まさかり

 あれからずっと、金太はたたら場には行かなかった。あの綺麗な、鉄を打ってく作業は見たかったけれども、どうにも環雷のことが心に引っかかってしまい心おきなく楽しめないだろうと思ってたんだ。

 金太は何かを吹っ切るみたいに、狩りに没頭した。観童丸と一緒に山を駆け、くたくたになるまで獣を追った。そうして岩屋に帰ってくると、剣の修行のつもりなのか、腕が上がらなくなるまでまさかりを振った。汗みずくになるとそれを止めて、晩飯を食べてすぐに寝た。

 雨の日は、ひたすら何かをこしらえてたよ。古い綿から糸をつむいだり。革を細く割いて、革を縫うための紐を作ったり。観童丸と二人で稗を脱穀したり。干し肉の出来具合を見たり。ともし火に使う松の木を割ったり、麻の実をすりおろしたり。岩屋に籠っていても、することはいくらでもあったからね。わたし達三人で、そういった仕事を分けて延々やってた。

 やることがあらかた終わってぽっかりと手が空いてしまったら、金太は横になって天井を見てた。その目は鍾乳石から滴る水滴を見てるみたいでもあったけれど、でも実は何も見てないようでもあった。



 何日かあとのことだ。その日も雨だった。

 わたしは木綿で縫い物をしてて、金太は狸の毛皮が腐ってしまわないよう丁寧に洗って裏側を漉いてた。そこに、くくり罠の様子を見に行ってた観童丸が帰ってきた。

「金太」

 岩屋に入るなり、観童丸は雨具の毛皮も取らずに金太に駆け寄った。いつになく真面目くさった顔だった。

「落ち着いてよく聞けよ」

 観童丸がのどを鳴らしてつばを呑んだ。びしょ濡れだった。

「佐吉さんの家族が……あの、村に住む嫁さんと子供だ。……二人が、人喰い熊にやられた」

 金太は無言で、観童丸の目をまっすぐに見つめたまま、手にしてた狸の毛皮を地面にそっと置いた。わたしも縫い物から手を離した。「観童、確かなのかい?」

 観童丸は金太の目に気おされたように逸らし、わたしを見て頷いた。

「ああ。たたら場で聞いた」

「この雨の中を、たたら場まで行ってたのかい」

「ああ。……行くつもりはなかったんだけどな。なんか今日は森の様子がおかしかったんだよ。雨が降ってるにしても、獣の気配はまったくないし。そしたら、騒々しい男と女の声が、たたら場の方から聞こえてきたんだ」

 観童丸は見た目が普通だから、たたら場や里の人間とも変わらなく話してた。あの山姥の童、とせいぜい陰口を叩かれてたくらいだ。だから時々、こうしてたたら場や里に降りては世の話を聞き集めてた。

「……隣に住む男は、もの凄まじい悲鳴で夜中に飛び起きたそうだ。慌てて家の外に飛び出そうとするのを、嫁さんが必死で止めたんだそうだ。あれはもう駄目だ。駄目な悲鳴だ、ってな。でも放っておくわけにもいかない。嫁さんの手を振り払って外へ出ると、もう何人かの男が集まってた。手にすきとかくわを持ってな。……それで、その輪の中心には」

 見たこともないようなばかでかい熊が、月に照らされてた。

 口には、佐吉の三つになる息子が咥えられてた。戸口の辺りはどこもかしこもばらばらに砕けてて、無いも同じだった。家の内から外にまで、吐き気を催すくらい濃い血の匂いが漂ってた。

 あまりの恐ろしさに腰が引けながらも、男衆は大声を出しながら手にした農具で熊を追い立てた。熊はさして気にするふうでもなく、人形みたいな子供を咥えたままで悠々と山に帰っていった。子供はもう動いてなかった。

