高田馬場のサイゼリヤ

梓稔人

第一幕

 わたしはとても疲れていた。大学生というもっとも瑞々しい瞬間をありったけの祝福で迎えてくれる太陽の光によって益々深まっていく影の、あまりの鮮明さに、わたしは疲れていた。影はより大きく膨張し、やがて破裂するだろうという予想はあながち嘘っぽくもなく、わたしはある一種の諦めを含んだ眼差しで光を浴び、影が渦を巻きながら成長していくのを眺めていた。

「Yの大学合格を祝して、乾杯!」

向かいに座る彼、上田穂一郎のワインの入ったグラスとわたしの水の入ったグラスのくみ交わす音だけが爽やかだ。彼もまた、わたしと同じように疲れているようだった。彼はまだワインを飲む前から酔ったように陽気で、対称的にわたしは祝われているのにも関わらず俯いて無意味に微笑していた。微笑が、わたしと彼とを繋ぎとめているのだ。わたしが僅かに笑うだけで彼は喜び、わたしの疲労を悟らせずに済むのだった。それくらいの努力は惜しまない方が良い。




 人間とは他者との関係で生きている動物なんだとわたしは常々思っている。人間という生物は、自然の環からはみ出して孤独になったために、他の人間と繋がることでしか生きていけないのだ。けれどわたしという生物はそう思っていながら、人間とと途端にそれを拒絶してしまうようなのだ。脂っこい毛むくじゃらの手で頬を執拗に撫でられるような不快感がわたしの小さな、余りに小さく猫背な背中からぴょっと出てくるのだった。それは相手がどれ程清らかであっても同じだった。一定以上の関係を結ぶと、裁ちばさみでそれをざっくり切ってしまいたくなる。わたしは酷い生物なのだ。上田との関係において、わたしはすでに鋭利で煌びやかな、わたしの背丈ほどもある裁ちばさみを手にしていた。わたしは人間として未熟な、しかしいずれ成熟するとも思えない、譬えるならば瑠璃色の寄生蜂に卵を植え付けられた鈍い蛹であった。

「Yは何を頼むの?」

上田はまるで翼を閉じてじっと獲物を探して潜伏している鷲のようにじっとわたしを見据え、不気味に寛大に言うのだった。舶来の狂ったように人工を剥き出しにした色のお菓子を食べたときのような粘っこい甘さが執拗に絡んできた。

「う~んわたしはねえ、エスカルゴかな、それからペペロンチーノ」

わたしは頭で勘定をしながら言った。そして殊更明るく、幸福な時間を噛みしめるような口調で言うのだった。今晩はわたしが全額奢らねばならなかった。上田を高田馬場まで呼んだのはわたしだった。暗黙の了解で彼とわたしは火曜日に会うことになっており、彼の住む大宮にわたしが出向くか、わたしの大学の最寄りである高田馬場に彼が出向くかのどちらかだった。そして招いた側が奢らねばならなかった。わたしは上京してきた人間だったので家賃も光熱費も食費も大学の聴講料のことも考えねばならず、金は常になかった。対して上田は富豪の一人息子であったから金の心配はしないで良いらしかった。だからか彼は外食という行為がどれ程贅沢な行為であるかには無頓着なようだった。価格の安いサイゼリヤで会食しているのがせめてもの救いであったが、とにかくわたしは極力費用を抑え、彼は浴びるように酒を飲み、わたしの何倍もご飯を食べるのだった。

