第2話 5V出力確認


 5V《ボルト》出力確認



       ※


 四月八日、金曜日。

「それで、どこまで確認できたの?」

「確認ですか……? いえ、確認は、その、全然というか、今ここに持ってきたところですから」

「うーん、そうなんだねー……せめてさ、基本調査をやってから呼ぶ、じゃないかな? 分からないところの質問ってのは」

 昼休みが明けたばかりの午後一時十分。事務所でパソコンの画面をぼんやり目にしていて、少し眠たかったところを元気よく黒縁眼鏡の新人に呼ばれたものだから、『これですっかり目が冴えたという意味ではよかったのかもしれないなー』と置かれている現状を前向きに捉えるしかない。前向きは重要である。

「とにかく、基本調査が先決だし大事なことだから。まずはそれをじっくり自分のものにしないと、次のステップにいけないよ。でも、だからといって焦る必要はないし、時間はかかってもいいから、正しい基本を身に着けよう。いい、黒岡林くろおかばやし君、君はまだ配属されたばかりなんだから、吸収するものはたくさんあるはず。でしょ?」

「はい、分かりました。水岡みずおかさんの言う通り正しい基本を身に着けたいと思います。それで、その……すみません、どうすればいいですか?」

「どうって?」

「えーと……どんなことをするんでしたっけ? その、基本調査っていうのは」

「……一昨日教えたばっかだけど」

 目の前にいる黒縁眼鏡が一週間前に配属されたばかりの新人だから、仕事すべてを一人でこなせないことはともかくとして、二日前に教えた基本を覚えていないことに、腹の中心で黒々とする粒子が無数に飛び交うこととなるのだが……小さく息を吸い込むことで落ち着かせる。ここはじっくりと教え込んで、早く戦力になってもらわなければならない。でないと、現状は二人分の仕事をやる羽目になっているのだから。

 我慢我慢。

「はいはい、忘れちゃったわけね。いいよ、もう一回教えるから、今度こそちゃんと覚えてね」

 強く握られた拳を前に出し、人差し指を伸ばす。

「まず目視で、全体におかしいところがないかをチェックする。怪しいと思ったら、あっちにある顕微鏡を使ってもいいから細かい箇所もしっかり見てね。異常がなければ、テスターチェックで導通不良がないかを確認する。あと、添付されてるエラーメッセージを見て、NGになった試験の検査仕様書を確認してどんな内容でNGになっているのかを確認する。ああ、過去の履歴も調べて、図面を見ながら関係しそうな回路をイメージしておくといい。内容によっては電源を使って通電調査をやってみる」

 グーだった右手の指が一本ずつ立っていき、パーになった。

「まあ、基本調査なんてこの程度のものだから、全然難しくないでしょ? だって一昨日、『それぐらいならできますよ』って言ってたもんね」

「ああ、そうでしたそうでした、そういえばそんなようなことを聞いた気がします。えーと、まずは全体を目視すればいいんでしたね。なるほどなるほど」

 納得したように、こくこくこくっと三度ほど頷く黒縁眼鏡。

「あ、でも、水岡さん、ちょっと心配なんで、今からやる基本調査をそこで見ててもらってもいいですか?」

「へっ……あ、黒岡林君、ちょっと待って」

 言い終わると同時にこちらに背を向けた黒縁眼鏡をすぐ振り向かせる。

「今聞いたこと、メモした方がいいんじゃないかな? ほら、また忘れちゃうといけないから」

「ああ、それは大丈夫ですよ。だって、ぼく、メモって、あんまに得意じゃないんですよね。あははっ。それじゃあ、調査を開始します。えーと、目視をしてからテスターチェックっと、なるほどなるほど」

「……一度忘れておいて、メモ、しないんだ。まあ、前回もそうだったけど……って、メモが得意じゃない?」

 すでに背を向けられていることに、なぜだか眉間に皺が寄る。

(新人だからって、いくらなんでもこれは……いや、まあ、まだ配属されて一週間だし、これぐらいは……うーん、けど、もう一週間なのか、うーん……なるほど、難しいな、新人教育ってのは)

 水岡しのぶ、二十九歳。男性としては瞳が大きく、髪の毛は耳にかかる程度、今は腕組みをしながら小首を傾げている。

(うーん……あ、でも、黒岡林君は普通の新人じゃないしなー。うーん……)

 頭には赤茶色の帽子、同色の上着、ズボンという会社指定の作業着に身を包んでいた。帽子正面と作業着左胸には、『A』の横棒が左右にはみ出し、上下逆さまにしたロゴマークがつけられている。

(そもそも覚えてもらえないのは、教えるこっちが悪いのかもしれないな……と考えなきゃいけないんだろうな、新人を責めるわけにはいかないから。でも、自分が初めて配属された頃は、もうちょっとできた、というか、毎日ノートにメモばかりしていた気がするけどなー。でもでも、結局あのノートを見返すことなんてほとんどなくて、一か月ぐらいですぐやめたから、あんまり役に立たなかったような気もするなー。でもでもでもでも、何回かはやっぱり読み直した気もする。うーん……)

 ここは人口二百万人いるごい市の東区に位置する八百やおりゅうエレクトリック株式会社の敷地内にある西B工場。照明が繰り込まれた天井は四メートルと高く、見渡せばサッカーグラウンドがすっぽりと入る広大な建物である。中央部には多くの巨大な試験設備や工具等が収められた棚があり、工場の半分以上は巨大なパレットに載せられた大量の段ボールやプラスチック製の専用箱にしまわれた部品置き場となっていた。毎日あれら多くの部品が設備近くに設置された作業台で組み立てられて製品となり、機能試験を経て出荷されていくのに、なぜだかスペースに空きができることはないのである。トラックから荷下ろしされた部品を入れることができず、今も工場の外に置かれているのだった。ブルーシートを被せてあるとはいえ、雨が心配なところである。とはいえ、雨に弱い電化部品はすべて工場内に入っており、外にあるのはケースといった構造物ぐらいであるが。

 そんな西B工場内の北東部には、水岡たちFWB部品質管理課インライン係の解析エリアがある。北方の窓には『一人作業禁止!』という少し茶色くなった紙が貼られており、横の柱には百Vと二百V、四百Vの配電盤が設置されていて、それは身長百七十五センチメートルの水岡よりも巨大なものだった。その配電盤から出る多くの太いケーブルは、天井から吊るされたはしご状のケーブルラックに配線されており、多くの設備や作業台に電気を供給していた。

 そんな配電盤からのケーブルによって電気が供給されている一つの作業台、そこでは必要とは思えない水岡の見守りの元、配属されたばかりの新人による製品の解析作業が行われている。

(まあ、少しずつ覚えていってもらうしかないな。うんうん)

 水岡の三度首を縦に揺らして、頭にあったものすべてをなかったものとして、口元を緩めた。

「じゃあさ、僕、事務所に戻るから、何か見つけたり、というか、何かあったら呼んでよ。じゃあ、頑張ってね」

「えっ……? ああ、水岡さん、駄目ですよ、ちょっと待ってください。そんなの駄目です駄目です、一人で作業するの、不安なんですから。ちゃんとそこにいてください。しっかり見ててもらわないと困ります」

「……困ることないでしょ」

「一緒に調査しましょうよー。お願いですから」

「そうなの……」

 必要性はまったく感じないが、水岡は頷いたか頷いていないか際どいぐらい小さく首を動かし、口を尖らせて長く息を吐いていく。

(そう、なのかな……)

