1-10.来訪

「失礼します! はやて様、真菜様、起きてください!」


 翌朝、むしろくるまって眠っていると、伽耶が血相を変えて駆け込んできた。


「うーん……もう朝?」


 昨夜、真菜が温泉から戻ってきた後、伽耶の運んでくれた豪勢な夕食もそこそこに、二人はあっという間に眠りについてしまった。


 颯が薄っすらと目を開くと、隣で同じように筵に包まっている真菜の姿が飛び込んできた。幸せそうな寝顔だった。


「ん……ここは……?」


 筵の中でもぞもぞと動き、仰向けになった。剥き出しの木々が編むように組まれている。その先に、飛騨白川郷の合掌造りの茅葺き屋根のようなものが見えた。見慣れない天井だった。


「颯様、真菜様!」


 颯が自分を呼ぶ声のする方を向くと、伽耶がおろおろしている。それを目にした途端、颯はここが自室でも旅行先の旅館でもないことを思い出した。


「……伽耶ちゃん?」

「あ、颯様。急いで五瀬様のところへ!」

「何かあったの?」


 起き上がりながら伽耶に尋ねる。伽耶が何かに怯えているように見えた。


「それが……なぎ様が……」


 聞き覚えのない名前だった。颯は伽耶の様子に尋常でないものを感じ、真菜の肩を掴んで揺さぶる。


「うぅん……。兄さん? おはよう」


 真菜が眠気眼を擦りながら起き上がった。


「颯様、真菜様。とにかく、五瀬様がお待ちです。お急ぎください」


 事情が掴めずボーっとしている真菜を促し、颯は伽耶に急かされるまま彦五瀬の待つ屋敷奥の部屋へ急ぐ。朝の冷たい健やかな空気が寝起きの体を引き締めた。






「颯、真菜。朝早くすまないな」


 彦五瀬は二人の姿を認めると爽やかな笑みを浮かべるが、すぐに険しい表情へ戻った。その横で思金おもいのかねが難しい顔をして何事か思案していた。


「五瀬さん、何かあったんですか?」


 彦五瀬は二人を交互に見遣ると、大きく溜息を吐く。


「実は困ったことになっていてな……。先ほど、薙がこちらに向かっているとの知らせが入った」

「薙?」

「うむ。私の弟で、ここ高千穂宮を統べる者だ」


 颯は真菜と顔を見合わせた。真菜は小さく首を左右に振り、颯は小首を傾げる。彦五瀬の弟が来るということが、どうして困ったことなのかわからなかった。


 その時、部屋の入口の引き戸が乱暴に開かれる音がした。見ると、年の頃十三、四の小柄で童顔の少年が立っていた。その後ろには、身の丈、百九十センチはあろう筋肉質の大男が控えている。


 少年と大男が、ずかずかと歩み寄ってくる。少年は邪悪そうに口の端を釣り上げていた。


「薙、突然いかがした」


 彦五瀬が尋ねるが、薙と呼ばれた少年は気にも留めず、部屋を見回す。視線が伽耶を通り過ぎるとき、薙の表情から一瞬笑みが消え、不自然に歪んだ。その瞳に憎しみと悲しみが同居したかのような色が浮かんでいた。しかし、次の瞬間、その両の目が颯と真菜を捉えると、元の邪悪な笑みへと戻った。


 薙は値踏みするように颯を眺めて鼻で笑い、舐めるように真菜の全身を見つめる。


「薙!」


 彦五瀬が叫ぶと、薙はようやく真菜から目を離した。


「これは兄上様ではございませぬか。ご機嫌麗しゅうございます」

「薙、何しに参った」


 彦五瀬は弟を睨みつけるが、薙は不敵な笑みを崩さない。


「兄上様ほど聡明なお方が、わからぬはずがないでしょう?」


 薙は歪んだ口元を更に吊り上げ、背後に控える大男に目で合図を送った。大男が板張りの床を軋ませながら颯と真菜の前に歩み寄る。颯と真菜は眼前にそそり立つ壁のような大男を見上げ、後退あとずさった。大男は怯える二人を無表情で見下ろし、それぞれの手で二人の細腕を掴んで持ち上げる。掴まれた腕がきりきりと痛んだ。何とか逃れようともがくが、無駄な足掻きに過ぎなかった。真菜が苦悶の表情を浮かべていた。


手力男たぢからお! その二人は私の客人だ。その手を放せ」


 手力男と呼ばれた大男は彦五瀬の鋭い視線を受けても無表情を崩さず、悠然とそびえる山のように身じろぎしなかった。


「ご安心ください、兄上様。日の神の子は二人も三人も必要ありませぬ。この者らは私が責任を持って始末いたしましょう。人心を惑わした罪を十分に償わせた後で、ね」


 そう言って薙は真菜に近付き、その手を取る。整った顔に怪しい笑みを張り付かせた薙の舌が、真菜の手の甲を這った。真菜が短く悲鳴を上げて身を震わせる。


「真菜!」


 吐き気がした。颯は辛うじて自由な左手で抜き身のまま背負った天之尾羽張を何とか引き抜こうと試みるが、それに気付いた手力男が颯の腕を握る手に力を込めて締め上げる。腕の骨がみしみしと音を立てているかのように感じた。


「そうだな……。女は生かしておいてもいいな。くくく……せいぜい可愛がってやるよ」


 何もできない自分が情けなかった。颯の顔が苦痛と悔しさで歪んだその時、彦五瀬が腰に下げた片刃の直刀を黒一色の鞘から抜き、薙の眼前に突きつけた。吊り上った両目には燃え上がる炎のような怒りが宿っていた。


「薙よ、去れ。これ以上の我が客人への無礼は許さぬ」


 辺りを静寂が包んだ。そこに存在する全てが、時が停止したかのように沈黙し、兄弟は相対した。薙の表情から、すっと笑みが消える。


「兄上、どういうつもりです」


 痛いくらい張り詰めた空気の中で、彦五瀬は無言で薙を見据えた。


「よもや私に勝てるとお思いか」


 薙が腰の刀に手をかける。色とりどりの玉で飾られた鞘から僅かに覗く刀身が、窓から差し込む日の光を反射して白く輝いた。八十センチを超える刀身と大きく反った形状は、平安時代以降に広く使われた太刀を思わせた。


 颯は何もできない悔しさを噛みしめながら、息を呑んで事の成り行きを見守る。永遠にも思える時間が過ぎた。実際には五分も経っていないのかもしれない。だが、颯にはそう感じられた。


「いいでしょう。今日のところは退くとしましょう」


 薙が刀の柄から手を放し、ふっと、含みをも持った笑みを浮かべた。薙は颯爽と身を翻し、部屋から出て行く。手力男は無言のまま颯と真菜を解放し、薙の後に続いた。


 真菜が脱力してその場に崩れ落ちる。その細い腕に手力男の手の跡がくっきりと残っていた。


「真菜、大丈夫?」

「うん……。兄さんこそ大丈夫?」

「ああ」


 ずっと吊り上げられていたため、片腕が伸びたような錯覚を感じるが、骨にも筋にも影響はなさそうだった。


「颯、真菜。すまなかった……」


 彦五瀬が深々と頭を下げる。


「いえ……」


 何と言って良いのかわからず、颯は曖昧に答える。彦五瀬が謝ることではないとは思っているが、様々な憤りと疑問が颯の頭の中をぐるぐると回っていた。


「昔はああではなかったのだが……」


 彦五瀬はうつむき、静かに語り始めた。

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