第一章 - 黒陽炎 -

「朱美っ」


 寝過ごした。

 まずい。


 そう思い、突っ伏していた机から勢い良く顔を上げた。

 瞬間、額に痛みが走る。


「────いっ、痛っ」


 額を抑える。机の前に、朱美と同じ制服を着た小柄な女子高生がしゃがんでいた。


「痛いじゃないよ」


 顎を抑え、女子高生が顔を上げる。友人の倉橋伊緑くらはしいのりだった。

 全体的に小づくりで目が大きい。可愛らしい顔立ちだ。

 羨ましい、と朱美はつい思ってしまう。


「せっかく、起こしてあげたのに。次、理科。教室移動だよ」

「ごめん」


 朱美は立ち上がった。

 休み時間。その前は自習時間だった。

 部活で疲れた身体を少しでも休めようと、眠っていたのだ。


 朱美が立ち上がる。背は高い方で、小柄な伊緑と比べると体格差が出てしまう。

 朱美は陸上部で専門は中距離。バレーやバスケットボールと違い、高身長だからといって有利にならない。

 だから、可愛らしい伊緑いのりの横に立つと少しコンプレックスを感じてしまう。

 それでつい忘れてしまった。

 私、何の夢を見ていたんだっけ。


「まあ、いいか」


 大した夢ではなかったのだろう。

 伊緑を連れだって教室を出る。


 その時、男子生徒がすれ違った。

 伊緑いのりよりは背が高いが、朱美よりは低い。

 細身の少年だ。


「あれ、誰だっけ?」


 教室を出た後、朱美は伊緑いのりに聞いた。少年の名前を思い出せなかったのだ。


「あんた、ひどいわね。クラスメイトなのに。ええと」


 伊緑がしばらく考えた後、手を叩く。


「時任。時任青樹」

「あんただって、すぐに思い出せなかったじゃん」


 てへへ、と伊緑いのりが笑う。可愛い。


「名前も苗字みたいだね」

「だねえ」


 そんなくだらない会話をして、青樹のことは忘れてしまった。



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 夕方。


 部活の帰りだった。

 家は他の部員と反対方向にある。

 他の生徒の多くもそうだが、朱美は両親や親族がおらず独り暮らしをしている。学校に寮がないのでマンションを借りていた。

 単身者が多い街なのか、戸建が少なくマンションやアパートばかりが目立つ。

 そんな街中を、朱美はクロスバイクで走っていた。

 自転車通学だ。

 制服のスカートでは少し恥ずかしいので、下にジャージを履いている。

 可愛いけど、短いんだよね。うちの高校の制服。などと朱美は思う。


 空を見上げる。

 日は既に落ちかけていて、西の空がわずかに赤いだけですっかり暗い。

 雲も多い。街路灯の光のせいか、夜空の暗さが一層際立って見えた。


 だけど、あの黒い空。墨で塗りつぶしたようなあの空に比べたら明るい位だ。


 ん、私なんて考えた?


 朱美は自転車を止めた。

 改めて、空を見る。特に何もない。いつもの夜空だ。


 疲れているのかなあ。


 そんな風に思った時、視界の端に何かが掠めた気がした。

 そちらに視線を向ける。

 目を凝らす。


「え?」


 視界の一部がおかしい。笑う、ではなく異常という意味でのおかしい。

 ビルの屋上。道路からは見えないが、その端に何か、陽炎のように動いている。

 ビルの排気口から熱気が出ているのかと思ったけど、違う。

 それは、黒かった。煙の黒さではない。そこだけ、墨で塗りつぶされたような黒さだった。

 それだけではない。

 その黒い何かの中に、人の姿が一瞬見えた。


 倉橋伊緑くらはしいのりに見えた。


 その姿は、すぐに黒い何かの中に消えてしまったけど、朱美には、確かに伊緑いのりに見えた。

 横顔だけだったけど、間違いない。ただ、伊緑いのりの表情は昼学校で話していた時と比べ、虚ろに見えた。

 見間違いかもしれない。というか、疲れて見えた幻影なら、自分の記憶にある友人の姿が見えたのも道理だ。


 だけど、気になる。

 万が一、伊緑いのりが何かの犯罪や危険なことに巻き込まれているなら。

 それを見逃したら、自分は一生、後悔する。


 朱美は重心をかたむけ、クロスバイクを反転させる。

 目指す先は、伊緑いのりを見たビルだった。

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