 とても納得いくものではないが、一度気持ちを落ち着かせるため、後ろを振り返ってみると……金属製の三段棚が目に映った。普段水岡たちが利用している棚で、解析するのに必要な各種ドライバーやラジオペンチといった工具に、テスターなどの計測類、さまざま部品や製品サンプルが保管されている。棚の上部には『ここに物を置くこと禁止!』と注意を促す表記されていて、ちゃんとその表示以外は何も置かれてはいなかった。

(……昼一でやりたかった資料チェックは、まあ、後回しでいいか)

 再び水岡が視線を前に戻すと……そこにいる同じ赤茶色の作業着に身を包んだ新人がいる。黒岡林守まもる、二十六歳。被っている帽子の下には、丸いヘルメットを彷彿とさせる両耳を覆う髪の毛がある。『なんでヘルメットの上に帽子被ってんの?』『被ってません』『被ってるだろ』というやり取りが行われているの、この工場でたまに見かけることがある。きっと秋の避難訓練では、『ヘルメット二重で被って、そんなに自分だけ生きたいのかよ?』と言われることだろう。かけている大きく四角い黒縁眼鏡が特徴的で、身長は百六十センチメートルと小柄だった。

 この黒岡林、社内としては少し歪な存在である。なぜなら新卒二年目なのにもかかわらず、年齢は二十六歳。その理由は大学四年生のときに就職活動を一切せず、ずっと所属していたモーターレース部でレースにのめり込み、卒業後も毎日大学に顔を出して後輩たちとレースに熱中して、卒業後の四年間はずっとアルバイトを転々としながらレース資金を集めていたという。遊ぶ時間を優先させて社会に出ることから目を背けた生活に身を置いていたのである。だが、大学を卒業して四年も経つと、部活のメンバーも一新するし、家族からの風当たりも強く、いつまでも遊んでいる場合ではないと、昨年の三月にこの八百竜エレクトリック株式会社の門を叩いていた。本人としては正社員採用なんて甘いことは考えておらず、半年更新の契約社員で応募したのだが、たまたま運よく新卒の枠があまっており、黒岡林は一度も就職したことがないということで、現役から四年遅れの新卒採用、という異例の採用となったのである。

 そして昨年一年間の研修プログラムを経て、先週の四月一日から水岡のいるFWB部品質管理課インライン係のメンバーとなっていた。

(…………)

 黒岡林が作業しているのは横長の大きな作業台で、静電気が帯電しない緑色のマットが敷かれている。マットの上には両腕で抱えないと運べない大きな物体がある。それこそがこの工場で製造されているFWB制御ユニットのWM-100AAだった。縦、横、高さがそれぞれ五百ミリメートルの大きさで、下三分の一の銀色部分は放熱フィン、上の黒部分は製品を覆うケースとなっている。これがこの工場からグループ会社である八百竜重工に出荷され、現在も世界中の戦争で使用される戦略軍機兵器FWB、通称ウォークに内蔵されるのだった。

(うーん……僕、ほんとにこうして見守ってなきゃいけないのかな?)

 小首を傾げる水岡の目の前で、黒岡林はプラスドライバーでねじを七本外し、本体を覆っている黒いケースを取り外した。すると、表面が緑色したプリント基板が姿を現す。プリント基板は電気信号が印刷された板で、多くの電子部品がはんだ付けで実装されていて、敷地内の東B工場で生産されたものだった。そのプリント基板がユニットには五枚も組み合わされている。それぞれ役割によって制御基板、充電基盤、表示基板、主軸基板、サーボ基板と呼ばれていた。

(いや、そんなはずないよな。甘やかすことが指導じゃない)

 水岡は決意するように力強く頷く。

「あのさ、黒岡林君、僕さ、やっぱりちょっと席に戻るから、何か困ったことがあったら呼んでよ。じゃあね」

 相手がこちらを振り返ろうとする動作を横目に、水岡は白線で仕切られた解析エリアから通路に飛び出した。近くの試験設備で稼働している巨大モーターの重低音な駆動音を耳にしながら歩を進めていく。そこに後ろ髪を引かれるような思いは一切ない。

(よしよし、これでいい。これでいいはずだ。うんうん)

 正面から同じ赤茶色の作業着を着た作業者が、ハンドリフトを引いて近づいてくる。巨大な部材を積むパレットを引っ張っており、相手が通路いっぱいなので擦れ違うことができず、通路脇の柱横に避難してやり過ごすのだった。


 十分後。

「……さすがに早くない、呼ぶの?」

 水岡は黒岡林に呼ばれて再び解析エリアに戻ってきた。結局、事務所に戻って資料の二ページ目に目を通すことしかできなかった。

「で、解析は順調なの? って、順調なら呼ぶわけないか」

「言われた通り、基本調査が終わりました。ここから、どうすればいいですか?」

「そんなに早いのぉ!?」

 水岡の目が見開かれる。

「いや、基本調査とはいえ、解析ってもっとじっくりやるもんだよ。いきなり結果なんて求めないで、最初の頃は丁寧さが大事だよ」

 相手の作業スピードがとても信じられず、目を丸くする水岡だが……新人相手に疑いの目を向けるのはよくないと、言葉を引っ込める。『基本調査ってどんなことやったの? さっき教えたこと、ほんとに全部やった? 怪しいな』という懸念は腹で小さく回転していた。

「じゃあ、これから具体的にLO品の調査をやるわけだけど、まず、どんなエラーでNGになったんだった?」

 黒岡林の前にある製品は『ラインアウト品』と呼ばれるもの。出荷試験でOKにならずにNG判定となったもので、製造ラインから外れたもの。『LO品』と略されている。ここでの仕事はそのNGの原因が何であるかを突き止めるものだった。

「ユニットにエラーメッセージが添付されてたと思うけど、どんなだった?」

「えーと……ああ、5V出力エラーと書いてあります」

「『書いてあります』って……それ、今見てない? で、検査仕様書にはどんな風に書いてあった?」

「検査仕様書?」

「……そんな不思議そうな顔されてもなー」

 一瞬、水岡の全身から力が抜けていく。

「あのさ、さっき説明した通り、それを確認してどんな試験でNGになったかを調べるのが基本調査に含まれてるんだよ!」

 さすがに声が大きくなった。しかし、すぐに思い止まり、水岡は気持ちを落ち着かせるように、小さく息を吐く。新人相手に大声はよくない。最近はすぐ辞めていく社員が多いのである。

(いけないいけない。気をつけないと)

 水岡が新人の教育に神経質になっていく……けれど、『あー、そうなんですかー、そんなこともしなきゃいけなかったんですねー』と呑気に歯を出している目の前の顔に、やはりやり切れない思いが強くなる。

 少しだけ、両の拳が強く握られた。

「いい、そのエラーは試験の初期段階で、5Vが正常に生成されているかを計測してるわけさ。じゃあ、まずは制御側に電源を入れてみて。そうして、5Vが出てるかどうか確認するんだよ」

「それは、どうすればいいですか?」

「どうって……確か、一昨日やったよね?」

 通常の製品であれば、24V電源をユニット制御部に挿入し、スイッチをONするだけで生成回路は5Vを出力するようになる。

「覚えてないの?」

「……すみません。どうすればいいですか?」

「同じまた教えなきゃいけないんだ……あー、そうやって君がちっともメモしないからじゃないかなー」

 嘆息。

「そこの棚にある電源を使って、まず5Vが出てるか調べてみて。そうやって出荷試験でNGになった内容が机上でも再現するかを確認する。はい、やってみて」

 指示をして水岡が事務所に戻ろうとすると、『ああ、水岡さん、待ってください。一緒にやりましょうよ。一人だと不安なんです』と眉を寄せて困ったような表情をした黒岡林が、棚の一番下の段にある箱から電源を取り出し、伸びるケーブルとユニット、そして水岡の方をちらちらっ見ながら、恐る恐るユニットを通電している。

