい、口をついて言葉が出る。自分のついた嘘のことなど、彼はとうに忘れてしまっていた。彼女は急なその言葉に、顎を上げて彼の顔を見た。

「正直、僕も前を見ていなかったし、君も前を見ていなかった。お互いの不注意じゃないかな。そんなに君が何度も謝る必要はないと思うよ。」

 彼は彼女の目を見て、はっきりとそういった。彼女の華奢な腕と、彼の顎ほどの身長は、逆光に照らされてその輪郭を描いていた。

「あっ、そうね。…そっか。ごめんね。」

 彼女は困ったように笑い、少し俯いた。長いまつ毛が、大きく動いた。

「でも…悪者みたいになっちゃったから。本当に、ごめんなさい。」

 彼女は俯いたまま、そういった。

「だからさ、…良いから、謝らないで。」

「そうね。ごめんね。」

「うん。…じゃあ。」

 彼は小さく挨拶をしながら、その場を離れた。駅とは逆方向に歩き出してしまったので、遠回りをする羽目になった。彼女との会話は脳みそが溶けそうなほどつまらなかったし、そのことは彼をイラつかせた。

 しかし彼女のあの腕が、頬が、彼の脳裏に染み付いて離れなかった。彼女が美しいことは、彼にとって紛れもない事実だった。

 彼はその日家に帰ってから、そのことについてよく考えた。

 きっと、自分が彼女に対してこんな感情を抱くことは普通おかしいことで、いけないことなのだろうということ。それでも自分は彼女のことを美しいと思ってしまうこと。彼女に触ってみたいと思うこと。

 しかし勇気のない彼は、きっと何もできずに、ただの退屈な毎日に戻っていくだけだろうと思ったので、その日は考えるのをやめて眠りについた。考えても仕方のないことを考えて、楽しむことは、もう彼には許されない行動なのだと、彼は薄々気がついていた。

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