「Yは好きだなあ、エスカルゴ」

彼は黒子のある顎をさすって、白い歯をみせてにやにや笑った。わたしは彼の黒子を愛していた。端正な顔立ちで瞳は鐘のように大きく、鼻がやや高い印象はあったが、大人であるかのような厳粛さが感じられた。顎の黒子を彼はコンプレックスだと言っていたが、わたしと彼を繋ぎとめている一点がまさにそれであることを彼は知らないらしかった。同じ場所にわたしも黒子を持っていた。わたしはえへへと照れ隠しのように笑ったあと、テーブルに腕を組み顔を伏せ、なんだか上機嫌な彼がつらつらと注文シートに番号を書く音を黙って聞いた。わたしの瞳の奥で影はどす黒く渦をまき、わたしの身体を飲み込まんと大口を開けて待ちわびているようだった。いっそのこと飲み込まれてしまえば良いと思ったが、わたしは投げ槍的な(ええいままよ)精神を誰よりも嫌悪していたから、この期に及んでわたしは影から眼をそむけ組んだ腕から微かに洩れるサイゼリヤの照明や客たちの喧騒、その間隙を縫うように伝わる料理の淡い匂いを満足げに見つめていた。彼のみが遮断された空間だった。それでもわたしは満足しなかった。わたしの周囲は暗く、彼の世界を小鳥の檻から眺めているような不自由さがわたしを束縛していたからである。




「デカンタ赤、グラスは?お一つですね。それからドリンクバーですね、今からどうぞ。小エビのカクテル、ミラノ風ドリア、ペペロンチーノお二つ、それからエスカルゴ、以上でよろしかったでしょうか?」

「ええ」

大学生らしき店員の溌剌とした声で読み上げられる注文を上田の低く唸るような声が応じた。かしこまりました、といって下がった店員はわたし達のことをどのような関係だと思うのだろう?恋人だと思ったに違いない。現にこの店を見渡せばあたりはカップルらしき大学生で埋まっており、他にはメニュー表で嫌というほど見せつけられる家族団欒を繰り広げる親子連れか、あとは気難しく夕刊を読んでいるお爺さん、それに大声で騒ぎ立てる外人グループくらいだった。上田でさえ、わたしたちの関係は恋人だと思っているだろう。彼の暗鬱に荒れた海のなかで確かに建っている灯台の光は間違いなくわたしであり、彼はそのために他の大学生と同等か、それ以上の存在であるかのような、富める者の逆転せざるを確信した時に垣間見えるうすら寒い傲岸さを露わにして憚らなかった。





 わたしはしかし一人の孤独な大学生であり、彼は大学生でありながら大学受験を繰り返す未練の塊に過ぎない。彼はわたしの大学の最高峰である政治経済学部を何度も受験して落ち続ける、なんらわたしの大学とは関係のない人間だった。彼は私立の名門J大学に所属していながら、ひどく自分の大学を嫌っていた。わたしと彼が初めて出会ったのは受験期であったが、わたしは何故彼がJ大学を棄ててまで受験勉強を続けているのかわからなかった。最初わたしは彼がわたしと同じような理由で受験しているのだろうと思った。けれど、わたしが大学に合格し、彼が三度目の敗北を喫することになった時から徐々に違うのではないかと思い始めていた。わたしが彼に嫌悪感を抱き始めているのはまさにそこなのであった。

「どうしたの?疲れているのかい?Y」

「、、うん、ちょっと。大学が忙しくって」

わたしは遊び疲れた子供が遊園地帰りのファミレスでそうするようにまだ顔を伏せ続けたままだった。見えない彼はきっと顔をしかめてわたしを睨みつけているに違いなかった。彼にとって大学、とりわけわたしの発する大学=彼が目指している場所が可愛さ余って憎さ百倍の対象であることは容易に想像できた。わたしの配慮はいつも足りない。けれど、我が儘な思考回路ではあるがわたしも疲れているのだ。わたしはせめて子供のように彼にこたえた。わたしはこれまで自身の酷く嫌悪する子供のような低身長を逆手にとって子供みたいに無邪気にはしゃいだ風を装って喋ることで彼にしてきた。彼はその度に蔑むような怜悧な表情を浮かべて微笑するのだった。彼は子供みたいな人が好きだと常々言っていた。