 水岡は、準備ができただろう作業台の様子に、仕方なく次の指示を出す。

「じゃあ、図面を見て5Vが計測できそうな箇所にテスター当てて測ってみよう」

「分かりました」

 黒岡林が黄色いカバーのデジタルテスターを手にし、レンジを直流電流に合わせた。プラスの赤プローブとマイナスの白プローブをユニットの制御基板に当てる。

「えーと……」

「どう、ちゃんと出てる?」

「……いえ、うまく値が出ません。あれれ、おかしいな? これってテスターの当て方が悪いのかな?」

 黒岡林は、『あれあれ、おかしいな? あれれれれ?』と後ろにいる水岡に聞こえるように口にしながら、パソコン画面上の図面と製品を見比べ、何度となく5Vを計測しようとしているが、首を傾げる結果にしかならない。

 直後、後ろを振り返る。

「……どうすればいいですか?」

「うん。それ、0Vだから」

 5Vが測定できずに、0Vが確認できた。

「いい、それはそういうNGだから、それでいいんだよ。分かる?」

「どういうことです?」

「それを解析しようってこと。そもそも、ユニットの表示基板にLEDがあるじゃん。電源入れてそれが点灯してない時点で、5Vは出てないんだよね。はい、じゃあ、一旦電源切って」

「水岡さん水岡さん、そうやって分かってるなら、意地悪しないで教えてくれればいいじゃないですか」

「……あのね、LEDのことは前回教えたし、それぐらい分かってると思ったんだよ。そうだ、これ、メモしなくて大丈夫?」

 口を尖らせた黒岡林に、つい水岡の言葉に棘が含む。しかし、気を取り直して次のステップへ。

「じゃあ、出荷検査でNGになった内容が、こうして机上で再現できたわけだ。これからその原因を調べていくわけなんだけど、黒岡林君はどの辺が悪いと思う?」

「……分かりません」

「うん、頼むから、少しは考えてくれ」

「だって、分からないものは分かりません。教えてください」

「あのね……いい、学校の勉強みたいになんでもかんでも与えてもらえると思わないでね」

 吐息。

「きっと勘違いしてると思うだけど、与えられた問題もその解き方も答えも教えてもらえるのは、学校の勉強だけだから。その考え方を変えた方がいいよ」

「そういうもんですか?」

「そういうもんです。一番厄介なのは、問題も解き方も答えも与えるのは学校の勉強だけで、他では役に立たないことを教えない学校なんだよね」

 ぼやいても仕方がないので、水岡は自らの経験則で道標を示していく。

「手順としては、まず切り分けて考えてみることにしよう。今調べようとしている5Vは制御基板で生成されているから、ユニットから制御基板を取り外して、制御基板だけで5Vが出てるかどうかを確認してみよう」

 5Vが出力されていなければ制御基板のどこかが悪い。5Vが出力されていれば制御基板以外が悪い。

「まあ、この場合、大抵は制御基板が悪いと思うよ。で、次は5Vが生成されていないか? もしくは、生成されているのになぜだか5Vが0Vになっているか?」

 生成されていなければ、5V生成回路が悪いことになる。生成されていれば、生成された5Vが接続されている先の回路が悪いことになる。

「そうやって順番に切り分けて考えてみて。よし、頑張ろう。『解析の道は一日にしてならずじゃ』ってね」

 言い残すと、水岡はすぐ背中を向けて足を踏み出した。そうしないと、『不安だから一緒にやりましょうよ』と呼び止められてしまう。

(さー、今度こそ資料確認しないと)

 振り返ることはない、その足は事務所に向けて力強く進んでいく。


       ※


 午後三時十分。

(……うん、おかしいな)

 工場内に前半組の休憩終わりを告げるチャイムが鳴った。勤務時間内で、十時三十分と三時に二回、十分間の休憩が用意されているのである。

 トイレから事務所に戻ってきた水岡は、壁にかけられている丸時計が三時十分を示していることを視認し、首を小さく傾けた。

(あれから、何も言ってこないなー)

 これまで水岡は、自分の席で部品メーカーから送られてきた報告書三件に目を通し、内容の質問や疑問点をまとめていた。特に誰からも話しかけられることなくスムーズに作業を進められたからあっという間に午後三時の休憩となったのである。

 だからこそ、おかしい。あれから一時間半も経過しているなんて。

(遅くとも、三十分もあればできるはずなんだけどな……)

 事務所は七つの席で島を形成している。向き合った席が六つ、離れたところに係長の席が一つ。それぞれ机上には各自のパソコンと茶色い受付箱が設置されており、それ以外に山のように書類が積もった席もあれば、水岡の席みたいに机上には何も置かれていない席もある。小さな扇風機が置かれている席もあれば、小さな人形や子供の写真を飾っている席もあった。

 そんな事務所に、今は水岡が一人だけ。全員作業現場にいっているか、会議室で打合せでもしているか。

(もしかしたら、自分から積極的に解析してくれてるのかもしれないな。だったら、感心感心。よし、少し様子でも見にいってみるか)

 どうしても解析エリアが気になってしまい、水岡は帽子を被って席を立つ。総合複合機のコピー機の横を通って扉を開け、正面にある歪曲した鏡で左右の安全を確認してから通路に出た。保管されているパレットに積まれた大量の部品を右手にして、工場の東方にその足を進めていく。事務所の端には、トイレへとつづく通路があり、多くの人が擦れ違っている状態だった。きっと後半組の休憩時間が影響していることだろう。

 事務所から歩を進めて……三十秒後に解析エリアに到着した。緑色のマットが敷かれたいつもの解析用の作業台にいる黒岡林は、被っていた帽子を横に置き、椅子に座って頬杖をついている。

(あれ……?)

 どう贔屓目に見えても、作業しているようには見えなかった。今は後半組の休憩時間なので、前半組の社員がああして頬杖していていいわけがない。

 思わず水岡の眉間に皺が寄っていた。

「やあ、黒岡林君、調子はどう? もう分かっちゃったとか?」

「へっ……!?」

 かけられた声に、目を白黒とさせる黒岡林。急に声をかけられたことにひどく驚いたみたいに。

「あ、いえ、その……まだ休憩時間ですから、その……」

「……休憩は終わったよね、さっきチャイム鳴ったよ。もしかして聞こえなかったとか?」

「あ、ああ、そうなんですね。えへへっ」

 黒岡林は慌てた感じで手にした帽子を被り、テスターのプローブを掴んだ。その先端を取り外してある制御基板に向けるのだが……刹那、手が止まる。

「水岡さん、これからどうすればいいですか?」

「これからって……どこまでやったの?」

「制御基板が5Vを作ってないことは確認しました」

「それだけ!?」

 自主性が一切なく、きっちり指示したところまでしかやっていない事実に、水岡の期待は一瞬して弾けて消えていった。だが、『そんなもん、三十分もあればやれただろ! ずっとさぼってたんじゃないのか!?』なんてこと、暴言になってしまうのでとても口には出せない。

「じゃあ、図面の最後の方に載ってる生成回路を確認してみて。というのか、ほんとにこうやって言われないとやらないんだね……それで、電源の24Vを入れて5Vを生成する回路はどうなってる」

「あ、はい、こんな感じです」

「画面差されても……」

 図面を出したパソコンの画面を指差している黒岡林に、水岡は小さく吐息。

「どんな部品がどうなってるとか、そういうのを説明してほしい」

「……分かりません」

「早いなー……」

 苦笑。

「まあ、僕も設計じゃないから詳しいことは分からないけど……まあ、ざっくりだけど、電源で入った24Vがトランスを介して降下して、必要な5Vを生成しているわけだよ。で、それらを制御してるのが、そこに描いてあるIC。そこの8ピンのやつね」

