2-6.迷い

はやて。ここまでにしよう」


 颯たち一行が宿泊している埃宮えのみやの館の中庭で鍛錬をしていると、彦五瀬が剣を下ろした。


「まだできます」

「いや。このまま続けても今の迷いある剣では身にはならぬ」


 彦五瀬は颯を責める風ではなく諭すように言うと、二人の剣の鍛錬を見守っていた女性陣に「後は頼む」と言い残してその場を後にした。


「お兄ちゃん……」


 心配そうに見つめる伽耶に、颯は力のない笑みを返す。沙々羅と五十鈴媛も気づかわし気な視線を送っていていたが、颯は気付かない振りをして遠い空を見上げた。


 高千穂を発ってから、既にかなりの日数が経過していた。その間、真菜の行方に関する情報は皆無。その上、化け物の目撃例すらほとんどなく、颯は焦燥に駆られていた。


 五十鈴媛の言っていたように、本当に化け物に攫われた時点で真菜にまだ息があったとしても、今この時まで生き続けている保証がない。


 それに、仮に化け物にとって真菜に攫うだけの理由があったとして、未だ生かされ続けているとは限らない。


 そう思うと颯は胸が苦しくなると共に、もう何をしても真菜は帰ってこないのではないかという最悪の想像が脳裏を掠めるのだった。


 無駄な努力をしているとは思いたくはないし、九州北部での鬼退治に参加して微力ながらも現地の人々を救う手助けができたことは誇りにも思う。しかし、颯の行動原理はあくまで真菜なのだ。


「真菜……」


 そう空に向かって呟く颯に、その場の誰も声をかけることができなかった。






 日が傾き始めた頃、館の板張りの大広間に主だった者たちが集まっていた。これまでの道中で一行に加わった何人かの有力者の姿はこの場にはなく、高千穂から颯や彦五瀬に付き従う首脳陣と言うべき者たちだ。


「やはり、もうしばしの滞在は避けられぬか」


 彦五瀬の重々しい声が部屋に響く。海路を行く関係上、次の上陸予定地には長髄彦の手が伸びている可能性が高かった。故に、埃宮周辺で地盤を固め、相応の準備をすべきだという声が大勢を占めていた。


 今も日々、多くの人間が働いているが、それでもしばらくはこの地を離れられないことに彦五瀬は溜息を吐く。


「せめて真菜の行方に繋がる何かしらが掴めれば良いのだが……」


 彦五瀬の視線が颯に向いた。颯は顔を伏せたままだった。


「申し上げます」


 一時の静寂を、広間に姿を見せた兵士の声が打ち破った。兵士は、たった今、東のヤマトからの使者が館に辿り着いたと告げ、彦五瀬はすぐに通すよう命じた。


 ヤマトからの使者は実質的には沙々羅の祖母サルメからの使いだった。彦五瀬は使者から受け取った木簡を沙々羅に渡す。沙々羅は促されるまま、手元に視線を落とした。


「それと、こちらを沙々羅様にと……」


 沙々羅が読み終わるのを待って、使者が黒い布に包まれた円板のようなものを手渡す。


「これがあの……!」


 大切なものを扱うような手つきで沙々羅が布を開くと、中から白銀に輝く銅鏡が姿を現した。中央に玉が嵌り、その周囲には幾何学模様が描かれ、更にその周りには玉を中心に幾重にも円が連なっている。


「沙々羅。その銅鏡も気になるが、まずはサルメの木簡に書かれていたことを教えてほしいのだが」

「はい。失礼しました」


 沙々羅は布を被せなおし、使者に労いの言葉をかけると、その視線を颯で止めてから彦五瀬へと動かした。沙々羅が口を開く。


 沙々羅曰く、サルメの木簡には東のヤマトのスジン帝が歓迎の意を表していることと、長髄彦の被害の拡大が記されていたようだ。また、スジン帝に従う各地の豪族への根回しの状況や、“じゃ”を原因とする異変の調査内容も含まれていた。


