第4話 トランジスタ動作確認


 トランジスタ動作確認



       ※


 六月六日、月曜日。

 最近は雨の日が多く、夕方に黒い雷雲が発生したかと思うと、次の瞬間には大粒の雨が地面に叩きつけるように降ることが多かった。そんなとき、水岡は工場内で残業をしながら、『うわー、こりゃとんでもない雨だなー。あー、定時に帰らなくてよかったなー』と心から思うのである。今朝の天気予報は曇りだったが、どうなるものか分かったものではない。

 午後三時三十分。解析エリア。

「なるほど、とにかく難しいっていうか、黒岡林君には手に負えないってことね。まあ、そうやってちゃんと連絡してきてくれたことはよかったけど、つまりは、もうギブアップってこと?」

「……すみません」

「念のために伝えておくけど、僕が品管に配属したときは、前任者が三日間しかいなかったから、ろくな引継ぎなんてできなかったし、ずっと僕一人で解析しなくちゃいけなかったから、分からなくてもギブアップなんてできなかったし、前任者は会社を辞めちゃったから教えてくれる人もいなかったんだけどね……で、ギブアップなの?」

「……すみません」

「そうなんだ……その辺は頑固というか、やる気の方が、というか……」

 黒いケースが外され、緑色したプリント基板が組み合わされているユニットが作業台に置かれている。ただ、ケースが外されただけで、他にどうかしたような感じはない。

「じゃあ、何をやったのか順番に教えてくれるかな?」

「えーと、試験仕様書を見て、目視チェックをして、端子台でテスターチェックをして、過去の履歴を見たんですけど……もう、どうしたらいいか分からなくて」

「これは『トランジスタ動作確認』でNGになってるね。ああ、値がまったく出てないみたいだ。これって、どういう意味だった?」

「あ、ちょっと待ってくださいね……」

 黒岡林はパソコンの画面に検査仕様書を開いていた。

「これです」

「いやいや、あの……簡単でもいいから、自分の口で説明してみてよ。それで、君がどれだけこの試験のことが分かっているかを確認したいから」

「えーと、その……」

 一分後。

「どうしたらいいですか?」

「……さっぱり分からないってことね。でもって、説明するのに『どうしたらいいですか?』って、返答としておかしいからね。ちゃんと考えたの?」

「すみません」

「あのね、この『トランジスタ動作確認』ってのは読んで字のごとく、トランジスタを動作させる試験をしているわけだよ」

 トランジスタ、記号ではTR。

「ユニット内にあるトランジスタなんだけど……そうそう、黒岡林君、そもそもトランジスタってどんな部品だったっけ? これだったらきっと大学で、電気回路とか半導体とかの授業で習ったと思うけど」

「えーと、トランジスタは……」

 三十秒後。

「……分かりません」

「どうやって単位取ったの? 抵抗とかコンデンサとかダイオードとか、そんな基本的な部品だと思うけど」

「テストは、先輩から過去問を譲ってもらって、そればっかり覚えて、それでどうにか点が取れたみたいなんですよね。解いたってより、まんまを書いただけっていうか。だから、説明するのはちょっと……」

「ああ、テスト前の丸暗記で乗り切ったんだね。そうなんだ……」

 授業によっては、水岡にも覚えがある。思い返してみると、テスト期間にやたら売店のコピー機が混在している懐かしい記憶が脳裏に蘇っていた。思わず口元が緩んでしまうが……そんなことをしている場合ではない。

「じゃあさ、スイッチはどういう部品か説明できる?」

「スイッチですか? スイッチって、その辺にある、照明なんかの、壁についてるやつとかですか?」

「そう、そのスイッチ。このユニットにもLEDの横にあるでしょ? じゃあ、スイッチがどういう部品か説明してみて」

「えーと……」

 三十秒後。

「押したら照明が点くやつです」

「そうだけど……もっと電気的な感じで説明してほしいな。そんなに難しいものじゃないはずだから……」

 水岡からの問いかけに対し、相手の視線がゆっくりと下がっていく。水岡は小さく首を振り、一瞬呼吸を止めてから……口を開けた。

「じゃあさ、簡単な回路をイメージしてみようか」

 それこそ小学生の授業でやるような、簡単な電子回路。

「電球から導線を引いて電池につなげれば、電球は点灯するね」

「はい」

「電球と電池の間にスイッチをつなげると、スイッチがOFFのときは電池から電流が流れないから電球は点灯しない。スイッチをONすると電池から電流が流れるようになって、電球が点くようになる」

 壁に設置されている照明のスイッチも原理は同じ。

「テレビでもラジオでも掃除機でも部屋の照明でも、スイッチってのは遮断している回路をつなぐ部品なわけさ。これぐらいは分かるよね?」

「はい」

「説明できなかったくせに……」

 ちくりっ。

「でね、大抵のスイッチの特徴として、ONとOFFの切り替えを手動で行っているってことがあるんだよ」

 人が指でボタンを動かしてONさせ、人が指でボタンを動かしてOFFさせる。

「トランジスタってのはね、簡単に説明すると、手動で行っているスイッチのONとOFFを電気的に行う部品なんだよね」

「電気的ってことは、信号で制御するってことですか?」

「おっ、いいねー。じゃあ、制御するのに、具体的にはどうすればいい?」

「……分かりません」

「だろうね」

 予想通り。

「トランジスタって端子が三点あるじゃない」

 三点の端子は、B、C、E。ベース、コレクタ、エミッタ。

「きっと学校の授業でもやったと思うけど、順方向の場合、ベースに電流を流すと、コレクタからエミッタに電流が流れるようになって、ベースに電流を流さなくなると、コレクタからエミッタに電流は流れなくなる」

 ベースの信号の有無が、スイッチでいうところの指で動かすこととなる。

「まあ、動作としてはスイッチと同じだと思っていればいいよ。ただ、電気的に制御するわけだから、そのスイッチングは人間が指でやるのなんか比べものにならないぐらい早いけどね」

 そして今やろうとしているLO品は、出荷試験の『トランジスタ動作確認』でNGとなったもの。

「ここでいうトランジスタってのは、モジュールのもののこと。あっ、うん、そうやって首を捻るのは、なんとなく分かってたよ」

 TRM、トランジスタモジュール。

「いくつかのトランジスタを一体化させたものがトランジスタモジュールって部品なんだけど、僕はモジュールって略してる。ユニットの一番下にあるやつだね。あ、うん、フィンの上に直接つけてるやつね」

「ああ、この豆腐みたいなやつですね」

「……白っぽくて長方形だから、豆腐みたい、かな? うーん……」

 水岡の発想にはない独特の表現に、一瞬の躊躇が生まれた。もう少し似たものはないかと、妙な方向に思考が使われていって……首を横に二回振る。似たものを探している場合ではない。

「黒岡林君にそう見えるなら、豆腐でも高野豆腐でもいいけど、あんまり他で言わない方がいいかもね。あまりにも独特な表現だから」

「そ、そんなに変ですか?」

「メーカーによっても色が違うし、なかなかない表現ではあるね……で、そのモジュールがどんな部品かというと……はい、黒岡林君はもちろん分からないだろうから、簡単に説明するね」

「お願いします」

「ここについてるのは、ユニットのコンデンサに充電された直流電圧を交流電圧に変換する部品、それがトランジスタモジュールなんだよ。そうして制御しやすい交流電圧を作ってモーターを回すんだ」