 ICとは、それぞれの用途によって設計されている集積回路が集約された電子部品のこと。

「まずそのICすべてのピンの電圧を順番に計っていって、良品基板と比べてごらん。ああ、良品はそこの棚にあるから。ポイントとしては、まず良品から調べた方がいいよ」

「どうしてですか?」

「まず正しい方を知るんだよ。正解を知ることで、NGになってる基板のおかしなところに気づくことができるはずだから」

「はい、分かりました」

「僕の感覚だとね、解析って、間違い探しみたいなもんなんだよね。雑誌とか日曜日の新聞とかにあるでしょ?」

 二つの絵を見比べて違いを見つける間違い探し。

「ああやってOKとNGを見比べることで違いを見つけることができて、そこを取っかかりに原因を突き止めていくの。まあ、これは僕の経験から得られた解析方法だけどね。だから、まずは正しさを知らなきゃいけないんだ」

「いいやつからですね、分かりました」

 黒岡林は、指示された通りに良品基板のIC8ピン分の電圧をテスターで計測し、つづいてNG基板を計測する。そして少し斜め上に視線を向け、小さく眉を寄せて、唇を尖らせては、首を大きく傾ける。

「すみません、全部覚えられません」

「メモしないからー」

 水岡は、行われていた黒岡林の作業を目の当たりにしながら、『メモしないからー』の言葉を準備していたので、すぐ口から出た。

「ほら、この箱に裏紙があるでしょ。これなら好きに使っていいから、そこにメモしなよ。ほら」

 水岡がメモできるように印刷ミスした紙を溜めていた箱から紙を取り出して渡すと、黒岡林はさきほど同じように、良品基板とNG基板の電圧を計り、一つずつボールペンを走らせていった。


 十五分後。

 自分の身長よりやや低い棚の前に立ち、作業している後輩の後ろ姿をぼんやり見つめていて……水岡には、さすがに口から零れる言葉があった。

「……遅くない?」

「えっ……? あ、その、はい……えーと、だいたい、分かりました。はい、分かりました。えーと……」

 黒岡林は、自分が書いたメモの内容を見つめ、黒縁眼鏡を上げて目を細めてから、まるで解読するかのように顔に近づけていき……口を上下に動かしていく。

「多分、5ピンと7ピンが違うと思います」

「多分って……」

 二つのIC電圧を比較しているだけなので、違いがあればはっきりしているはずである。

「で、どう違うの?」

「良品の5ピンが0Vで、7ピンが16Vです。NG基板が、3Vと5Vです」

「うん、違うね。多分じゃなくて実に明確にはっきりと違うね」

 小さく咳払い。

「じゃあ、電圧の違ったピンがどういうものか、図面で確認してみよー。意味は全部分からなくても、何かは書いてあるはずだから、それをヒントに」

「図面で、ですか……」

 黒岡林はパソコンの画面を目にし、顔を近づけ、かけている黒縁眼鏡を一度上げてから……口を動かす。

「ああ、分かったぁ! これ、5ピンが駄目ってことですね!」

 歓喜の声。

「ここに『OUT』って書いてありますから。ってことは、これがこのICの出力のことですよね。悪いやつは出力が0Vだから、だから、回路がうまく動いてないんだ。そっかそっか、ICが悪いんだ」

「あ、そうなんだ……」

 喜んでいる目の前の相手とは対照的に、口調を変えることのない水岡。

「じゃあ、ほんとに悪いかどうか、部品を交換して確かめてみよー。正解なら正常に5Vが生成されるようになるはずだから」

「部品交換、ですか……」

 喜んでいた顔の黒岡林に、一気に影が差す。半開きのまま閉じることのない口で『交換、

交換、交換、交換』と繰り返し……ゆっくりと視線を下げた。

「……どうすればいいですか?」

「はんだ付けして実装してある部品なんだから、こてを使って交換するんだよ。去年の研修でやったでしょ?」

「……その、駄目です」

 視線を下げたまま、首を大きく横に振る黒岡林。その影響で少しだけかけている黒縁眼鏡がずり落ちていた。

「はんだ付けは駄目なんです! そんなのできません!」

「……なぜ?」

 疑問でしかない。

「悪いと思った部品を交換しないと、解析は終わらないよ。どんどんLO品を処理していかないといけないんだから、これ一台で時間をかけてる場合じゃない」

「……あの、情けないこと言ってもいいですか?」

「いや……できれば、聞きたくないね、そんなのは」

「……水岡さん、代わりにやってもらえませんか?」

「聞きたくないって言ったのに……」

 嘆息。

「そう簡単に他人を頼らないでよ。仕事なんだから、自分でやらなきゃ駄目。これからここの仕事は君に引き継いでいくんだよ、ちゃんとやってもらわないと」

「……その、できないんです」

 黒岡林の声がか細くなっていく。

「……規則に、反します、から」

「はぁ!?」

 小さくなる黒岡林の声とは裏腹に、水岡の声が大きく引っ繰り返っていた。相手の声が聞き取れなかったわけでなく、その内容が理解できなかったから。

「ど、どうしてはんだ付けをやることが、規則に反するわけさ?」

「…………」

「はんだ付けってのはね、工場にいる人間なら一度はやる作業なんだよ。黒岡林君もちゃんとやらないと」

「……駄目、なんです」

「どうして?」

「……無資格、だから」

「はっ……?」

 きょとん。水岡は想像もしていなかった言葉に、暫く思考回路がショートするも……五秒後、正常復帰する。

「持ってないのぉ? 研修で受けたはずだけど」

「……落ちました」

 資格試験に落ちた。

「だから、駄目です。ぼくがはんだ付けすると、無資格作業になっちゃうから。それはやっちゃいけないって規則に書いてあります」

「あ、う、うん。それは、仕方がないね……」

 としか言い様がなかった。

「……なら、黒岡林君は、また来年の一月に受験だね。今度は頑張らないとね」

「そ、そうなんです。ぼく、来年まで待たなくちゃいけないんですよ。どうなってるんでしょうね?」

 ようやく黒岡林の視線が上がる。そればかりか、少し不機嫌なように頬を膨らませた。

「仕事に必要な資格なら、一年に一回じゃなくて、何回も試験してくれたっていいじゃないですか。それを一年に一回って、いったい何考えてんだか」

「うん、だからね、駄目だった人のために、二月に再試験があったと思うけど……ああ、聞くのはやめておとくよ」

 水岡の前では、黒岡林がまた視線を下げていた。

「はい、規則は規則だから、ちゃんと守りましょうね。だから、黒岡林君ははんだ付けはやってはいけません。ただね、あれって抜け道っていうか、なんというか……資格を持っている人の監視があれば、やっていいんだよ」

 でないと、試験前に雇った従業員全員は作業できなくなってしまう。資格を取るまでの救済措置として、有資格者の目の届く範囲であれば作業はしていい。

「ということで、僕はばっちり資格を持っているから、僕に声をかけてくれれば作業を許可します。では、そこのはんだ作業台を使って部品を交換してみよー」

 と一度は口にした水岡だったが……心の奥底で今口にした発言を制御する感覚が芽生え、内容を訂正することに。

「ってその前に、まず練習をしよう。いきなり本番ってわけにはいかないから。うん、練習は大事だよ」

 来年の一月の試験もそうだし、目の前のLO品の解析においても、はんだ付けの技術を向上させる必要がある。

 水岡は、通路に面したはんだ作業台の奥にある棚を指差した。

「あそこの一番下の段に赤い箱があるでしょ。あの箱に廃却基板が入ってるから、あれなら好きなだけ使っていいよ。廃却予定だから、壊しちゃってもいいからね。じゃあ、今から練習しよう。そうだ、これから毎日、朝礼が終わったら十時半の休憩まではんだ付けの練習をすることにしよう。来年の一月までたっぷりあるから、今年こそ、ばっちり資格に合格しようね」