「ねえY。俺のことは好きかい?」

「うん。大好きだよ」

わたしはにこにこしながら天真爛漫な少女の明るさでそう言ってのけた。わたしは彼が少しでもが揺らぎそうになると発する臆病な問いかけに辟易していた。今日は何回彼の権威の維持に努めなければならないのだろうと考えると今から憂鬱だった。彼のサラダ(小エビのカクテル・280円税込)が来て、彼は押し黙って貪るように食べ始め、わたしは彼のやや蒼い頬をみながら、彼のことを考えた。わたしはなぜ彼に好かれようとしているのかが問題だった。わたしは彼のことが嫌いになり始めている。彼との関係は近いうちに破綻してしまうだろうという予兆がしこりのようにわたしの中にある。それは赤色巨星が破裂する未来にあるのと同じくらい確定事項だった。なのに、もう一方のわたしがそれを引きとどめているのだ。それはなぜか?そのことをわたしは考えていた。

「俺はこの小エビが好きなんだ。Yも食べるだろう?美味しいぜ。それにしてもここは酒を出すのが遅いな。お前が大宮に来れば、、あそこは酒は頼んだら直ぐにでるんだ、お前も知ってるだろう?俺は奢るのが好きなんだ。ああ、お前がこんなとこじゃなくて大宮に来れば、なあ」

彼は既に酔っているような口調だった。事実として彼は酔っているのかもしれないと思った。彼に一度どうしてそんなに酒を飲むのか、それほど美味しいものなのかと尋ねたことがある。あの日は未だ入試結果がわかっていなかったから互いに上機嫌で、とりわけ彼は海生哺乳類の鳴き声みたいに呻きながら美味しそうにデカンタをぐぐぐとあおっていた。

「そりゃお前、大人になればわかるさ。俺は酒に強いんだ。強いから旨いんだ」

彼は野蛮なうちに妙に爽やかさを残した口調で言った。彼はそれから豪放磊落に笑った。彼は巨躯というには痩せているがそれでも190を超す高身長だった。だから地を震わす、とはいかないまでも小柄なわたしをゆらゆら震わしたのだった。わたしは彼がそのように笑うのを好きではなかった。わたしが彼を好ましく思うのは、酒で自らを醜く肥大させるのではなくて、もっと冷静沈着な彼だった。受験期はよく彼の指南を受けたものだ。彼は英語が頗る得意で、わたしは頗る苦手だった。わたしがなんとか合格した(それも補欠合格で、その他受けた学部はすべて不合格だったが)教育学部を受験するよう勧めてくれたのは彼だった。

「Yちゃん。君は英語が弱いが、その分国語が強い。随分頑張ったんだろうね、技量は俺以上あるだろうなあ。それを活かせるのは教育の国語国文しかない。大丈夫。ボーダーなんか気にするな。俺の友人でそれで落ちた人間はいないからな」

彼のその一言が無ければ、わたしはここに居なかっただろう。或いはこの世界にいるのかも怪しい。それくらいに追い詰められていたわたしを救ってくれたのは間違いなく彼だ、彼はわたしの恩人だった。けれど、わたしは彼を嫌いになったのだ。




「なあY。最近俺のこと、って呼ばなくなったよな。どうしてだよお。俺はお前がってよんでくれるのが良いんだ。俺の弟子はお前だけだし、お前のは俺だけだろう?なあなんか言えよ」

「もうほーちゃん(彼は穂一郎という名前だったからわたしは彼をそう呼んでいた)はじゃないいでしょ(笑)。ほーちゃんが来年せーけい(政治経済学部)に合格するとして、だとしてもわたしの方が先輩になっちゃうよ?」

「留年しなよお前、そしたら同学年で俺がだ。俺はJ大学文学部の人間だぞ?偏差値ならお前の大学とさほど変わりはしない。それなら俺のほうがだろ?」

わたしは曖昧に頷いたが、その軽薄な自分自身に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。嫌なら嫌と言えばいいじゃないか。他大学の人間をと呼ぶことの滑稽さを、その言葉に込められている手枷のような意味から逃れたがっているのだと彼に説明すればいいじゃないか。しかしわたしはそれをしなかった。出来なかった。恐れているのだ?何を?彼の身体を恐れているのか?そんな筈はない。彼は優しい人間だ、暴力なんて絶対振るわない人間だ。では何を恐れているのか?もう一人のわたしが、すぐさま彼との繋がりを断ってしまうことを恐れているのか?ありえない。わたしは、、わたしは今日限りで、上田とは別れる心算なのだ。