「どうやってですか?」

「さっき説明した通り、トランジスタは電気的に制御してスイッチングできるから、直流をモーターの三相に順番に流していく」

 三相はそれぞれU相、V相、W相。

「スイッチングでタイミングを変えることで、元は直流なのに交流のように出力していくわけなんだけど……まあ、詳細はいいや。そんなちんぷんかんぷんな顔をされても、こっちだって困っちゃうからね。まあ、僕だって設備がなくて実際に動かしたことがないから、ほとんど想像で喋ってるだけだし」

 補足情報はこれぐらいにして、そろそろ本題に入る。

「とにかく、モジュールにはトランジスタが出力の分だけあって、それが正常に動作しているかを確認しているわけだよ」

 そして水岡は、作業台の上のLO品を手で示す。

「出荷試験では、実際に駆動側に電流を流して、トランジスタのスイッチングが正常に行われているかを確認している。流れる電流を計測してね」

 トランジスタのベースに電流を流して動作させ、コレクタからエミッタに電流を流れるようにして、実際にその電流を測定する。正常に測定できればトランジスタが動作していることとなる。

「だけど、例によってここにそんなことを再現させる設備はない」

 解析設備に恵まれないのは、インラインのつらいところ。

「ただし、電流が流れてるかどうかは、ベースに電流を流したときに、出力側にテスターを当てて、針が動けばトランジスタが動いたってことになるわけさ。この辺はアイデア勝負だね」

 抵抗値を計るテスターも、電流を流すことで計測することができる。そのため、その針の動向によってトランジスタが動作しているかが確認できるようになるのである。それは水岡が独自に調べて見つけたことだった。

「問題は、どうやってベース側に電流を流すかなんだけど、パソコンと通信させてコマンドを打てばいい」

 設計が製品を開発する際に使用するコマンド。通信させてコマンドをCPUに送信することで、ベース側の電圧を制御することができるようになっている。水岡がいろんな資料を見て、ユニットでいろいろ確認して発覚した。

「じゃあ、電源を入れてパソコンと通信させて、コマンドを打ってみよう」

 水岡はパソコンとユニットを通信できるようにケーブルでつなぎ、電源を入れて正常に通信していることを確認。専用のソフトでコマンドを実行させる前に、アナログテスターを黒岡林に渡した。

「まず直流電圧のプラス側の端子台と、出力のUVW相をそれぞれテスターで当たってみて」

「あの、テスターはどんなレンジにすればいいですか?」

「抵抗で、レンジは一番低いやつでいいよ。どう、当たってみて、針は?」

「えーと、ちょっと待ってくださいね。プラス側と、まずU相で……あの、U相は針が動きません。それから……V相も動きません……W相も動きません」

「うん、それはつまりどういうことになるかな?」

「えっ……? どういうことですか?」

「考えてみて」

 そうして一分待ってみても相手からの返答はなかった。

「今まで説明してきたこと、ちゃんと理解できてる、と思う?」

「……すみません」

「できてないのぉ!?」

 目を剥く水岡。

「テスターの針が動いてないんだから、電流は流れてないってことでしょ。じゃあ、トランジスタは動作してるんだっけ?」

「……して、ない、ですか?」

「そんなさ、『確率二分の一を当てずっぽうで言ってみた』なんて顔されて、かつ、質問みたいな回答されてもさ……まあ、当たりだよ。テスターの針が動いてないから、電流は流れていない。つまり、トランジスタはONしてないから、今はOFFの状態にあるってことだよ」

 水岡はキーボードを叩いてソフトにコマンドを入力し、エンターキーの上に中指を置いた。

「じゃあ、コマンドを打つね。テスターをよーく見てて」

 エンターキーを、かちっ。

「はい、どうなった?」

「えーと……あっ」

 黒岡林が見ているテスターの針が、大きく右に動いた。

「動きました動きました。これでトランジスタがONしてるって分かるんですね。へー、なんか凄いな」

「それがUね。残りのVもWもお願い。もうコマンドは打ってあるから」

「あ、はい。V相はですね……あっ、動きました。そうすると、W相も……動きました!」

「なんか嬉しそうだね。まあ、分からなくもないけど」

 配属したばかりの頃、すでに前任者がいなくて誰も教えられる人間がいない状態で、多くの資料を読み、解析用のユニットでいろんなコマンドを打ちながら、調査方法を探すために悪戦苦闘していた若き日の水岡がこの方法を見つけたとき、大学受験や入社試験に合格したときと同じぐらい感激したものである。

 これで解析が大きく前進したと確信し、同時に解析をやっていく自信を、仕事をやっていける自信を得ることができていた。

「黒岡林君は、そういったことを教えてもらうんじゃなくて、自分で見つけられるようになれるといいんだけどね。資料はちゃんと用意してあるから」

「水岡さん水岡さん、次はどうすればいいですか?」

「随分とやる気になってきたみたいだね。いいことだよ」

 水岡は満足そうに首肯した。

「じゃあ、今度はマイナス側のトランジスタを調べてみよう。テスターのプローブを入れ替えてね。今の状態はどう?」

「えーと……針は動きません。Vも……動きません……Wも動きませんでした。これがおかしいってことですか?」

「いや、おかしくないよ、まだコマンド打ってないんだから。いい、打つよ」

 エンターキーを、かちっ。

「どう?」

「えーと……あれ、やっぱり動きません。えーと……はい、VもWも動きません」

「ふーん……じゃあ、これが悪いみたいだね? やり方が間違ってるといけないから、念のため、他のユニットでもやってみようか」

 専用の棚と臨時で置かれたパレットの上と、合計で十台以上のLO品がある。『未解析が十台』という現実は、水岡が担当していた春までなら異常事態だが、春以降はずっとこんな感じだから、あまり感情が揺れることはなくなった。

 ただ、これでも残業時間に水岡が減らしてはいるのである。

「ほら、いいユニットはちゃんと動くから、あれはマイナス側のトランジスタが動作してないみたいだね」

 他のユニットで試してみると、正常にテスターの針は動いた。これで悪いさが机上で確認できたことになる。

「じゃあ、ここからは黒岡林君がやってみてよ。図面を見てトランジスタを動かす回路を追っていけばなんとかなると思うから」

「ええっ!?」

 目を巨大化した黒岡林の驚愕の顔。

「一緒にやってくれないんですか? そんなの無理ですよ。できるわけないじゃないですか!」

「……これ、君の仕事でしょ?」

「困ります困ります。だって、他にもまだあるんですから」

「たくさん溜まってるよね。早く処理できるようになろうね。目指せ残数ゼロ台」

「いや、そういうわけじゃなくてですね、同じエラーでNGになってるのが、まだ三台もあるから、急がないといけないわけです」

「全部で四台も出てるのぉ!?」

 今度は水岡の声が裏返るほどの驚愕。

「そういうことは早く言いなよ。じゃあ、急がないといけないけど……」

 近くの壁にかけられた丸時計は、午後四時。

「僕、もう少ししたら打合せがあるだよね。そうすると……」

 水岡の頭には自動的に『残業時間』という言葉が浮かんでいた。

「じゃあ、これは僕が代わりにやってあげるから、ケースを戻して避けておいて。それで、同じエラーのLO品はどれのこと?」

 近くにあるユニットを確認するが、『トランジスタ動作確認』というエラーメッセージが貼られたLO品は見当たらなかった。

「どこにあるの?」

「あの、ここ、もう置き場がなくなっちゃったから、まだ回収してないっていうか、現場に置いてもらってます……」

「とんでもないね!」

 LO品は早く回収して、早く解析して、早く原因を突き止めて、早くその発生原因を改善しなければならない。だというのに。それがまさか、最初の回収する段階すらまともにできていない状況に追い込まれていようとは。