 ということで、LO品の解析は一旦中断し、黒岡林のはんだ付け練習がはじまった。

「あ、そうそう、練習なら、資格なしでもやっていいから、当然、監視する僕も必要ないんだよ。ってことで、頑張ってね。ああ、高温だから、火傷には充分注意すること。じゃあね」

 水岡は、『これで毎日十時半の休憩までは自分の仕事に集中できる』なんてにんまり思いながら、廃却基板箱に向かう黒岡林の背中を見送るのだった。

(よしよし)

 壁にかけられた丸時計はもうすぐ午後四時で、定時である午後五時まであと一時間。金曜日は残業が禁止されており、土日は休みのため、一週間で一番清々しくて充実した空気に満たされている気がした。

(あとちょっとだー)


       ※


 四月十一日、月曜日。

 水岡の手には緑色の制御基板があり、そこには大小さまざま部品が実装されている。基板に空けられた穴に挿入してはんだ付けする挿入部品は、コネクタやコンデンサなど大きなもので、基板の端の方に実装されていた。に対して、基板表面ではんだ付けする面実装部品は、小さい抵抗やICなどが基板の両面全体に実装されている。

 そんな基板を持って、目の前でうなだれている黒縁眼鏡を目に、水岡は肩を大きく上下させることとなる。

「これは困ったね」

「……すみません」

「うん、困った。実に困ったな……」

 昼休みが明けて、午後の仕事に取りかかろうとしていた水岡が、例によって黒岡林に呼ばれて解析エリアにきてみると、壊れた基板を渡された。

「一箇所パッドが剥がれちゃってるから、こりゃもう修理しようがないね」

 パッドは、基板にあるはんだ付けする箇所の名称。今はICのパッドが剥がれて黒色になっている。

「この基板、残念だけど廃却ってことだね」

「…………」

「まあ、修理できずに廃却は残念だけど、失敗することは誰にだってある、として……黒岡林君、そもそも、なんで勝手にはんだ付けしてるの?」

 はんだ付け作業、その練習は無資格でできるが、製品をはんだ付けする場合は有資格者が近くにいないとできないことになっている。

「これきっと、ICを取るとき、はんだがちゃんと溶けてないのに無理矢理ピンセットで引っ張ったんでしょ? しっかり溶けたのを確認しないこうなるんだよ。本番をするんであれば、これぐらいのアドバイスならできたんだけど」

「…………」

「この前さ、『無資格だから作業できない』って黒岡林君が言ったんだよ。そうやって僕に作業させようとしたじゃん。なのに、なんで勝手に作業しちゃうかね」

「…………」

「許可したのは練習だけ。本番もできるって勘違いさせちゃったわけじゃないよね?」

「…………」

「いい、許可したのは、練習だけ」

「……でも、できると思って」

「できてないし、やってもいけない!」

 指導する側として、絶対に譲ってはいけないラインである。

「で、これ、どうするの? 壊れちゃってるけど」

「……どうすればいいですか?」

「得意だね、その台詞」

 嘆息。

「基板は廃却だから、代品を頼んでユニットにつけてもらうしかないね。あとから代品の頼み方は教えてあげるよ」

 壊れた基板に代わって新しいものを取付けてラインに戻し、試験して出荷するのである。今回の不良は制御基板が悪いことが分かっているので、これで出荷試験はパスするはずである。

「ただ、僕らの仕事は解析なんだよ。それって、LO品をラインに戻すことは二の次なのであって、大事なのはNGの原因を特定することなんだ」

 見つけた原因を製造現場や部品メーカーにフィードバックし、同じことが起きないように対策を取る必要がある。

「まだ原因を突き止められていないよね、これ。でも、パッドが剥がれちゃったから回路が切れた状態になってるわけだけど、解析は続行できそう?」

「……どうすればいいですか?」

「考えなよ、少しは」

 嘆息。

「このまま新しいICを取付けても、1ピン分が回路から切れちゃってるから、正解だったとしても確認することができない。なら、どうすればいい?」

「……どうすればいいですか?」

「切れた回路はどうすればいいの?」

「……どうすればいいですか?」

「ほんとに考えようとしないね、君……切れたなら、つなげればいいんじゃない?」

 水岡は電源や工具が収納されている後ろの棚から、細い青色の電線を取り出した。

「これ、ジャンパー線っていって、ICを取付けてから、この電線で切れた箇所とその接続先をつなげれば回路は復旧させることができる」

 ジャンパー線の被膜を剥いて、つなげたい箇所にはんだ付けすればいいだけのこと。

「これで回路は復旧するから解析は継続できるね」

 ただし、回路を復旧できたとしても、当然製品としては出荷できないので基板は廃却となる。

「じゃあ、まず新しいICを東B工場からもらってきて……いや、もう廃棄なんだから、いちいち新品を払出さなくても、部品取りの基板から取ればいいや。基板が捨ててある箱に同じ板があったと思うから、それから部品を取って活用するといいよ」

「……はい、分かりました」

 小さく返事をすると、黒岡林は壊れた基板を持ってはんだ作業台へと向かっていった。これから壊した制御基板にICを取付け、切れた回路をつなげるためにジャンパー線をはんだ付けするのである。


 三十分後。

「……駄目でした」

 黒岡林は、本来の製品にはない青い電線がつけられた基板を手に、元気なく俯いている。

「ICを交換して電源入れたんですけど、変化なかったです」

「部品交換しても5Vが出力しなかったってことだね。なら、原因が違うんだよ。そもそも、なんでそのIC交換したんだっけ?」

「出力の5ピンが0Vで出てなかったから、これが悪いのかなって思って……」

「他に良品基板と比べて悪いところなかった?」

「えーと……」

 黒岡林は、胸ポケットから紙を取り出す。それは先日の電圧を計測したときにメモしたもの。

「あとは、7ピンです。良品が16Vで、NGが5Vでした」

「7ピンって、図面にさ、『VCC』って書いてあるでしょ? それってね、そのICの電源って意味だから」

 どんなICでも動作させるには電源が必要である。それは家にある掃除機や洗濯機やエアコンや冷蔵庫がコンセントにプラグをつながないと動かないように。

「つまりね、本来16Vの電源が必要なのに、それは5Vしかなかった。だから電圧が足りずにICが正常に動作せず、その結果出力の5ピンが0Vだったんだよ。だとしたら、ICそのものより、そのICに本来入らなければならない16Vの電源がなぜ低くなっているかを調べないといけないね」

「ああ、なるほど、そういうことですか。電圧が足りなかったってことですね」

 黒岡林の視線が時計回りに一周して、その時間で状況を理解すると……何か気がついたみたいに素早く首を振って水岡を見つめる。

「……それ、分かってたんだったら、なんで先に教えてくれなかったんですか? これじゃあ、部品交換した意味がないじゃないですか」

「それはね、あなたがその部品が悪いって決めつけて他を考えようとしなかっただけでしょ? まあ、これも勉強だよ。こういったことを蓄積していって、解析のプロフェッショナルになっていってほしい。失敗は無駄にしないでね。そのためにも、こういったことを忘れないようにメモした方がよかったりするけどね!」

