やっちゃえ!オカルト論文

光田夕

無関係プロローグ

プロローグ


 誰しも一度は考える事、というのはいくらでもある。例えば、日本国民全員から一円ずつ貰えば一億円手に入るだとか、全身の細胞が入れ替わったらそれはもう別人かもしれないとか、地球上の川って海を介して実質一本なんじゃないか、とかだ。もう少し単純な思考であれば、犬かわいい!米おいしい!空ってやたら青いよな、グレートディバイディング山脈ってつい言いたくなるよね、とかがある。これらはもう既に世界中で何万回も呟かれているものであり、その度に会話相手は「そうだね」「そうかもね」「それがどうかしたの?」といった感想を抱くのであった。


 しかしながら、そのたった一言で片付けられない場合もある。それは会話相手が斜めに構えた性格の奴で全ての事柄に食ってかかる特性を持っていた場合や、提唱者がもっと話を聞いて貰いたいと思って会話を広げた場合などである。


 今回の場合は、どちらかと言えば後者であった。


 ファミリー層にも人気の地方競馬場、その平日のナイターが終了し、ほとぼりが冷めるか冷めないか位の頃である。辺りはすっかり暗くなっていて、冬の寒さがより一層厳しくなっていた。


 馬はとっくに退場していて、観客らもずるずると解散している。しかしながら、ボロボロの手袋をした一人の男性が、先程までのレースの幻影を見ながら、そこに立ち尽くしていた。


 その手袋の男性が片手に握っている馬券は当たっていた。歴史に名が残るほどの大金ではないが、競馬に取り憑かれた日の事を鮮明に思い出す位には、その馬券に価値が生じていた。だが今この瞬間に男が棒立ちになっているのは、単にギャンブル快楽に恍惚としている訳ではなかった。男は三連単を当てた拍子に、手垢まみれのありふれた「ある事」にやっと気が付いたのである。


 その「ある事」を思いついた思考プロセスはだいたいこんな感じだ。

・馬券が当たる→嬉しい

・嬉しいってどの位?→死ぬほど

・死んだら意味ないでしょ→そうだね

・本当に分かっているの?→何を?

・死→「ある事」


 人間は割と高等な知識を持っているので、常に死について考える羽目になっている。男がこの「ある事」に至るためには別に馬券が当たっていなくともよかった。ただ偶々、何億ともあるきっかけの内、選ばれたのが当たり馬券であったと言うだけだ。


 しかしそのせいで、この男は少し不幸な目に遭った。まず最初にいけなかったのは、男がこの「ある事」を共有した相手が、木(き)鈴(すず)という名の大学准教授であった事だ。


 男はこの個人的に重大な大発見を、飲んだくれの競馬仲間なんかではなく、もっと賢そうな、己の功績を真に認めてくれそうな知識人に話そうと考えた。そして周りをきょろきょろ見渡して、見つけてしまったのがこの木鈴であった。


 木鈴という人間はこの時、男から少し離れた所で双眼鏡を構え、コースに背を向けて立っていた。観客席から人が帰って行く様子を、じっと一人で観察していたのである。まともな人間がするような行動ではなかったが、木鈴が赤いネクタイをしっかり締めていた事と、コートの上に蛍光色の腕章を付けていた事が男の目を騙していた。


 木鈴の事を熱心なスタッフか何かと勘違いした男は、馬券を握りしめたまま木鈴に近づくと、一言「おい」と呟いた。だが最初、これは無視された。木鈴という人間は呼び掛けに応じず、男に対して一瞥もくれなかったのだ。男は少し腹を立てた。そして男はもう少し大きな声で再度声を上げると、双眼鏡を構えたままびくともしない木鈴の腕を軽く引っ叩いた。


「おい!」

「今忙しいので後にして下さい。」


 すると木鈴は、双眼鏡から顔も上げずにそう言った。即答であった。こんなすっぱりと断られるとは思いもしていなかった男は、もごもごと口を濯ぐ他なくなってしまった。しかしながら意固地になってしまったこの男は、木鈴が仕事を終えるのを律儀に待った。


 これには木鈴という人間も多少驚いた様で、三十分後にようやく双眼鏡を下ろすと、まだ隣に男がいる事に気が付いてたじろいでいた。


「まだいたんですか⁉」


 この時にはもう他の客も消えていて、辺りには誰一人いない空間となっていた。


「兄さんよ、俺は凄い事に気が付いたんだよ。笑わずに聞いてくれるか?」

「はいはい!聞きます!是非!是非お願いします!何だ、それなら早く言って下されば良かったのに。」


 三十分待ち続けた男は前半の十五分辺りで全ての怒りを使い果たしており、語り始めはとても穏やかなものであった。対照に木鈴は突然興奮した様子になっていて、ポケットから取り出したボイスレコーダーのスイッチを入れていた。


 男は語り出した。

「人や動物って、いずれ死ぬだろう?」

「そうですね。」

「でも死んだ後にも遺体って残る訳だろ?」

「そうですね。」

「つまり、この身体は俺達自体じゃないんだよ!俺達の精神だとか魂だとか、こう、見たり感じたり考えたりするってのは、そりゃ脳を使ってるんだろうけど、でも、脳自体が人間って訳でもないし、脳だって遺体に残るんだし、だから、」

「だからつまり、我々の身体は精神を作る装置に過ぎず精神はその実在性を持たないと?」

「そう!それだよ!お兄さん賢いなぁ!」


 男は、三十分を使っても纏めきれなかった考えを、たった一言に瞬時に変換してしまった木鈴に素直に感心した。一方で木鈴は、男の言動が期待外れであったかの様に、細い目を更に細めていた。


「不思議だよなぁ、俺達。」

「それが、どうかしたんですか?」

「俺達ってさ、つまり風なんだよ。」

「風?」

「ほら、手で扇いだりすると、風が生まれるだろ?これは空気が手によって動かされて風になっている訳だ。これってさ、つまり俺達と一緒じゃないのか?」


 今度はその言葉に、感嘆の声が返ってきた。


「なるほど、いい考え方ですね。」

「だろ!あー、やっぱり俺もう少し学のある人生の方が向いていたのかもな!」

「まだ間に合いますよ。」


 少し、静寂が流れた。


 その間に男は、無責任で余計な口出しである木鈴の言葉に、怒ってしまおうか迷った。だが冷静になって思い返してみれば、男自身がそのセリフを引き出してしまっていた所があると気が付いた。そうやって自分の中で木鈴を庇えるほど、男は木鈴の事が嫌いではなかった。


「ははは、そうかいそうかい。」

「何か面白いことでも?」

「ああ、まあ少し。」


 だがそれも、ほんの一瞬であった。結局は笑うしかなかった男が片手で腹を抱えていると、もう一方の手に何やら刺激を感じて、そこに衝撃の光景を見たのであった。


「おい、兄さん、何をしているんだ?」

「僕の研究室の電話番号です。」

「馬券に書く奴があるかよ⁉」


 男は結局、木鈴を殴っていた。

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