「まあ、これは僕が頑張るしかないか。じゃあ、残業時間にどうにかするから、黒岡林君は他のエラーのやつをやっといて。あと、定時になったら作業台をきれいに片づけておいてね、僕が使うから。じゃあ、一旦事務所に戻るわ。はぁー、今朝通勤したときから覚悟はしてたけど、月曜日から残業か、今週も一週間が長く感じるなー」

「ああ、水岡さん、ちょっと待ってください!」

 これまでにない黒岡林の大きな声。大事なことを告げるべく、黒岡林は背中を向けた水岡を呼び止めた。

「水岡さんに、もう一個だけ、お願いがあるんですが……」

「えぇー……」

 一瞬にして水岡の顔が歪む、うんざりするような瞼が半分閉じる疲れた表情。眉間の皺は今年最大の深さとなっていた。

「嘘でしょ、これ以上まだ何か問題抱えてるのぉ? うわー、聞きたくないなー」

「水岡さん、話も聞いてないのに、そんないやな顔しないでくださいよー。あのですね、今度の金曜日なんですけど、時間ってありませんか? よければなんですけど、その、仕事終わってから飯にいけたらなーって」

「金曜日に、飯ぃ……?」

 水岡の全身に、寒気のような震える感覚が駆け抜けていく。一か月前の居酒屋『鶏ケイ様』で直面した苦々しい思い出が頭を過っていた。

「また相談でもあるわけ? まさかまだあの子に付きまとってるとか? もー、やめてよ、職場の後輩がストーカーなんて、そんなのいやだよー」

「違います違います、そうじゃないですよ。そうじゃなくてですね、その、なんといいますか……」

 黒岡林は顔の前で右手を二回横に振ってから、次の言葉を言いにくそうにして、両手の指を意味なく動かしつつも……思わず下がっていた視線のまま口を開く。

「実はですね、思い切って羽ちゃんを飯に誘ってみたんです。そしたら、その『しのぶくんが一緒ならいいよ』って言われちゃって、それで、こうして水岡さんをお誘いしているわけでして……」

「『羽ちゃん』っていうのは、現場で作業している羽咲さんのことだよね。僕の同期の、あの羽咲さん」

 水岡の目が細くなる。双眸に入る力は、睨みつけんばかり。

「なるほど、自分の都合のために先輩である僕のことを出しにしようって魂胆だね? これはまた随分と『自分のことばっかり』な発言に行動だね。相変わらずというか、成長しないというか」

「すみません……その、奢りますから、金曜日、一緒にお願いします」

「『奢ります』って……」

 さらに色を濃くする一か月前の記憶。

「確かこの前、君は同じ台詞を言ってたはずなのに、結果としてなぜか僕が二人分の食事代を出す羽目になったんだけど……」

「その節は、すみませんでした……あ、あの、今度こそ、本当にぼくが支払いますので。だって、誘ってるの、ぼくなんですから。へへへっ」

「わっ、小悪党みたいににやけた笑い方してるけど……まあ、金曜日ね、考えとくよ」

 水岡の頭がちょっと重たくなった気がした。

「そんなことより、ちゃんと仕事して、LO品を一台でも多く減らしておいてよ。あんまり多いと、現場からクレーム出ちゃうから」

 水岡は肩を大きく上下させてから、解析エリアを後にした。


 午後六時。

 最近は繁忙期ということで、製造現場も多くの人が残業している影響もあり、工場全体の照明が煌々と輝いている。すぐ前の通路では部品を載せた台車を押す作業者が何度も往復しており、試験設備の巨大なモーターが重低音を空間に響かせていた。

(にしても、なんでマイナス側だけONしないんだろ?)

 解析エリア。パソコンとLO品を通信させて、コマンドを打つも、端子台に当てたテスターの針が動くことはない。

(そもそも、なんで僕がこんなことやらなきゃいけないんだろ?)

 LO品の解析は黒岡林の仕事で、彼は定時の五時で帰宅している。なのに、こうして水岡が残業しなければならないなんて。

(くそっ、世の中、絶対間違ってるぜ)

 天井を仰いで嘆いていても現状は好転しないし、そもそも目の前の問題が解決するものでもないので、作業台の上に集中する。

「回路を順番に追っていくか。それしかないな」

 波形を計測できるオシロスコープを準備し、そのプローブが当てやすくなるようにユニットを解体していく。そして、必要最小限の骨組みみたいに、制御基板と主軸基板とトランジスタモジュールだけが残った。

(まだ再現するな)

 通信させてコマンドを打ってもテスターの針は動かない。

(入力側の信号は……あれ? 信号が出てない。プラス側のときは、ちゃんと出てるけど、マイナス側になると信号が出ないな。基板の問題かな?)

 信号は制御基板から出ているので、制御基板を解析用基板と変えてみる。

(……変化なし、か)

 次はトランジスタモジュールにつなげている主軸基板を変えてみる。

(……変化なし、と)

 現在、作業台には制御基板と主軸基板とトランジスタモジュールが組み合わさった状態で解析をしている。その状態でも不具合は再現していて、制御基板と主軸基板を交換しても復旧することはなかった。

 三分の二を外した以上、残ったのは、

(モジュールか)

 消去法でトランジスタモジュールが原因ということになる。

(にしても、ベースに入る信号が出てないのに、なんでモジュールが悪いんだろう?)

 トランジスタモジュールは信号の受け手のはずなのに、なぜこれが悪いのか?

 信号を波形で確認できるオシロスコープで各信号を調べていく。水岡の経験上、正常なプラス側の回路と異常なマイナス側の回路を比較すればヒントや答えが得られることは分かっていた。

(……おっ、なんか、マイナス側のコマンドを打つと、プラス側の入力信号まで出なくなる。へー)

 プラス側のコマンドでは正常に信号が出ているのに、マイナス側のコマンドだとマイナス側もプラス側も入力信号が出なくなっていることに気づく。

(なんか、マイナスの方のコマンドを打つと、回路全体がリセットされているような感じだな……)

 回路が描かれた図面を確認し、トランジスタモジュールの全体像を目にして……ある一点に着目する。

(……ここ、ALMって信号がある)

 入力側に記載されている信号がトランジスタモジュールに入っていくのに対し、『ALM』と記載された信号だけがトランジスタモジュールから出ていた。

(へー、これが制御基板のCPUにつながってるわけか。なるほどなるほど。うわー、怪しいなー)

 プローブを当ててみると、17Vの波形で、正常である。そうやってプローブを当てたまま、

(よし、コマンドを打ってみると……わっ!?)