 語尾に力を入れる水岡だが、ボールペンすら手にすることのない黒岡林には効力がなかった。

「じゃあ、一つ勉強したところで、解析を続行しよう」

「……どうすればいいですか?」

「得意だね、それ。さすがに言うんじゃないかなって予感はあったよ。まったく……」

 水岡の口角が小さく上がる。

「いい、基板につないでる24Vは正常に出てるみたいだから、トランスから降圧した辺りからおかしいんじゃないかな? だから、7ピンがつながってる部品を順番に交換していってみなよ。部品取り基板、持ってるでしょ? 順番に交換していれば、その内正解に辿り着くよ」

 何か思い当たったかのように、水岡は小さく手を叩いた。

「そうだ! もうその基板は廃却だから、ってことは、そこにはんだ付けするのに資格は必要ない。じゃあ、君がはんだ付けするのに僕の監視は必要ないから、事務所に戻って仕事してくるね。はい、頑張って。ゴールは近いぞ」

 水岡は即座に背を向け、解析エリアを後にする。後ろから『あ、ちょっと、水岡さーん、待ってくださいよー』なんて声が聞こえた気もしたが、近くで回っているモーターの駆動音に掻き消されたことにして、水岡は歩を止めることはなかった。


       ※


 四月十三日、水曜日。

 午後一時五分。工場全体にチャイムが鳴り響き、午後の仕事が開始される。

「へー、そうだったんだー……」

『水岡さん、やっと分かりましたよぉ! 早くきてください!』という後輩であり新人の無駄に大きな声に、水岡は昼休みに机に突っ伏して寝ていたせいで顔を載せていた左腕が痺れた状態のまま、解析エリアにやって来ることとなった。

 作業台の上、緑色の制御基板はすでに通電されている。黒岡林がテスターのプローブを当てており、デジタル表示は『5V』を示していた。

「ああ、ほんとだ。しっかり5Vが出るようになったじゃん。よかったねー」

 歯を見せて嬉しそうにデジタル値を見せてくる黒岡林に、水岡は痺れる左腕を振りながら小さく頷いた。

(これって確か、先週の金曜日、月曜、火曜、水曜……なるほど、四日もかかったわけね。まあ、時間をかけようと原因を突き止めたのなら、うん、よしとしよう)

 この間もずっと製造現場では同じ製品が生産しており、すべて出荷試験にパスすればいいのだが、そんなわけがなく、他のLO品がたくさん出ていた。棚にはMAXの六台がすでに置かれており、隣にマットを敷いて三台が置かれている。合計九台。本当はもっとあったのだが、さすがに製造部門から『LO品がなかなか返ってこない。なんとかしてくれ』とクレームが入り、新人の黒岡林が定時の午後五時に帰ってから水岡が数台は減らしてきたものの、所詮残業時間だけでは処理しきれない現状がある。ただ、今回ようやく原因を突き止めたということで、これからどんどん黒岡林にはLO品の解析をやってもらいたいものであった。

「で、原因は何だったの?」

「これですよ、これ。ツェナーダイオードです」

 黒岡林は小指の爪よりも黒い小さな部品が入った青色の袋を手にしている。青色の袋は静電気対策が取られたもの。

「えーと、関係しそうな部品をどんどん交換していって、これで十個目か十一個目の部品でようやくビンゴでした」

「へー、それは大変だったね。うん、よく頑張ったよ。これってさ、表面に数字か記号が書いてあったと思うけど、分かる」

「数字ですか? えーとですね……見えないです。顕微鏡で確認してきます」

 黒岡林はかけている黒縁眼鏡を少し持ち上げて目を細めたが効果はなく、はんだ作業台の横にある顕微鏡まで駆け足で向かい……三分後に解析エリアに戻ってきた。

「『C5』って書いてありました」

「それってどういう意味だろうか? この前、部品カタログの検索システムを教えたよね。今から調べてみようか」

「はい!」

 原因を突き止めたことが相当嬉しく、それで自信をつけたのか、黒岡林はてきぱきとパソコンに向き合ってマウスを動かしていく……のだが、なかなかうまくいかずに苦戦することとなり……十五分後。

「えーと、カタログには30Vって書いてありました」

「……かかったねー、調べるのに時間が。その間、事務所に戻って仕事しようって三回ぐらい考えちゃったよ。カタログ調べるのに十五分って、かかっても五分で辿り着いてほしかったよ」

「……すみません」

「じゃあ、今回のNG原因とどう関係してるか考えてみて」

「えっ、関係ですか……」

 黒岡林は視線を斜めに向け、考えるように腕組みをするが……一分後。

「……どうすればいいですか?」

「ちょっとは考えてよ……」

 自然と水岡の首が傾いていく。あろうことか基板を破損させ、時間こそかかりはしたものの、それでも最後まで諦めずに原因を突き止めた黒岡林のことを少し見直したところだっただけに、向けられたいつもの名言は、危うく膝から崩れそうになる威力を有していた。

「ダイオードってのはアノードからカソードに電流が流れて、反対には流れない部品だよね」

 これはきっと大学で学んでいるはず。いくら黒岡林が在学中はモーターレースに首ったけ状態だったとはいえ、知識としては基本である。

「じゃあ、ツェナーダイオードはどうかっていうと、設定されたツェナー電圧よりも高くなりそうになると、反対方向に電流を流して同じ値に保とうとするわけ。ちなみに、さっき黒岡林君がカタログで調べた値が、このツェナー電圧なんだよ」

「……あ、はい」

「その表情にその返事、理解できてるか疑うところだけど……」

 目が左右に揺れる目の前の相手に、訝しがる水岡だが……信じてつづけることにする。

「僕は設計じゃないから、製品の回路や使ってる部品のことはそこまで詳しくないんだけど……さっき調べたとき、本来16Vが必要な電源が5Vしかなかったわけじゃない。でも、ツェナー電圧は30Vまであるから16Vだったら楽に保っていられるはずなんだよ。にもかかわらず、それが5Vしか測定できなかったってことは、部品内で電流がリークしてたのかもしれないね。だから5Vまでしか上がらなかったんだと思う」

「……リークってのはどういうことですか?」

「ああ、部品内で電流が漏れたってこと。完全にショートしてたら0Vになるから、5Vあったってことはちょっとだけ電流がリークして電圧を下げてたんだろうね」

 本来は16Vのところ、電流が漏れて5Vになった。

「まあ、これも勉強だ。理解したとして次にいこう」

 LO品はまだ九台も溜まっている。立ち止まっている場合ではない。

「じゃあ、その原因であるツェナーダイオードを部品メーカーに解析依頼してみよう。きっと今話した僕の見解通りになると思うけど、もしかしたら違うかもしれない。これは報告書を待つしかないね。で、解析依頼書の発行のやり方は先週教えたよね。ああ、あと、ここの作業台のパソコン使わずに事務所の席でやってくれるかな。これから僕がこの作業台を使いたいから」

 理由は、黒岡林に代わって他のLO品を解析すること。これ以上の滞留品は許されない。もうぎりぎりというか、これ以上は取り返しがつかなくなるというか、そもそも保管棚から溢れている時点でアウトなのだから。

「はい、じゃあ、部品持って事務所にいってきて。しっかりね」

『分かりましたぁ!』と元気な声を残して通路に出ていった黒岡林の背中を見送り、水岡は九台残っているLO品の難しそうなやつを選んでいく。

(うーん、彼には簡単なやつから、じっくり覚えてもらわないといけないからな)

 エラーメッセージに『誤差過大』と書かれたLO品を作業台に置き、プラスドライバーを手にした。

(じゃあ、ちゃっちゃっと二、三台は減らしておきますか)