 そして、真菜を攫った化け物についての確証は得られないものの、何らかの助けになるはずだとくだんの銅鏡を沙々羅に託したのだという。


「それが……」

「はい。これこそがトヨ様から我が祖母サルメがお預かりした破邪の鏡にございます」


 沙々羅が彦五瀬の前に進み出て、布を開いて差し出した。彦五瀬は白銀色の銅鏡を感慨深げに眺めてから沙々羅に返す。


「よろしいのですか?」

「この鏡はただ祖母の形見というだけではない。破邪の秘術を修めた者の手にあるべきものだ」

「わかりました。お預かりいたします」


 二人の一連のやり取りを尻目に、颯は開け放たれた戸の向こう、外の景色を眺めていた。




 サルメからの情報を加えて更に続いた会議が終わった。項垂うなだれながら歩く颯を、沙々羅が呼び止める。彦五瀬とその他の人たちが広間を後にし、薄暗い中に二人だけが残された。沙々羅は油皿あぶらざらに浸された紐状の灯心に火をつける。


 柔らかな灯りが辺りを優しく照らした。


「颯様。何を迷われておられるのですか?」


 真摯な、そして穏やかな表情の沙々羅に見つめられ、颯は胸の内に抱えた不安を吐露する。沙々羅は颯が言い終えるまで、口を挟むことなく聞き続けた。


「颯様。真菜様は生きておられます。颯様が真菜様を助け出そうと努力されているように、きっと真菜様も颯様の元に戻るために尽力されているはずです。それに――」


 沙々羅が颯から広間の入り口へと視線を動かす。


「お兄ちゃん……? 五瀬様からお兄ちゃんがまだこちらにおられるとお聞きしたのですが……」

「颯、いるのでしょう?」


 広間の入り口から伽耶と五十鈴媛が顔を覗かせた。二人は颯の姿を見つけると微笑みを浮かべる。


「真菜様の無事を信じているのは私だけではありませんよ。それなのに、肝心の颯様が信じないでどうするのです」

「沙々羅……」


 颯が伽耶と五十鈴媛を、そして沙々羅を見つめる。


「沙々羅。抜け駆けは禁止と言ったはずなのだけど?」

「人聞きの悪いことを言わないでください、五十鈴媛。私はただ颯様に気付いていただきたかっただけです」


 五十鈴媛と沙々羅が、これまでの旅路で少しだけ距離が近付いたような口調で言い合いを始める。その傍らで、伽耶が颯の裾を引いた。颯が視線を下に向けると、伽耶はニッコリと幼い顔に純粋な笑みを浮かべた。


「お兄ちゃん。少し元気になったみたいで良かったです」


 颯は半ば恒例となったように伽耶の頭に手を置いて、そっと撫でる。


「あら、沙々羅。伽耶が羨ましいのかしら?」

「そ、そんなことは……!」

「そう? わたくしは羨ましいわ」


 五十鈴媛がそう言って沙々羅に勝ち誇ったような顔を見せてから颯に向き直る。


「颯。あなたを心配していたのは伽耶だけではないわ」

「五十鈴……?」


 五十鈴媛がやや前傾姿勢で頭頂を颯に向けた。颯は困惑するが、五十鈴媛が言わんとしていることは直感的に理解できた。颯は伽耶の頭に乗せていた手のひらを僅かに浮かせるが、そこで手を止める。


 妹のような幼い伽耶はともかく、同年代の綺麗な女性の頭を撫でるのは非常に恥ずかしく感じた。


「い、五十鈴媛! そ、それを抜け駆けと言うのでは……!」

「あなたは撫でてもらいたくはないのでしょう?」

「そ、それは……!」


 沙々羅が悔し気な顔で五十鈴媛に非難めいた視線を送る。そんな二人と颯を見て、伽耶が控えめに笑い声を上げた。


 伽耶の楽し気な笑い声が、温かな光となって広間を照らす。いつしか、颯の顔にも笑みが浮かんでいた。


「みんな、ありがとう」


 もう迷わない。颯はそう心に決めた。


 その後、結局、颯は胸を緊張でドキドキさせながら、五十鈴媛と沙々羅の両人の頭を撫でることになったのだった。






 その夜、颯が伽耶に遠慮がちにせがまれて一緒に寝ていると、虫の音や風の音すらしない静寂の中、何かが床を擦るような、否、引きずるような音が聞こえた。

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