 コマンドを打ってみると、信号は17Vから一瞬だけ0Vになり、また元通りに17Vになっていた。

(へー……)

 直面した現象に、少しだけ水岡の体温が低下したような気がした。プールに潜ったときみたいに音がぼんやり聞こえるような、何か普段とは違う感覚。新しい発見をすると、水岡にはこの緊張にも似た感覚が得られることが多かった。

(状況からすると、このALM信号が一瞬だけ0Vになって……ああ、これでCPUにリセットの指示を出してるんだ! なるほどね、だから回路全体がリセットされた初期状態になっちゃってるんだ。へー)

 目の前の現象を独自で解釈すると、水岡の口角は自然と上がっていく。

(あっ!)

 得られた知識と状態が交差する。

(『ALM』って、『アラーム』ってことか。なるほどなるほど。よし、点と点がつながったな)

 双眸は輝いていた、夏休みの雑木林で甲虫を捕まえた男の子のように。LO品の解析をしていると、たまにこういう嬉しい発見がある。

(じゃあ、モジュールが原因ってことで、これはメーカーに解析依頼をしよう。この部品のメーカーは確か……ああ、HU電機だな)

 通常であれば原因であるトランジスタモジュールを交換すれば一件落着になるが、今回はそういうわけにはいかない。

(ああっ! そういえば、黒岡林君が同じエラーがまだ現場に三台置いてあるって言ってたな。くそ、急いで調べるか)

 同じエラーが二台以上ある場合、急いで原因を突き止めなければならない。状況によっては関係部署に連絡し、これからの対応を協議しなければならないことがあるからである。それもすべては原因を突き止めないとはじまらないこと。

 水岡は自分が調査したLO品を作業現場で組立てて再試験してもらうため、ネジを外してばらばらになった部品をそのまま台車で運び、現場の返却場所に『再組立』という表示を置いておく。その足で近くの台に置かれていた残り三台のLO品を回収して、解析エリアへと戻っていく。

(全部同じ原因だと解析は簡単でいいけど、その後の対応が面倒だからな。同じであってほしいような、違っていてほしいような……)

 なんとも複雑な心境だった。

 そしてまた、解析をはじめる。


 残り三台の解析結果は、水岡の事前予測としては同じものになるはずだったが、全部ばらばらだった。

 二台目は、トランジスタモジュールが正常に動作したので異常なし。現場に再試験を依頼する。

 三台目は、一台目と同様な現象で、トランジスタモジュールの不良。部品交換をして、これもメーカーに解析依頼する。

 四台目は、少し厄介なこととなった。途中まで異常が再現していたのに、途中で再現しなくなったのである。原因をはっきり突き止めることができなかったが、念のためにトランジスタモジュールを交換して、再試験を依頼した。そして部品は、こちらも念のためにメーカーに解析依頼することとなる。

 この『異常なし』と『異常あり』と『異常ありからなしに変わる』という三パターンの現象が、来週以降の水岡を大きく苦しめることとなるのである。


       ※


 六月十日、金曜日。

 ここのところ小雨の日が多い印象がある六月の十日。あと二十日で今年も半年が過ぎることとなる。

 そんな今日、水岡たちが働く八百竜エレクトリック株式会社ではボーナスが支給されためでたい日。昨今の不安定な世界情勢により、昨年の売上は過去最高を記録しており、明細には成績に応じた通常額に加え、特別加算金が追加されていた。金の使いどころを画策する嬉しい一日である。

 そんな社員の懐が温かく、隠しようのない笑みが貼りついた金曜日の夜七時、会社近くの居酒屋『鶏ケイ様』には、仕事終わりでワイシャツ姿の水岡が、テーブル席の右横にいる人物に視線を向けて笑みを浮かべていた。

「にしてもさ、傑作だったよね。僕たちの研修の、あれってまだ四月じゃなかったっけ? 体育館でやったリレーは、今でも思い出してもおかしいよな。だってさ、転ぶだけじゃなくて、見事に転がってくんだからさ。あいつ、名前って、えーと……」

いのがしらくんだよ。うん、凄く懐かしいねー。リレーで転んで、怪我したっていうか骨折しちゃって、それからまともに研修受けられなくなってたからね」

 入社一年目だった七年前のことを懐かしく語るのは、製造部門の羽咲早織。背中までの髪を後ろで縛っており、黄色い半袖のワンピース姿。オレンジ色のカシスオレンジが入ったグラスを口につける。

「猪頭くん、夏ぐらいからこなくなっちゃって、結局年末には辞めちゃったんだよね。あんなタイミングで辞めなくてもよかったのに。だって、まだ就職して一つの仕事もしてなかったんだから。せめてどこかに配属して、そこの仕事をして、その内容で決めてもよかったと思うんだけどなー」

「確かにあの頃は仮配属もまだだったからな、仕事なんて何一つもやってないことになるな。仮配属されるまでの研修なんてさ、学校の延長線上みたいなもんだったからなー。座学だったり、工場見学だったり、グラウンドでサッカーだったり、体育館でバレーボールだったり」

「で、準備体操してからリレーやったら、すぐ転んじゃって骨折したんだよね、猪頭くん。カーブのとこで転んで、そのままごろごろごろごろーって壁に激突して、もう一人じゃ立てなかったからね。みんな、心配する気持ちの半面、ちょっと戸惑ってたよね。その日はそれで体育館の研修が中止になっちゃって。それはちょっとラッキーだったような……ううん、猪頭くんの名誉の負傷をそんな風に言っちゃいけないね」

「あいつ、猪頭っていうぐらいだから、猪突猛進で真っ直ぐは結構速かったのに、きっとカーブは苦手だったんだろうな」

「おおぉ! さすがしのぶくんだね、とんでもなくおもしろいギャグだよー。いやー、さすがとしか言いようがない仕上がりだ。おもしろいおもしろい」

「……いや、だったら笑えよ。なんで僕が冗談言ったときだけ、急に真顔になるんだよ、お前」

 少し口をへの字にしながらも、水岡はテーブルにあるサーモンの刺身を口にして、ビールの入ったジョッキを仰いだ。

「振り返ってみれば、あっという間に七年だな。早いもんだ。つい昨日のことのように思えるよ」

「そうだねー。しのぶくんなんて、来月いよいよ三十歳でしょ。どっぷりおじさんだね。おめでとー」

「おかしいよな、いつから誕生日があんまり嬉しくなくなったんだろう? 誕生日っていうか、年を取るのがだけど。誕生日ケーキはいつだっておいしいはずなのに」

「学校通ってるときは『早く大人になりたい』って思ってたのに、気がついたら『もう年取りたくない』なんて反対のことを願うようになっちゃうんだよねー。うん、不思議な感じがする。あのね、この前気がついてぎょっとしたことがあるの」

「何だよ、ぎょっとって?」

「わたし、『二十年前』っていったらね、『そんなのまだ生まれてませんよー』って当たり前のように言ったはずなの。なのに、考えてみると、もう生まれてるし、ちゃんと物心もついてるんだよね。おかしくない?」

「ああ、そうだな。似たような感じでさ、小さい頃に読んでた漫画の高校生が、今でも年上に感じるよな。なんでだろ、とっくに年上になってるのに?」

「それあるねー」

 羽咲はグラス半分になったらカシスオレンジを三分の二まで喉に通していく。ほとんど化粧気のない顔はほんとり赤かった。後ろで縛った髪が小さく揺れる。

「そうそう、聞いてよ聞いてよ、この前ね、おもしろいことがあったの。あれはもう不思議っていうか、人類最大にして最高の謎っていうか。ふふーん、この謎、しのぶくんに解けるかな?」