 解析を開始する。


 のだったが、

『品質管理システムの、その、パスワードって何でしたっけ?』

『部品のロットってどれのことですか?』

『依頼内容は何って書けばいいでしょうか?』

『電源電圧が何Vなのか書かなきゃいけないんですけど、何Vがいいですか?』

 などなど、黒岡林から数分ごとに質問を受けることとなった。水岡はなかなか解析に集中することができず、結局、定時の五時までに一台しか処理することができなかった。

 そして今日も残業がはじまる。


       ※


 四月二十五日、月曜日。

 今日は月に一度の給料日。『この日は自分にご褒美を買うとか思い切って贅沢をする』といった意識のない水岡だったが、それでもどこか高鳴る思いがある。昼に電子メールで給与明細が送られてきたので確認してみると、今月は自分仕事にプラスして黒岡林の仕事を代行して行った影響もあり、残業時間が四十四時間になっていた。先月は十五時間だったのに、約三倍。残業は一か月に四十五時間を超えると産業医による面談やアンケートに答えなければならなくなるので、ぎりぎりセーフである。そうならないためにも、なんとして新人には一日でも早く戦力になってもらいたいところである。でないと困る。

「はい、ありがとうございました。失礼します。またよろしくお願いいたします」

 水岡は耳に当てていた受話器を戻し、パソコンの画面から関連資料を一つずつ消していく。今まで報告書が遅れているトランスの部品メーカーに様子を確認していた。工程内で見つかっていた不良について、波及性がないという見解だったのでほっと安堵し、来週までに送付してもらうということで決着した。不良は出ても、単発不良なら大きな問題にはならない。それだけで一安心である。

 パソコン右下にある時計は午後四時三十分を示していた。週の頭に残業をすると一週間が長く感じるから定時で帰れればいいのだが、最近はそういうわけにもいかず、『今日もきっと残業することになるんだろうなー』なんてまな板の鯉みたいな覚悟があって、『よし、少し様子でも見てくるか』と立ち上がったタイミングで、事務所の空気が大きく揺れることとなる。

「わあっ! びっくりしたぁ……」

 水岡の胸が大きく跳ねていた。通路から事務所の扉が勢いよく開かれ、危うくぶつかりそうになったからである。

「ど、ど、どうしたんですか、宇之うのまつ班長、そんなに慌てて?」

「馬鹿野郎ぉ!」

 突如として事務所内に怒鳴り声が木霊する。

「どうしたもこうしたもあるかあぁ!」

 赤ら顔の男、四十五歳の宇之松三平さんぺいが勢いよく事務所に入ってきた。

「おい、水岡ぁ! いったいどうなってんだあぁ!?」

 水岡と同じ赤茶色の作業着に身を包んだ宇之松は、製造課の現場責任者である『班長』という肩書がある。深々と被っている帽子の下には半分ぐらい白くなった短髪があり、眉は海苔のように太いもの。身長は百七十センチメートルで、体重は八十キログラムと横に太くて前に腹が出ている。昨年の健康診断で糖尿病という診断を受け、食生活に気を配るようになったのだが一向に体重が落ちることはなかった。

「このままじゃ、今月の生産が未達になっちゃうじゃねーかあぁ! おい、水岡、なんとかしろおぉ!」

「ど、どうかしたんですか?」

「馬鹿野郎おぉ! てめえ、こんな緊急事態に何言ってやがんだあぁ!」

 再び事務所内に響く怒鳴り声。数人の視線を浴びることとなるが、それでも宇之松はびくともしない。

「同じLOが多発してんだよおぉ! どうなってやがんだあぁ!?」

「同じ、ですか?」

「いいか、水岡、お前が早急になんとかしろおぉ! いいな、てめえんとこの新人じゃなくて、お前が担当しろよおぉ!」

「同じLOが多発、ですか……あ、はい、その、詳しくは黒岡林君が何か知ってるってことですね。ちょうど今から顔見にいくところだったんで、聞いてきますけど……えっ、同じLOが多発……?」

「今日はもう仕事になんねーから、こっちは定時で上がるからな。明日の朝までになんとかしとけよおぉ!」

「あ、はい、分かりました。お疲れさまです」

 不機嫌そうに激しい靴音を立てて事務所から出ていった宇之松の背中を見送った水岡は、胸の奥からもくもくと雨雲のような不気味な感覚が湧き上がってきて、ただただその足を解析エリアに向けていた。

(まずいんだろうな、きっと)

 いやな予感しかない。


 品管事務所の東方に位置する解析エリア。

「あのさ、黒岡林君、同じエラーが二件以上あった場合、すぐ連絡してって教えたよね? いろいろと大変になるから」

 LO品の同一エラー案件は、二件以上になると関係部門で情報を共有し、状況を協議した上で、出荷停止といった判断を下す必要が出てくる。だから優先的に解析を実施し、一刻も早く原因を突き止め、波及性を確認しなければならないのだ。場合によっては、すでに出荷したものを倉庫や客先から回収して検品しなければならなくなる。

「黒岡林君、お願いだからルールぐらいは守ってね。って、ちゃんとルールのこと覚えてた?」

「……すみません」

「メモしないからー」

 解析エリアには、十台以上のFWB制御ユニット、WM-100AAのLO品で溢れ返っていた。黒い正方形の物体は、棚や作業台、臨時で敷かれたトレイの上と、その存在を主張するように置かれている。

「なんでこんな5Vエラーが頻発してんのさ? こんなにいっぱいあったら、すぐ原因見つけて対処しないと、そりゃ宇之松班長も怒るよ」

「ああ、それなら大丈夫です。原因はちゃんと特定してありますから」

「珍しい!?」

 裏返る水岡の声。

「それで、原因は?」

「ああ、この前のと同じでした。生成回路のツェナーダイオードです」

「ああ、あれね」

 十日ぐらい前に黒岡林が解析したLO品の原因がツェナーダイオードだった。部品メーカーに解析に出した結果は、水岡が予想した通りのリーク電流による電圧低下で、過電圧破壊したもの。破壊した発生元は、メーカー出荷時なのか出荷試験によるものなのか、そこまでは特定できていないが、一件だけならこれで問題にならない。だが、今回は多発しているので、水岡に緊張感が走る。

「原因が分かったなら、さっさと報告してもらわないと。一刻も早く手を打たないといけないんだから。研修で『報連相』って習ったでしょ? 覚えてる?」

「報告と……すみません」

「報告! 連絡! 相談!」

 働く上の基本。

「今回は間違いなく各関係部門の協議が必要になるから、急がないと……って、あれ? なんで原因が特定できてるの?」

「あ、はい。だって、部品交換したら、5Vがちゃんと出るようになりましたから、間違いないです」

「それはよかったけど……もしかして、また、無許可ではんだ付けを、したの?」

「…………」

「いや、まさかね……さすがに今回は誰かに許可取ってあるんでしょ?」

 見渡してもはんだ作業台周辺に誰の姿も見当たらないが。

「無許可なんて、まさかね。だって、何度も何度も同じことを注意してるから、今回は無許可で作業したなんてことないよね? ね? ね? ね?」

「……すみません」

「無許可ぁ!?」

 幾度となく裏返る声。

「いい加減、ルールを守ってよ。でもって、ルールを覚えてね。ここ、メモしてほしいところなんだけど」

 意識して大きく息を吸い、素早く吐き出す。

「いい、黒岡林君が無責任な作業して、そのせいで品質が保証できない状態で製品が出荷されちゃったら、下手をするとウォークが戦場で誤作動を起こすかもしれないんだよ。『ちょっとぐらいいいや』なんて軽い気持ちで無資格で作業したばかりに、ウォークが制御を失って、自陣で爆発することだって考えられるんだからね」