「ねえY。俺のこと好きかい?」

「うん。大好きだよ」

わたしは彼の口許についたドレッシングをそっと拭った。吐瀉物のような色をして未練がましくわたしの小指に残っているそれをわたしは舐めた。わたしは彼のことをまだ、愛しているのかもしれない。






 わたしは去年、関西の私立大学であるR大学の一年生だった。現役時代は国立大学を志望していたが、二次で全く点が採れずに不合格となり、滑り止めのR大学に入学した。と言えば聞こえはいいが、R大学以外に合格した大学は無かった。

 そもそもわたしは国立大学にしか行くつもりはなかった。勿論国立大学の研究機関に憧憬があったのも確かだが、何より学費が安く、親孝行になると思ったからだ。

「お前等はただでさえ親不孝者なんだ、田舎の私立高校なんかに通うなんてな、とんだ親不孝者だ。その上に私立大学に行こうなんて考えるなよ?私大に行くために何万円ご両親が払うと思っているんだ。お前等は国立に行くんだ、現役でな。浪人は屑だ。受かる国立大学に行け。それがお前等に出来る唯一の親孝行だ」

わたしの高校の学年主任は入学直後の集会でこんな風なことを言った。わたしは本当にそうだと思った。自分自身が情けなくて仕方なかった。思えば高校も公立高校に落ちて滑り止めで入学したのだった。わたしは敗北続きの人生では両親に申し訳ないと思った。だから、高校では猛勉強してこれまでの人生の挽回を図った。走り続けるわたしの膝は何度もこけたせいで深い裂傷を負い、どす黒い血が噴き出している、そんな状態でわたしは懸命に走り、そして傷まみれであるが故に再び転倒して敗北したのだった。不合格が発表された時、わたしは妙に清々しい思いで三月の乾いた空を眺めた。ストレスで帯状疱疹になり、身体のあちこちがひどく痛んだが、その瞬間だけは、慈悲深い菩薩かあるいは下賤の民の浮腫を御手ずから取り去り給うた光明皇后に抱擁されたような快感さえ駆け抜けた。わたしは潔く人生を終わらせることを考えた。両親は浪人することを許してくれたが、やはりいい顔はしなかった。それよりも、関西では名門と謳われる(わたし自身は懐疑的ではあるが)R大学に進学するほうが良いと説得してきた。わたしはうつむいて、時には静かに涙を流しながら、これまでの自分の不徳を顧みることも儘ならず、かといって将来のことを考えることも出来ないで、ただ死ぬことばかりを考えた。逆説的ではあるけれど、というものを考え、いざそこに向かって駆け出すことを考えると、気分は随分晴れやかになるのだった。そうしてわたしが自分の部屋の布団のなかにくるまってめそめそしている内に親は正式にR大学に入学届を提出し、わたしは大学生になった。





 薄暗い部屋のなかで涙がとめどなく流れ、布団にくるまっていつ死のうか、明日死のうかなどと出来もしないことを考えた。わたしはわたしなりに頑張ってきたつもりだった。けれど結果はわたしに報いてくれなかった。寧ろわたしという人間はかくのごとく敗北し、野垂れ死ぬのが既定路線であるのだと返答をよこした。わたしはそんな人生は御免だと思った。わたしにも矜持というものがある。卑屈に地べたを這いつくばってへらへら生きているような人間にはならないと常々思っていた。ならば死しかない、わたしに残された道は。けれど、わたしにはその最期の跳躍、あらざる翼で空へ飛ぶことができなかった。わたしは臆病な人間だった。




 ある夜、わたしは猛然と死にたくなった。ちょうど家族が寝静まった頃で、父親のバカでかいいびきと母親の静かな寝息が漣のように聞こえてきた。徐々にその思いは強まっていく、わたしは今死ななければ一生死ぬことはできないだろう、そう思ってがばりと布団から跳ね起きると、わたしは躊躇することなく机の上にあった裁ちばさみを掴んで咽喉許めがけて刺し貫こうとした。