「うん、そんなテレビの司会者みたいな言い回ししなくてもいいから。で、どんな謎なわけ?」

「お休みの日にね、スーパーに買い物にいったの。一通り籠に入れて会計するためにレジんとこに並んでたら、すぐ前に小さな女の子がいたの。うーん、見た目は小学校一年生ぐらいだったと思うけど」

「スーパーで買い物って、夕食の買い出しでもしてたわけ? あれ、羽咲さんって自炊してったっけ? だとしたら、凄いね」

「尊敬した?」

「してる」

「えっへん。もっと褒めてくれてもいいよ。よかったら、今度パスタ作ってあげなくもないよ」

「ああ、ちょっとした質問なんだけど、なんで女の子なんてパスタばっかり買おうとするの? あれが料理するにはお手軽で、かつ、お洒落っぽいと思ってるから、とか? だったら、安易だよねー」

「……しのぶくん、まだ話の途中だし、意味なく質問多いし、買ったものは関係ないし。ちゃんとわたしの話を聞きなさいよ」

 羽咲は小さく咳払い。

「女の子がレジの列に並んでたの。それでね、財布を両手で、こう、胸の前で持ってるわけ。ねっ、謎でしょ?」

「どこがぁ!? ただ女の子がレジに並んでるだけじゃん」

「もー、しのぶくんはイマジネーションとわたしに対するやさしさが足りないなー。そんなんじゃ今回のボーナスはすべて競馬の三連単で負けることになるよ。気をつけて」

「変な忠告されたけど、羽咲さんへのやさしさはともかく、僕、一度も競馬したことないからね」

「わたしへのやさしさを『ともかく』なんかで扱わないの」

 羽咲の頬が一瞬だけ膨らんだ。

「いい、しのぶくんに気がついてほしかったのは、女の子が両手で財布を持ってるってこと。それが何を意味しているかというと、その手にはそれ以外に何も持ってないってことなんだよ。つまり、商品持たずにレジに並んでるわけさ。それもわたしのすぐ前で。ねっ、不思議でしょ?」

「まあ、不思議といえばだけど……」

 水岡は視線をやや上向きにして、首を僅かに傾ける。自然と思い当たることが一つあった。

「どうせその女の子、親と一緒だったんじゃないの?」

「ぶっぶっぶっぶーっ!」

 両腕をクロスさせる。

「確かにお母さんらしき人が女の子の前に並んでたけど、でも、親子じゃなかったの。だって、その人が会計済ませていっちゃっても、女の子はついていかなかったから。つまり、女の子は商品を持たないでスーパーのレジに並んでたわけ。ねっ、不思議でしょ?」

「そうだね、それはちょっと不思議だね」

 水岡は視線を宙に向けるが……思い当たるものはなかった。

「……で、その女の子、どうしたの?」

「知りたい? どうしても知りたい? もー、しょうがないなー、どうしても知りたかったら、『かわいいかわいい早織ちゃん、お願いですから教えてください、にゃん』って頼んでみて」

「……いや、しないよ。絶対しないよ。はい、そこ、猫が顔洗ってるポーズしない。なんでそっちが猫やってるの?」

「にゃあ!」

「うん、ちょっとかわいいのが癪だぜ。でも、そんなのレジに並んでる謎の女の子と羽咲猫は関係ないから」

「ぶっぶっぶっぶーっ! しのぶくん、ぶぶぶのぶーっ! 猫ちゃんはなんとびっくりの大、大、大、大ヒントでしたー」

「関係あんのぉ!?」

「にゃあ!」

 顔の横、両手が猫の手。二十五歳のアルコールが入った女性。

「でねでね、その女の子、なんだかね、ちょっと悲しそうにしてるの。ずっと俯いてて、今にも泣きそうな感じなの」

「スーパーのレジ前で泣きそうな顔って……くそっ、絶妙に興味そそってきやがるな。レジで商品持ってなくて、猫が大ヒントで、泣きそうでって」

「でねでねでねでね、レジがいよいよ女の子の番になったわけ。『これからどうなっちゃうのかなー』って、もう後ろにいるわたしなんかどきどきだよねー」

 いったい女の子は、スーパーのレジで商品を持たずに何をするのか? それが次の瞬間に明らかになる。

「びっくりしちゃったんだけど、その子ね、レジのおばちゃんに向かってこう言ったの。『ねこにゃんチョコください』って」

 ねこにゃんチョコは、スーパーやコンビニで売られている人気のお菓子である。薄いクラッカーにチョコレートが入っており、いろんな猫の形をしている。一箱に何種類も入っているからたくさんのかわいらしい猫に巡り合うことができ、もちろん見た目だけでなく味もおいしく、香ばしいクラッカーと甘さ控えめのチョコレートの愛称は抜群だった。子供から大人まで愛される定番のお菓子である。

「こっちはさ、そりゃもう驚いちゃったよねー。だってだって、『駄菓子屋さんじゃないんだから、ねこにゃんチョコはお菓子売り場から持ってこないといけないんだよー』って女の子に突っ込んでたもん。あ、もちろん今のは口に出してないよ。けどけど、もしかしたら、口から出てたかもしれないなー」

「ああ、なるほど、小さい女の子だったから、スーパーのシステムがよく分からなかったんだな。とにかくねこにゃんチョコを買いたい一心で、勇気を出してスーパーにいったに違いない。そうか、一人でいったってことは、きっとお母さんが入院してて、お母さんのためにおいしいねこにゃんチョコを買って、病院で一緒に食べようとした健気な女の子だったんだね」

 水岡は『得心いった』とばかり、満足そうに何度も頷いている。

「うんうん、泣かす話じゃないのー」

「へー、しのぶくんって、その女の子のことに詳しいんだねー。さすがはしのぶく……いやいやいやいや! それ、全然違うからね。っていうのか、さっきから何言ってるの、しのぶくん?」

「……あのさ、僕の妄想で生きる親孝行のやさしい女の子のこと、ばっさりと否定しないでくれる? あの子は今も家で家事をこなしながら、母親が退院してくるのを待ってるんだから。頑張れ、女の子!」

「だから、違うって。そんなんじゃないし、そもそもお母さんは入院なんかしてないから……っていうのは確認できてないから、知らないけど……とにかく!」

 一呼吸。

「変な方向にずれちゃったから、修正するね。えーと……女の子がレジのおばちゃんに言ったらね、またびっくりすることが起きたの! だって、レジのおばちゃんがね、『ああ、はいはい、ねこにゃんチョコね』って、その場にしゃがみ込んだの」

「レジでしゃがみ込むことなんかあるの? ないでしょ」

「レジでしゃがみ込んだの。で、立ち上がったおばちゃんの手には、なんとねこにゃんチョコが握られていたのだ!」

「どういうこと? ねこちゃんチョコをレジの下から出したってこと?」

「そのままごく自然に会計を済ませてたね」

「なんでさぁ!?」

 水岡の目が巨大化する。

「なんでそこにあるわけ? ってより、なんでねこにゃんチョコがそこにあること知ってるわけ?」

「ねっ、不思議でしょー。にゃんにゃん」

 右頬に猫の手。

「この謎、君に解けるかにゃん?」

「なるほど、お母さん思いの女の子はそこにお菓子があったことを知ってた謎を解くわけか。難しいな」

「うん、『お母さん思い』はしのぶくんの妄想でしかないからね」

「レジに表示みたいなのはあったとか、ねこにゃんチョコの?」

「なかったよ」

「じゃあ、あれかな? そうだ、あれしかない。もうあれだよ、これは」

 水岡に思い当たったものは、過去の経験則からくるもの。

「僕が小学生の頃、とんでもなく人気のチョコがあったんだよね。で、あまりにも人気なものだから店側としてはお菓子売り場に置かないで、レジで管理してたんだ。一人二個までって」