 家の中にも動くものはなかった。辺り一面血の海だった。佐吉の女房も血まみれで、とっくに人間の形をしてなかった。

 そしてその夜、佐吉は運よくたたら場にいたそうだ。徹夜で作業を手伝ってたんだ。

「……金太。その熊はな」

「…………」

 金太は目を伏せた。それ以上聞きたくなかった。

「その熊の口はな、端んとこがめくれ上がってたそうだ」

 知らず知らずに、金太の息は荒くなってた。金太は上着の胸の所をぎゅっと握りしめた。

 ややあって、金太が顔を上げると、観童丸はじっと金太を見返してた。

「……それで、いま佐吉っつあんは」

「わからん。たたら場にはいなかったよ。きっと村に戻ってるんだろう」

 刹那、金太は外に駆け出してた。

「おい金太! まだ話してないことが!」

「待ちな、金太!」

 わたし達の声は届かなかった。金太が駆ける足音も、すぐに雨の音にかき消されていった。



 駆けながら、金太は環雷との出会いを思い出してた。

 観童丸と二人で森を歩いてた時だ。猪のためのくくり罠に子熊がかかってるのを見つけた。でもこれは観童丸の作った罠じゃない。造りがずいぶん雑だった。

 観童丸も金太も獲れた獣は苦しませないようすぐに屠ったし、罠の形がいたずらに獣を傷つけることのないよう気を付けて作った。場も慎重に選んで設えてた。だからその罠の雑な造りは気になった。これは狩人の手によるものではない、と感じた。

 案の定その子熊は、罠が巻き付いた右後ろ足の痛みに耐えかね、綱を噛み切ろうとしてしくじり、留め金で口を大きく切ったようだった。金具と口に血がべっとりと着いていて、唇の端の肉がべろりとめくれてる。

 子熊は殺してはいけない。狩人も山民も、獣の子供には決して手を出さない。それは山の神の怒りに触れる行いだ。さっそく二人は子熊を罠から救うことにした。

 まずは力の強い金太が暴れる子熊を抑え、観童丸が爪に気を付けながら罠を丁寧に外した。次いでその粗い造りの罠を根元から外し、ばらばらに壊した。

 罠が足から外されると、もがいてた子熊は急におとなしくなった。身をよじり、後ろ足の傷をぺろぺろ嘗めはじめた。

「あにい。どうしようか? こいつ」

「野の獣だ。放っておいたら傷は治るさ」

 観童丸は金太にそう言って、さっさと道を戻りはじめた。金太も観童丸に続こうとした。すると、子熊は怪我した足をかばいながらひょこひょことついてくる。

「……あにい、どうしようか?」

「どうもしないよ」

 突き放すように言い、なおも観童丸は歩く。金太もついて歩く。振り返ると、子熊もまだついてきている。二人が立ち止まり、子熊を見ると、子熊もじっと二人を見つめ返してきた。観童丸は軽く舌打ちした。

「まあでも、ひどい傷だしな。薬くらい塗って、布でも巻いてやるか」

 金太はすこぶる嬉しそうだった。観童丸はため息をついた。

 観童丸は、野に生きる獣と自分は対等な在り方であるはずだ、って思ってるんだ。だいたい自分だって、この森に生きるただの獣の一つだ。だから生きるために命を奪うし、下手をすれば自分も命を取られる。そんな厳しい間柄でなくては駄目だ。必要以上に情けをかけるようなこともしない。子熊でなかったら、そもそも罠から逃がしちゃいない。そういったところ、金太はまだまだ甘いったらないんだ。

 でも、金太に遊び友達が一人もいないことだって、観童丸は誰よりも知ってた。岩屋に帰ってくると、金太は実にかいがいしく子熊の手当てをしたよ。わたしはびっくりしたけどね。何せ二人の息子のあとに、熊がのそのそ入ってきたんだからさ。

 後ろ足の切り傷は塗り薬で大丈夫だった。でもめくれあがった唇は、肉が少し削れて失われてたから、薬を塗るだけじゃどうしようもなかった。

 子熊は傷が治るまでのあいだ岩屋にいたけれど、ずっと大人しかったよ。もともと気性が荒い子ではなかったみたいだ。わたしが近づいても、唸るようなことはまったくしなかったね。ただ水をたくさん飲み、金太がたくさん集めてきた桑の実や、獲ってきた魚を美味しそうに食べてた。

 何日かすると、少し右後ろ足を引きずりながらではあったけれど、なんとか走れるくらいにはなってた。表の傷は塞がって見えてるものの、くくり縄の傷は深く骨を傷つけてたみたいだ。口の方は、傷は塞がっても唇の肉はとうとうめくれ上がったまま固まってしまってた。

 子熊の気に入りの遊び場は、舞台みたいに平べったく大きな岩のある広場だった。昔、金太と観童丸がよく相撲を取ってた場所だ。二人がそこへ連れてくと、子熊は大はしゃぎで広場をいつまでも走り回ってたらしいよ。

