第3章 妻館憬は憬れる
1.来客 1
「立ち話もなんだ。とりあえず、中へどうぞ」
先輩は色芸を室内へと迎え入れ、ソファを示した。
「いえ、すぐ済みますので。ねえ、水納くん?」
「え? えーっと……」
色芸の視線がこちらを向く。
俺が色芸に用があったのは事実だ。
昨日の件で謝罪したいと朝から思っていたのだから。
だが、色芸のほうから俺を訪ねてくる理由は、正直何も思いつかない。
ひとまず、俺はソファを立ち、テーブルを挟んで正面のスクールチェアへと移った。
「宏慈の友人が遊びに来るなんて初めてだな。ほら、遠慮しないで」
再度先輩が促すと、色芸は軽く頭を下げ、ソファの前まで移動する。
スクールバッグを足元に置き、スカートを押さえながら静かに腰を下ろした。
スクールチェアをもう一つ引っ張り出し、先輩も俺の隣に座る。
「私は三年の妻館憬だ。色芸さん、君とは初対面だが、君の数々の功績は私も周知のことだよ。いつも本当に凄いな、尊敬するよ」
「恐縮です」
先輩の称賛に、再び礼をする色芸。
「それで、ウチの水納に用があるとのことだが……私は席を外したほうがいいか?」
「いいえ、本当にすぐ済むことですので、お気遣いなく」
「そうか。では宏慈、色芸さんも忙しいだろうし、手早く済ませてあげなさい」
そう言って、先輩は会話のバトンを俺に渡した。
……ヤベぇ、なんて切り出そう。
衆人監視の教室よりも遥かに話しかけやすい環境が整っているのに、こうして色芸と向き合ってしまうと、なかなか俺の喉から言葉は生まれてこなかった。
「……本題の前に、一ついいかしら?」
沈黙を打ち破るように、色芸が先に口を開いた。
「今日、教室で水納くんの視線を複数回感じたのだけれど、あれ、やめてもらいたいの」
「え……」
普通にバレてた。
本当に申し訳ない。
俺みたいな陰キャ男から何度も見られたら、ストーカーされてるとしか思えないよね。
謝罪のタイミングを窺ってたとか、信じてもらえないよね。
「お、おい、何をやってるんだ宏慈。女性に失礼だぞ」
ほら、先輩にまで勘違いされたし。
これでも気を遣ってたんだぞ。まあ、俺が悪いんだけど。
「……すみませんでした。以後、気を付けます」
「まあ、その原因はわたしにあるのだから、水納くんが謝る前に、わたしが謝らなければならないのだけれど」
……ん? 原因?
言っている意味がわからず、俺はハテナマークを浮かべる。
咳払いを一つ挟み、色芸は座ったまま屈んだ。
ジィィーとファスナーを動かす音が聞こえ、どうやら足元のスクールバッグを開いているようだった。
ごそごそと何かを漁ったのち、再び色芸の身体が起き上がる。
彼女がその小さな手に抱えていたものを見て、俺は思わず目を見開いた。
ホーリーだった。
俺と先輩の愛読書が一冊、色芸の手の中にあった。
なぜ、色芸がそんなものを持っているのか。
美術部のエースと、オタクが読み耽る漫画雑誌。
釣り合いのとれていない、なんとも不思議な光景が目の前にあった。
「これ、お返しするわ。迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
色芸は雑誌をテーブルに置くと、ぺこりと頭を下げた。
「……返すって言われても、ちょっと意味が……」
色芸の行動が全く理解できない。
お返しするも何も、俺は色芸に漫画を貸したことなどない。
そもそも、目の前にあるのは今週号だ。
昨日コンビニで買って、放課後先輩と一緒に読んで、俺の家へと持ち帰った。
それを誰かに貸せるわけがない。
目の前に座る色芸とテーブルの雑誌を見比べながら、俺は困惑するしかなかった。
「……もしかして、気付いてなかったのかしら?」
「気付いてないって、何が?」
「これ、水納くんのホーリーよ」
「え?」
その指摘に、俺は素っ頓狂な声を漏らした。
「わたしが取り違えてしまったの。家に帰ってから気付いたわ。ごめんなさい、よく確かめなかったから」
「取り違えた……って、いつ」
「水納くんとぶつかったときに」
言われて、俺は昨日の記憶を遡る。
下校直前に催し、トイレに向かって歩く俺。
そのとき、雑誌は脇に抱えていた。
美術室横のトイレに近づき、俺は走り出した。
その瞬間、女子トイレの扉が開き、中から色芸が飛び出して来た。
俺は身体を捻って回避しようとした。
結果、正面衝突は避けられたものの、俺と色芸は接触し、そのまま俺は廊下に倒れ込んだ。
俺が持っていた雑誌はそのとき教科書などと一緒に床に落ちたと思われる。
一方の色芸は、ぶつかった直後、しばらく驚いたようにその場に座っていた。
その後立ち上がり、俺に謝ってから、美術室へと入っていった。
……いや待て、違う。抜けている。
俺に謝ったあと、色芸は床から何かを拾っていた。
(まさかそれが、俺の持っていたホーリーだったというのか?)
経緯は思い出した。
けれど、新たに疑問が湧く。
取り違えたと色芸は言った。
廊下に散らばった俺の教科書を自分のものだと思ったのならまだ合点がいく。
しかし、彼女が拾い上げたのは漫画雑誌で、取り違えるようなものではない。
どうして色芸は、俺の持ち物である雑誌をわざわざ拾い上げたのか。
自分のものだと勘違いしてしまったのか。
考えられるとしたら……
「――もしかして、色芸さんもあのとき、ホーリーを持ってた……?」
彼女が取り違えたという理由はそれしか思い浮かばなかった。
「ええ、そうよ」
俺の疑問に、色芸は頷いてみせた。
「家で読まなかったのかしら。それならありがたいのだけれど」
「いや、普通に読んだけど……あっ!」
脳内に、昨夜読んだ漫画のページが浮かび上がる。
そこには、赤ペンで数多の書き込みがされていて、俺が二次元世界に浸る没入感を大きく阻害された。
もしやあれは、コンビニで購入前に行われたイタズラなどではなく。
色芸が自分で買った雑誌に自分で書き込んだものだった……のではないか?
「じゃあ、あの書き込みは色芸さんが?」
「……そう、やはり見てしまったのね」
何か考えを巡らすように額に手を当てた色芸が、はぁと小さく息をついた。
「な、何かまずかった……?」
恐る恐る尋ねてみたが、色芸は答えず。
数秒間の静寂が続いた。
「……ねえ、水納くん。……と、妻館先輩」
「な、なんだ?」
急に名を呼ばれ、ことの顛末を知らず首を捻っていた先輩は慌てて姿勢を正す。
「――このこと、どうか他言無用でお願いします」
色芸はテーブルに手をつき、俺達に向けて深々と頭を下げた。
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