 当時の人気はチョコというより、おまけのシールであったが。

「ずばり、超絶大人気のねこにゃんチョコが品切れ状態で、店側としては一人でも多くのお客さんに提供するために、レジ管理をしていたから。どう?」

「……あのね、しのぶくん。ねこにゃんチョコは人気のお菓子かもしれないけど、そんな品切れになるほどの爆発的な人気があるなんて、聞いたことある?」

 もう何十年も売られている有名なお菓子、ねこにゃんチョコ。羽咲には一過性の人気商品という印象は薄く、『これぞ定番』という位置づけである。

「そこまでの人気なら、わたし、毎週スーパーいってるから、どっかで耳にしてると思うけど……」

「なるほどね。羽咲さん、それはごもっともな指摘だよ」

 水岡もそんな噂を聞いたことはないし、水岡の認識としても羽咲と同じ定番的なお菓子だった。

「でもな、レジで売ってるっていったら、『お客様、買い忘れはありませんか?』みたいな商品だと思うけど……あ、でも、レジの下に隠してあるから違うな。うーん……」

 水岡は少し口を尖らせて腕組みをするが……さっぱり思い当たるものはなかった。その内側では大きな白旗が大きく靡いている。

「分かんないなー……ねぇ、今のレジの話、どう思う?」

 水岡には他にアイデアがなく、横で満面の笑みを浮かべる羽咲に降参する前に、正面に座っている人物に水を向けた。

「黒岡林君はさ、どうして女の子がレジの人にねこにゃんチョコを頼んだんだと思う?」

「……はぁ!?」

 高音となる黒岡林君の声は、とても信じられないものを目の当たりにしたようであり、激怒しているようであり、果てしなく呆れているようでもある。着ている白いTシャツの上には、すでに真っ赤になった顔で、半分ほど残っていたレモンサワーを一気に飲み干すと、乱暴にテーブに叩きつけた。

「ふざっけんじゃねーよぉ!」

 ここまで摂取してきたアルコールが黒岡林のすべてを支配しては狂わすように、放つ言葉には爆発する感情をそのままに大きな棘が含まれていた。

「お前らさ、さっきからいい加減にしろよぉ! そうやってずっといちゃいちゃいちゃいちゃ、見せつけやがってよぉ!」

「あれ、黒岡林君が、怒ってる……?」

「だいたい! お前さ、なんで羽ちゃんの隣に座ってんだぁ!? ああぁん!? 今日はぼくの奢りなんだから、その辺は空気読めってんだぁ!」

「あ、いやー、羽咲さんが僕の隣に座っただけで、僕が選んだわけじゃ……」

「うっせぇ! 黙れぇ!」

 言い放つと、黒岡林は黒縁眼鏡のフレームを上げてから、勢いよく立ち上がった。横の椅子に置いていたリュックを勢いよく手にすると、テーブルに腰を一度ぶつけながらも席を外れる。

「死ねぇ!」

「…………」

 肩を大きく揺らして通路を出口に向かって歩いていく黒岡林、その背中をその場で座ったまま見送るしかない水岡は、瞼が何度も激しく上下運動している感覚に、苦笑いが込み上げてきた。

「……これがデジャブってやつか。先月とまったく同じ光景だぜ」

「へー、前にもこんなことがあったんだね。それはそれはお愁傷様」

「おかしいな? 最初の頃は『羽ちゃんと一緒にいれて幸せっすよ』って口調でご機嫌だったのに、急に豹変しっちゃって」

「ばやしくん、出口の傘立てに見向きもしないで出ていっちゃったけど、傘なくても平気かな?」

「まだ雨は降ってるだろうけど、あんな勢いで出ていったからには、もう気まずくて戻ってこれないだろうね。でも、駅が近いから、平気じゃない。ああ、ちょっと濡れた方が頭が冷えていいかもしれないし」

 水岡は口を窄めて長く息を吐く。激昂した黒岡林の退場によってこの場には残された課題があり、今はそれをはっきりさせなければならない。

「ということで、羽咲さん、かわいいかわいい羽咲さん、今日は割り勘ということでよろしいでしょうか?」

「後半部分に意義あり。今日は払う気なんてさらさらない」

「僕も黒岡林君の奢りだからきたんであって、しかも今日はおまけだったはずなのに……この前といい、あいつ、わざとああやって食い逃げしてやがるんじゃないだろうな」

 テーブル席で、隣り合う二人が取り残されたことになる。暫く沈黙が訪れることとなるが……水岡はメニューを取出した。

「羽咲さん、パフェ好きだっけ? 最後に注文しない?」

「ご馳走になります」

「それでいいよ、もう」

 水岡はタブレット端末を操作して、ストロベリーとチョコレートの二種類を注文した。

 そして話題変更。

「にしてもさ、驚いたよね。いきなり宇之松班長が異動になっちゃうなんて」

「しょうがないと思うよ。ああいう人は、遅かれ早かれこういう日がやって来るんだよ」

「課も違うから、あんまり詳しく聞いてないけど、そっちは朝礼とかでなんか説明あったの?」

「パワハラだってー」

 羽咲は、後ろで縛った髪を小さく揺らし、少し視線を上げて右手の人差し指を口元に置く。

「一か月ぐらいで辞めちゃった派遣社員の人がいたんだけど、どうもその人が関係しているみたい」

「どういうこと?」

「先月の、ハーネスに異物がついてるって不良で、在庫から取出す際の持ち方が悪いって件あったでしょ? 確かしのぶくんが指摘したやつ」

 品管部門で解析をして、製造部門にフィードバックした案件である。

「派遣社員の人もその作業をしてて、そのメンバー全員が宇之松班長に怒鳴られたわけ。あの人瞬間湯沸かし器だから、時間や場所なんて関係なくて、みんなの前で怒鳴りつけてたの。そんな様子、わたしたちからすればいつものことだったんだけど、やっぱり働いて一か月ぐらいの人には刺激が大きかったみたいなのよね」

「確かに、黒岡林君も最初に怒鳴られたときはびびってたなー」

「その派遣社員の人がね、辞めるってときに、派遣会社じゃなくてうちの人事に直接連絡したらしいの。ほら、ハラスメントなんかを相談するホットラインのポスターが貼ってるじゃん、休憩室の掲示板に。それでもう辞めるからって宇之松班長のあることないことを人事に言ったみたい」