「あいつ、なんだか笑ってるみたいな顔だなあ」

 広場で、ひらひら舞う蝶を追って遊んでる子熊を見て、観童丸がぽつりと言った。確かにそうだ、と金太も思った。口の端がくいっと上がり、にこにこというか、にやにやというか、何ともつかない笑顔に見える。

 金太は、その子熊の首の下にある環のような模様が丸くなく、がたがたと折れ曲がっていることに気づいた。

「……あにい。あいつの首の環さ、まるでかみなりみたいだな」



 雨はかなり強くなってた。陽が落ちるまでまだずいぶんあるはずなのに、厚い雨雲のせいで辺りは夕方のように暗かった。

 金太は、初めて村の中に立った。今までは遠くから見ているだけだった。人がいなかったから、金太は堂々と村の中まで入っていった。と、派手に戸口が壊れた家を見つけた。金太は家の中に足を踏み入れた。強い血の匂いが鼻を突いた。

 薄暗い上がり框に、佐吉はぽつりと座ってた。頭を、座った膝の間に垂らしてる。

 でも金太には、それがすぐに佐吉とはわからなかったみたいだ。金太が知ってる佐吉は、明るく、笑顔で、体ががっしりしてるんだ。

 目の前にいる男は小さく、痩せてた。死んでるんじゃないか、ってくらい精気がなかった。

「……佐吉っつあん?」

 金太がおそるおそる声をかける。ほんの少しだけ肩が揺れた。金太はほっとした。

「佐吉っつあん。話聞いたよ。……俺さ」急に息が詰まり、言葉が続かなかった。「……あの、佐吉っつあん。俺……人喰い熊を」

 言葉が出ない。――実は知ってるんだよ。そう言うつもりだったのか? 俺が足の傷に布を巻いたあの子熊が、俺と相撲をとっていたあの子熊が今、どうしてかとてつもなく大きくなって人を喰ってるんだ。そんなことを言うつもりだったのか、俺は? 言えるわけがない。

 金太は荒い息をした。どんなに森を駆けても、ここまで胸が苦しくなることはなかった。金太の胸はぎゅうぎゅう締めつけられた。

「……金太。殺してくれるんだろ?」

 佐吉の言葉に金太はどきりとした。また息をつめ、続く言葉を待つ。佐吉は依然うつむいたままだった。聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの小声だった。

「……おまえは強いんだ、金太。おまえならきっと……」

 佐吉は顔を上げた。目が落ちくぼみ、頬はごっそりとこけてる。

「……近ぢか、この辺りの村人総出での山狩りがあるらしい。もう皆あいつが怖くてしょうがないんだ。で、ついに男衆が力を合わせてあいつを狩ることにした。あの、俺の……女房と息子を喰った、あの……ど、ど畜生を。皆でぶち殺すんだ。ばらばらにして、血祭りにあげてやるんだ。ただの毛皮にしてやるんだ」

 佐吉は上ずった声で一気にしゃべった。紙みたいな顔色だったけど、目は燃えるようだった。燃えるような目で、まっすぐに金太を捉えてた。

「……なあ、金太。だからおまえも一緒に。あいつを殺してくれ。どうか……仇を……」

 佐吉はふらふらと立ち上がった。その迫力に、金太は思わず後じさる。

「幼なじみだったんだ……女房と俺は。笑った顔が可愛くて、ずっと、嫁さんになってほしくて。ずっと……でも俺、どうしてもそう言えなくて。子供も三つになってるのに言葉が、お、遅くて。最近になってやっと、おとう、って……」

 佐吉は泣き崩れた。吠えるように泣いた。

 雨はさっきより強くなってて、佐吉の大きな泣き声も金太には切れ切れに聞こえた。



 真昼間なのに、もうたたら場の火は落ちてたよ。

 何日も降り続く雨のせいじゃない。人喰い熊がこうも人を襲ってては仕事どころじゃない、家を空けるのだって心配だからね。そんな申し立ても多く出て、山狩りが終わって落ち着くまでたたらは踏まない、ってことに決まったんだ。

 だからそこには誰もいない。金太と佐吉以外は。

「一本鍛えるだけだったらな……なにもたたらなんてでかいもんを動かす必要ないんだ。あれは、たくさんの砂鉄を一気に溶かすために動かしてるんだからな」

 そう言って佐吉は、前に金太が天窓から覗いたあの作業場の、片隅に設えてある臼ほどの大きさの炉に焼いた木炭を入れた。踏みふいごで風を送ると、炉の炭は見る間に真っ赤に焼けてく。