出来なかった。




わたしは右手で刺し貫こうとしたのだが、左手がぐっと遮ったのだ。わたしは親に勘繰られないように低く唸りながら、咽喉許に裁ちばさみをひたすらに刺そうとした。けれどそれを遮る左手の力は尋常ではなく、女の手ではないようだった。それほどまでにわたしは生きたいのか、わたしはわっと泣き出してもう死ぬことは止めようと思った。わたしはもう神様から定められたわたしの位置から動かないと決めた。漫然と生きるのはつまらないけれど、事実仕方がないのだ。どんな死に方を試そうがあの時の、薄闇に紛れてどす黒かった左手がそれを阻止するだろう。それに動かないということは転倒もしないということだ。わたしは二度と無様な姿を晒すことはないだろう、そうわたしからも。折り合いをつけるのは大変だったが、流石にR大学の入学式が近づいてくるとを脱してある程度は安らかな心もちで、自分の通うキャンパスを観に行ったり、スーツなんかを買ったりもした。わたしは職場に急ぐスーツ姿の父親が好きだった。



 

 入学式は愉快だった。父親は大粒の涙を目にためて「R大学入学式」と書かれた立て看板の横に立つわたしを見つめた。あとからその時の写真を見せてもらったが、あどけない表情を浮かべたわたしの目にも薄っすら涙が浮かんでいたのは父のせいに違いなかった。今でも記憶に確かに残る一葉の写真、わたしの涙は間違いなく嬉し涙にもかかわらず、その笑顔はぎこちなく、寧ろ悲痛に歪んだように見えた。





「エスカルゴでございます」

わたしの前に置かれたエスカルゴのオーブン焼き(400円税込)は芳醇なガーリックバターの香りを放ち、パセリのオイルソースの海で蝸牛はぐつぐつ煮えていた。わたしはサイゼリヤの独特なかたちをした陶器の皿さえ愛しているほど、エスカルゴには目がなかった。わたしはつい彼に

「食べる?」

と言ったけれど、彼は苦笑していらないと答えた。そのかわりに彼はデカンタをわたしに勧め、わたしが断る前に一気飲みするのだった。彼の逞しい喉仏が何度も上下するのをわたしは冷静になって沈鬱な気分で眺めるのだった。以前の彼なら喜んで食べてくれたのではないか?と思ったけれど、彼が食べてくれたことで別段嬉しくもないし、なぜ彼に食べて欲しかったのかわからなかった。デカンタを飲みほしたあと、当然のように二杯目の注文を書き始める彼は、まるで奢られる身でありながら見境なく頼む自分自身を恥じらうように、

「なんでお前はそんなにエスカルゴが好きなんだ?」

と聞いてきた。わたしは彼が汚らしく稚拙なミミズみたいな字で速記した注文書から眼を背けつつ、

「両親と去年の入学式のあとに初めてサイゼに行ったんだけど、その時に食べたエスカルゴの味が忘れられなくて」

「去年の入学式?HaHaHa!そりゃあ相当楽しかった入学式だろうねえ!」

彼は野卑な声で嘲るように笑った。わたしは彼が本気でそう言っているのか、はたまた何かしら暗示めいた皮肉なのかわからなかった。どっちでも良いような気がした。もう彼は酔い始めているのだ。或いは相当酔っているらしかった。わたしは微かに残っていた彼に対する愛情が滑稽なものに思われ、また公衆からHaHaHa!と笑われているような気がして怒りさえ湧かず、冷淡な気分でもう彼の顔を見たくないと思いながら酷く肥えたエスカルゴを頬張った。母が昔日のフランス留学を回顧しつつ言った「あの時食べたエスカルゴは生臭かったのよね」という言葉を思い出しながら、こっちのほうが生臭いんじゃないだろうかと思った。彼の言葉と酒臭い吐息はわたしの侵すべからざる晩餐を穢した、その堪え難き屈辱感をわたしはすんでのところで拭い去り、何とか笑顔で、うんそうだねと答えた。

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