 その結果、宇之松班長はハラスメントの認定を受け、異動となった。

「来週の水曜日までが自宅謹慎で、三か月間は給与の五パーセントカット、一階級の降格で、確か謹慎明けからは東E工場勤務になるみたいだよ」

「そっか、もうあの『馬鹿野郎おぉ!』が聞けなくなるのか。寂しいねー」

「しのぶくん、その感覚、完全に麻痺してるからね。そんなこと言っちゃ駄目だし、見て見ぬ振りも駄目」

「うわ、慣れって恐ろしいね」

 水岡は自身の感覚が鈍っていたことに驚いた。『馬鹿野郎おぉ!』なんて、いいわけがない。

「次の班長は決まってるの?」

「ううん、まだみたい。暫くは係長が兼務するらしいよ」

「きっと今回のことで係長や課長だって、処分が下るんでしょ? 大変だねー」

「しのぶくんも他人事じゃないからね。気をつけないと、いつ似たような目に遭うか分からないんだから」

「僕が?」

 きょとん。すぐに手を大きく横に振る。

「ないない。僕は平気だよ。『仏の水岡』って自覚してるから」

「自覚はともかくとして、その『仏の水岡』に、さっき、ばやしくんが怒って帰っちゃったんじゃなかったっけ?」

「あっ……」

 一寸先は闇であろう。

「羽咲さん、もしものときは、ちゃんと味方になってくれるでしょ? 同期なんだし」

「わたしはわたしのプライドを持って、厄介事には無干渉を貫きます」

「冷たいよねー」

 そのタイミングでさきほど注文したパフェが届いた。とある事情でテーブル席に横並びで座っていた二人に驚いた様子の女性店員だったが、一瞬で笑顔を取り戻し、羽咲の前にストロベリーを、水岡の前にチョコレートを置く。

 女性店員を見送った水岡は、柄の長いスプーンを手にして、パフェのアイスにかかったチョコレートを掬おうとして……手が止まった。

「そういえば、黒岡林君が出ていっちゃったから、有耶無耶になってたけど、さっきの話、結局どうなったの? どうして女の子はレジにねこにゃんチョコがあるって知ってたんだった?」

「あれ、ギブアップしちゃうんだー。もー、しょうがないなー、来週もパフェ連れていってくれるんだったら、教えてあげる確率もぐっと上がるかもしれないよー」

「いや、そうまでしては……」

「そこは全力で願って! 欲して! 求めなさい!」

 羽咲の猫パンチは、水岡の左肩に三発ヒットした。

「にゃあ!」


       ※


 六月十三日、月曜日。

 朝八時三十分のチャイムが鳴った。始業時間である。FWB部品質管理課インライン係の係長、内川達也は、額の汗をハンカチで拭いながら今朝の伝達事項を述べていき、最後に全員の顔を見渡す。

「じゃあ、みなさんの方から何かありませんか?」

「あ、すみません、係長。黒岡林君がまだみたいなんですけど……」

 係長を入れて係員は七名だが、事務所には六人しかいなかった。

「今日は休みですか?」

「えーと……連絡はもらってないですね」

『誰か知ってる人はいませんか?』といった感じで内川係長は係員を見渡すが、どこからも声が上がることはなかった。

「分かりました、これから連絡してみます。他になければ、これで朝礼を終わります。今日も一日、怪我のないようにお願いします」

 内川係長がもう一度ハンカチで額の汗を拭い、席にある電話の受話器を上げる。パソコン画面に出した名簿を見ながらボタンをプッシュしていき……十コールするも、つながることはなかった。受話器を一旦戻して、もう一度ボタンをプッシュしていき……二十コールしてもつながることはなかった。

「これは、困りましたね……」

 その呟きは小さいながらも、事務所内の隅々にまで響き渡っていった。


 午前十時。

(嘘ぉ!?)

 パソコンの画面を見ていた水岡の双眸が巨大化する。目の当たりにした事実がとても信じられなくて。

(良品判定ぃ!?)

 先週の月曜日にトランジスタモジュールの不良が三台あり、製造元のHU電機に解析依頼していた。通常なら二週間を目安に報告書を依頼するのだが、三台出ていたということで急ぎの依頼をして、一週間後の今日、報告書が届くように手配していたのだが……その結果は『異常なし』というもの。とても納得いくものではない。

(えーと、ALM信号は出力されることはなく、トランジスタをONさせたときも、ちゃんと15Vが出ていたわけか。おかしいな、マイナス側をONさせたら一瞬0Vになったんだけどな……)

 これは水岡にとって困った状況である。なぜなら、あれからまた同じ内容のエラーが四台も発生しているから。それもトランジスタモジュールを交換すればよくなるものばかり。先に依頼していた報告書次第で、メーカーに追加の解析依頼をする予定だったのだが……まさか、メーカーが良品判定を下すだなんて。

(メーカーは良品でもこっちの出荷検査では実際NGになってるし、僕の解析でもALM信号が出てたから、絶対悪いはずなんだけどな……ってことは、設計上の問題かな? 使い方が悪くて、変な信号が出るなんて、考えられなくもないな……)

 とても困った。解析はまた一からやり直しである。

(あんまりいい加減なこともできないから、もうちょっと調べてみるか。でも、どうしようかなー……雰囲気だけど、まだまだ同じエラーが出そうだから、緊急事態ってことで、フィールド部門の設備借りてみようかな?)

 まだメーカーに解析依頼したトランジスタモジュール三台は戻ってきていないが、手元には追加の四台がある。それをフィールド部門の設備で本当に悪いかどうかを調べようと考え、アクションを起こすために席を立ったところ、『あ、ちょっと、水岡さん』と奥の席にいる内川係長に呼ばれた。

 水岡は、今回のトランジスタの件をどのように報告しようかと逡巡しながら内川係長の元へ。

「はい、どうかされましたか?」

「今ですが、ようやく黒岡林さんと連絡がつながりましたよ。なんでも、今起きたそうです」

「今起きたぁ!?」

「朝は体調が悪くて私からの電話を取れなかったそうです。ということでして、本日は体調不良で休暇となりました。黒岡林さんの仕事、フォローをお願いします」

「仕事のことはいいですけど……にしても凄いですね、係長からの安否確認の連絡で起きるなんて」

「こんなこと私もはじめてですよ。あっはっは」

「体調が悪くて電話に出れないって、どんな状況なんだよ?」

 水岡の脳裏に、顔を真っ赤にして怒って帰った先週の飲み会が過るのだが……そんなことはどうでもいい。

「あの、僕からも相談したいことがあるんですけど、いいですか?」

 ようやく安否確認のできた黒岡林のことは一切忘れ、トランジスタモジュールの件を頭で整理しながら、口を動かしていく。

「先週のモジュール不良の件ですが、なぜかメーカーに良品判定されてしまいました。あれから四件追加になってるから、急いで原因を突き止めないといけないので、フィールドに設備借りて調べたいんですけど、先方に連絡いただけるでしょうか? できれば今からがいいです」

「それは非常にまずいですね。先週から合計で七台でしたね? もちろん急いだ方がいいでしょうから、今から連絡しておきますので、対応お願いします。関係部署にも連絡したいので、できれば今日中に結果を報告してください。ああ、詳しくなくても途中経過でも構いませんから」

「はい、承知しました。よろしくお願いします」

 水岡は事務所を離れて、問題のトランジスタモジュールを保管している解析エリアへと向かっていく。

(…………)

 その胸は、胸騒ぎのような妙な感覚を得ていた。


       ※


 午後五時三十分。

「…………」

 水岡は問題のあるトランジスタモジュールをフィールド部門に持ち込んで調べてみたのだが、やはりここでも異常なものであることは確認ができた。ただし、通電している最中に異常がなくなるものもあり、設備を借りてもはっきりとした原因を突き止めることはできなかったのである。

 そして今、こうして頭を抱える苦悩の残業時間を迎えていた。

(まあ、でも、やっぱり悪いみたいだな、悪いのはALM信号が出るもんな。出なくなるのがあるところが厄介だけど……)

 結局のところ『トランジスタをONするとALM信号が出力される』という前回と同じことしか判明しなかった。この状態で部品メーカーに解析依頼しても、きっと変わらず良品判定される確率が非常に高い。なんとしても前回とは違う指摘箇所を見つけなければならない。

(こっちのやつは、通電中にALM信号が出なくなったんだよな。なんでだろ?)