「金太。おまえの持ってるまさかりを鍛え直すくらいなら、この炉で十分だ」

 佐吉が手を差し出したんで、金太はその手にまさかりを置いた。傷だらけの、自分の手になじんだまさかり。金太は言った。

「佐吉っつあん。このまさかりを一回り大きくできるかな?」

「あん?」

「これじゃ駄目なんだよ。ちょっと小せえし、俺には軽すぎる。……あの――」つい環雷の名を出しそうになり、ぐっとこらえた。「……あのでかい熊の鉢を叩き割るには、この大きさと重さじゃ頼りねえんだ」

 佐吉はまさかりをじっと見た。「確かにそうかもな。……わかった。いちからやり直そう」

 一つ頷くと佐吉はのみを器用に使い、刃をくさびごと柄から外した。そして刃を、真っ赤に焼けた炉に投げ入れた。炭がしっかりおこってるからか、すぐに刃も炭と同じような赤になった。

 と、佐吉は金鋏を使っていったん刃を炉から取り出した。そして木皿に盛られた、薬の混じった砂鉄を刃にたっぷりとまぶす。それを見て、金太がぽつり呟いた。

「前に俺が天窓から見たやり方と全然違う」

 佐吉はふっと笑った。「ありゃ数打ちのやり方さ。あれは気泡もできやすいし、刃が長持ちしないんだ。……だが金太、おまえのこのまさかりは違う。ぼろだけど、元はいい物だ。だからまったく違うやり方で作るんだ」

 刃にまぶされ、張り付いてた砂鉄も、炉に入れられるとまたじわじわと溶け、刃に取り込まれてく。

「刃が赤く焼けたら、まずはそいつを鍛え直す。そいでから、刃の上からまた別の鉄を巻きつけて、刃を大きく太らせていくんだ」

「……佐吉っつあん、手子なのにそんなことまでできんのかい?」

「見よう見まねだよ。伊達にずっとたたら場にいるわけじゃないんだ」

 炉の中には、刃とは違うもう一つの鉄の板が入れられ、それも赤く光ってた。佐吉は刃と鉄の板を金鋏で掴みだすと、金床の上で二本の金鋏を器用に使い、ぐにゃぐにゃにやわらかくなった板の方を刃に巻き付けはじめた。

 巻き付けては炉で熱し、少し叩く。そしてまた砂鉄をまぶし、また別の鉄の板を焼いて、刃と一緒に熱する。巻き付ける。少し叩く。また砂鉄をまぶす……四度ほどこの作業を繰り返した。佐吉は汗びっしょりだ。金太の目は炎であぶられ、涙が止まらなかった。

(鉄が赤く燃えた時の熱さとはこれほどのもんなのか)

 急に炭がぜた。指先くらいの大きさの炭の欠片が炉から飛び、じゅっと音を立てて佐吉の手の甲を焼いた。欠片はなおも手の肉を焼きながら、肉に張り付いたままだった。でも佐吉は身じろぎ一つしない。それは親しい金太も知らない佐吉の姿だった。

「……さあて、こっからだ」

 いつの間にか、佐吉は両手で金鋏を使ってた。もう片手じゃ持ちきれないほど刃は厚く、重くなってたんだ。

 佐吉は金床に刃をごろり、って感じで横たえた。

「こっからが素延すのべだ。金太、おまえが叩け」

「……俺が?」

「そうだ。刃物に鍛えるのは金太、持ち主であるおまえの仕事だ」

「……俺にできんのかい?」

金槌かなづちを振るうだけだ。やってみろ」

「…………」

「早くしろ。鉄が冷えちまう」

 佐吉が顎をしゃくった先には、さっきまで佐吉が使ってた物とは別の長槌が壁に立てかけられてあった。槌の所は、大人の男の握りこぶし二つ分くらいの大きさの鉄でできていた。

 金太はそれを手にする。剛腕の金太でも、かなりの重さを感じた。

「おまえの莫迦力ならそいつを振れるだろ。頭の上くらいまで持ち上げて、刃をめがけて振り下ろしてみろ。間違っても頭の後ろまでめいっぱいは振りかぶるなよ。目算が狂って、俺の頭をぶち割っちまいかねないからな」

 金太は無言で頷く。刃はまだ赤く燃えてた。

 目の上まで振りかぶり、長槌を刃にぶつけた。無数の火花が四方に散る。

 金太にはそれが、熟しすぎて自らの重みに耐えきれず地面に落ちて弾けた柘榴ざくろみたいに見えた。




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