 戦略軍機兵器は無人なだけに、誤作動が起きてもどうにもコントロールすることはできない。自軍で誤爆すれば、甚大な被害が出ることだろう。

「誤爆しても待ったなしだから」

 ここまで一方通行で言葉を投げかけ、相手がずっと俯いたまま顔を上げないのを目に……水岡は小さく息を吐き、意識して口調を軽くして、重たい空気を変えた。

「まあ、ともかく直した基板を見せてよ。ああ、すでに二台も交換してあるんだね」

 水岡は作業台に置かれている制御基板を手にする。左上の方に指先ほどの大きさのツェナーダイオードが実装されており、その両端のはんだ付けが他と比べて量が多くなっていた。黒岡林が交換したものに違いない。

(交換して直ったわけだから、また過電圧破壊かな? もしかすると、設備で壊しているとか……? あ、でも、そうなると、この量は尋常じゃないな)

 水岡には経験のないLO品の量。そもそもLO品が解析エリアに溢れることすら初見である。

「ねぇ、黒岡林君、今のところ二台直して、今やろうとしているのが三台目ってことだよね。5Vエラーの正確な数は、何台が把握できてる?」

「……すみません」

「ここにあるので全部なの? 十台、ぐらいかな?」

「ああ、違います。ここじゃ置ききれなくなったので、現場に置いてもらってます。あっちにも十台以上はあったかと……」

「まだあんのぉ!?」

 つい声が大きくなってしまう。水岡にとって、入社して以来の異常事態に直面しているかもしれない。脇の下に冷たい汗が流れていく。

(設備で壊してるんだとしたら、試験を止めないといけなくなるな)

 時計を見ると、あと五分で午後五時。さきほど班長の宇之松が残業しないで帰ると言っていたので、この時間に試験設備は稼働しておらず、作業者はモップや掃除機で清掃していた。である以上、今日これから同様のLO品が増えることはない。

(うーん、設備で壊してるなら、急いで設備部門に調べてもらわないといけないけど、現時点では確証がないな。直した基板でもう一回試験して試してみようかな)

 多発するLO品に、本来なら所属しているインライン係の内川係長に報告しないといけないのだが、『どんな状況なのか関係部門に展開しないといけないから、とりあえず資料にまとめてね』と状況整理を求められるので、まずは正確な情報を集めなければならない。

(ああ、一応メーカーにも解析してもらわないといけないな。万一メーカー責任の不良ってことも考えられるし)

 水岡はきょろきょろと辺りを見渡し……静電気の発生対策がされている半透明の青い袋を見つけた。そこに小さなツェナーダイオードが入っている。両端の電極にははんだがついているので、これが元々基板についていて、黒岡林が取り外した部品なのだろう。

「これかー。一応テスターで導通確認してみようかな……んっ?」

 目を細めて青い袋を見つめる水岡の頭に、小さな疑問が浮かんだ。それは知識というより、入社して以来培ってきた経験による違和感。

(あれ、これって……)

 袋には指先ほどの小さな部品がある。黒色のパッケージで、カソードを示す白い線が引かれていた。そしてその白泉の下には『C2』と記載されている。

(あれれ?)

 突如として訪れた『これ、なんとなくおかしいぞ』という感覚に誘われるよう、さきほど黒岡林が部品交換した基板を目にしてみると……交換した部品の表面には『C5』と記載されていた。

(げっ!)

 部品が違う。取外した部品と取付けた部品が、違う。

 総毛立つ思いとともに表情が固まり、次の瞬間、水岡の喉が大きく鳴った。

「あ、あのさ、黒岡林君……これが交換した基板で、こっちがここから取り外した部品ってことで、合ってる?」

「あ、はい。ばっちり直りましたよ」

「部品が違ってるよぉ!」

「へっ……」

 黒岡林の黒縁眼鏡の奥、小さな点となった目は一切動くことなく、口を半開きにした表情が、事実を一切理解できていないことを物語っている。

「……どういうことですか?」

「元々ついてた部品と、黒岡林君がつけた部品は、違う部品なんだよ」

「ええぇ!?」

 見開かれる双眸は、天井を見上げるほどの仰天を意味していた。

「どういうことですか!?」

「それはこっちの台詞だよ。ねぇ、どうして違う部品がついてるの? 交換する前に、ついてた部品と確認しなかった?」

「……してません」

「この状況で確認してたら驚くけど」

「でもでも、ちゃんと部品表を確認して、払出しましたよ。えっ? 違う部品をつけたってことは……いや、でもでも、ちゃんと直りましたけど」

 違う部品というのはまだ理解できていないが、それでも交換したら復旧した。黒岡林は考え込むように腕組みをして……三十秒後。

「……どうすればいいですか?」

「いつもの得意なやつだねー。それはその……ああ、時間がないから、端的に説明すると」

 最初についていた部品が『C2』で、交換した部品が『C5』である。

「状況からすると、これは黒岡林君が違う部品を取付けたわけ。でも、違っていても正しい部品を取付けたってことだよ」

「……どういうことです?」

「おたく、考える気ないだろ。ああーと、つまりね、最初についてた部品が間違った部品だったってことだよ」

 最初に実装されていた『C2』が、本来は『C5』が実装されていないといけなかった。それが違うということは、基板の製造工程で誤った部品を実装したことになる。

「基板の製造不良ってことだね。で、それに気づかずに生産していたから、間違った部品をつけた基板が大量にあるってことだよ」

 そうして間違った基板をユニットに組込み、出荷試験で大量のLO品が発生している。

「げげげぇ! ロット不良じゃんかぁ!」

 ロット不良どころか、もしかしたら、今もプリント基板製造工場である東B工場では、間違った部品が実装されているのかもしれない。

 瞬間、午後五時のチャイムが鳴った。大勢の作業者がロッカールームに向かって歩いていく。

「いい、僕は今から宇之松班長にこのことを連絡してくるから、黒岡林君は在庫の検品をお願いできる?」

「それは、どうすればいいですか?」

「棚にあるこれと同じ制御基板のツェナーダイオードを確認して、『C2』なのか『C5』なのかを確認する。目印用にそこのテープを持っていって、『OK』か『NG』かを表示していって。今やってる解析は中断していいから、急いで在庫確認ね。場所は分かるでしょ? じゃあ、お願い」

 水岡は足早に通路を歩いていき、工場の北西部にある製造部門の事務所へと向かっていくのだった。

(えらいこっちゃー)


 ツェナーダイオードの誤実装不良は、結局基板八十六枚に及ぶものだった。

 一ロットが百枚で、製造途中の二十五枚目でリール状の部品が欠品となり、作業者が誤った類似のツェナーダイオードを実装機に取付けたために発生したもの。ロットが終了後、部品を実装機から外して元の棚に戻したため、八十六枚だけで済んだのだが、もし連続で何ロットも生産されていたら、数日間は対応に追われることとなり、製造部門も生産を止めざるを得なかっただろう。そんな状況にならなかっただけでも、運がよかったといえなくもない。

 今回の間違った部品が基板に実装されていた場合、必ずユニットの出荷試験でNGとなることは自明のため、出荷後の製品を回収する検討はする必要がなく、製造部門がすべてのNG基板の部品交換をするとして手打ちとなった。もちろん、二度と同じ不良が発生しないように再発防止策を考えてもらい、報告書として発行してもらうことは依頼している。

 間違ったロット以外は正常な部品がついていたため、翌朝から生産を再開できたことも、水岡が情報を収集して上司に報告した午後九時には決定していたため、翌朝に宇之松班長に『馬鹿野郎ぉ! お前の対応のせいで今月の売上が未達になっちまうじゃねーかあぁ!』と怒鳴られることがなかったこと、大きく胸を撫で下ろすこととなる。

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