 ユニットに組み込んだトランジスタモジュールのALM信号が出るピンにテスターを当てて電圧を計測すると、17Vが計測できる。その状態でトランジスタをONさせても0Vに落ちることはなく、17Vのままだった。それは何度コマンドを打っても変わることはない。

(僕にはまだ分かっていないような、盲点みたいなものがあるのかな? うーん……)

 現物や図面と睨めっこをするが、これといって思いつくものはなかった。

 息を吐き、疲れた目に僅かに瞼を被せて、一度天井を仰ぐ。天井に組み込まれた照明が、一瞬だけちかっと点滅したような気がした。

(不具合が再現するものが再現しなくなるってことは、際どい何かが起きてるってことなんだろうけど……)

 一回目は確かにALM信号が出た。ただ、二回目にコマンドを打ったらそれ以降はALM信号が出なくなった。たった一回しか再現できない状態は、やはり何か不安定な事象がどこかにあるのだろう。

(一回目だけ再現、二回目以降は変化する……あっ、そういやー、この前羽咲さんが言ってたねこちゃんチョコ、二回目が正解だったなー)

 ふと先週の飲み会で黒岡林が激怒して出ていったあとのことを思い出し、なぜだか頬が緩む。

(あれ、謎っていえば謎なんだろうけどさ、レジに並ぶのが二回目だったなんて、そんなの分かるかよ……)

 女の子はレジに並ぶのが二回目だった。だから、レジの下にねこちゃんチョコがあるのを知っていた。二回目ではそれを指定して、購入することができた。それは、一回目があったから。では、一回目にいったい何があったのか?

 一回目に女の子はお菓子を二個持ってレジに並んだところ、お金が足りなくてレジを通ることができなかった。当時の所持金ではお菓子を一個しか購入することができず、レジの人は『どっちか一つしか買えないから、買いたい方が決まったらまた並んでね』と伝えて、レジの下に二つのお菓子を置いたのである。女の子はレジを離れ、買う方を決めてもう一度レジに並ぶ。最初にお金が足りなかったことはちょっと残念で、レジの人に迷惑をかけたことがちょっと怒られたような気持ちになって悲しく、両手で持った財布を胸に当てながら、二回目にねこにゃんチョコを選んだのだった。

(さすが羽咲さんだ、その状況をわざわざレジの人に訊いたんだからな。僕なら気にせずずっと謎のままだっただろうから……って、いかんいかん)

 先週のことを懐かしがっている場合ではない。水岡は小さく首を振る。目の前のことに集中しないと。

(とにかく、次はなんとしてもメーカーに不具合を認めてもらわないといけないから、なんとかしないと。一回目はうまくいかなくても二回目にはねこちゃんチョコを買うことができるんだから)

 水岡はパソコンの画面を見つめる。

(これまでにない、何か、こう、違う糸口があるはずだ)

 もう一度メーカーから送られてきた報告書に目を通していく。水岡は今まで自分が解析してきたデータを頭に流しながら、目を皿のようにして文字を追っていって……集中力は水岡の体温を低下させた。意識が研ぎ澄まされていくとだいたいいつもこの状態となり、脇の下に冷たい汗が流れていく。もしかしたら、スポーツ選手でいうところの『ゾーン』と同様のものなのかもしれない。

(っ!)

 刹那、報告書のとある数字に目が止まっていた。

「……15V、だ」

 それは誰に聞かせるものでない、思わず口から漏れた呟き。

 画面に映し出されている報告書、そこに記載されているALM信号の電圧が『15V』となっている。

(違いっていったら、これぐらいしかないな)

 水岡が確認したユニットでは、ALM信号の電圧は17Vだった。けれど、メーカーからの報告書には15Vと記載されている。きっとメーカーでは15Vで検査しているのだろう。

 水岡は、この僅かな電圧の違いこそが、不具合を再現させるかさせないかの違いではないかと推測した。

(そうか、微妙な電圧の違いで、再現していたものが再現しなくなるんだ。メーカーでは15Vで調査してるから、再現しない。けど、ここでは17Vになってるから、再現することもあれば、再現しなくなることもある。それぐらい、微妙な電圧の揺らぎでおかしなことになってるんだな)

 僅か2Vの差、それだけでALM信号が変わってくる。これが今回出した水岡の足がかりだった。

(だったら、メーカーに20Vぐらいまで電圧を上げて調べてもらえば、確実にALM信号が出力されるようになるんじゃないかな? よし、これだ)

 閃きは、水岡の気持ちを高揚させていく。いい兆候であり、これからきっといいことが起きるだろう。

(よーし、調べてもらおう。その前に係長に報告しておかないと)

 解析エリアを後にして、事務所に向かっていく。その足取りはとても軽やかなものだった。


       ※


 水岡はトランジスタモジュールのHU電機に『20Vまで上げての再調査』を依頼した。その三日後、報告書が送付される。内容には『ALM信号の出力を確認』と、メーカーでも不具合を再現させることに成功したのだった。これで正しい方向に改善していくことができるようになる。

 結果として、メーカーの正式な見解まではさらに二週間の時間を要することとなるが……メーカーでの出荷検査において、設備の摩耗により製品が天井部分に接触することがあるという。天井部分はアースとなっているためにそこで僅かな放電が発生し、トランジスタモジュール内の小さなチップ部品を破壊していたのである。

 そもそも、ALM信号は過電流保護の観点で設計されたもので、部品内に余計な電流が流れると出力されるものであり、今回の破壊箇所でも電流が流れればALM信号は出力される設計であった。しかし、破壊箇所があまりに微小だったために、メーカー出荷時の15Vでは異常を検知できずに出荷されていったのである。

 に対して、八百竜エレクトリック株式会社で生産しているFWB制御ユニット、WM-100AAでは17Vが生成されており、僅か2Vの差によって過電流がトランジスタモジュール内に流れてALM信号が出力されたのだった。

 水岡はすぐに製造部門やフィールド部門との連携を図り、製品を出荷停止にすることで流出不良を防止した。また、出荷後の製品を全数回収し、メーカー見解によって判明した不良ロットと思われる部品はすべて交換する対応を取ったのである。合計千二百五十二個の交換には二か月を要すものだった。

 製品の出荷停止から一週間後、メーカーから問題ないとされる部品が届けられたことで生産を再開することとなるが、この間、製造部門は臨時休業として休みとなる事態に陥っていた。その後の挽回にも一か月の時間を必要としたのである。

 ただ、それだけのことを犠牲にしても、不良品と思われる製品を出荷するわけにはいかない。なぜならここで製造しているのは、戦略軍機兵器FWBの制御ユニット。戦場で異常を発生させるにはいかないのだ。自分の行い一つによって、どれだけの犠牲と莫大な賠償金が発生するか……常に緊張感を持って仕事に取り組まなければならない。

 誤爆しても待ったなし、なのだから。

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