第3章 三村華恋

第7話

 ――ターン――

 ライフル銃が火を噴いた。小鳥が飛び立ち木立がざわめく。色鮮やかな落ち葉にいろどられた地面に鹿が膝を折った。晩秋の森は静寂に沈んだ。

「命中した!」

 解けた緊張が声になって発散する。

 華恋はライフル銃を背負いなおし、木々の枝を分けて森を進んだ。胸の中でわなわなと何かが渦巻いていた。時折、小枝が頰を打つ。鹿の命を奪った罰としては小さな痛みだった。

 立派な角をいただいた鹿が胸から血を流して倒れていた。首を投げ出し、真っ黒な目は虚空を見ていた。まだ生きようとしている。その腹はバクバクと息をしていた。

 夫から届いたメールを思い出す。〖早く殺してくれ〗

 目の前で喘ぐ鹿。……とどめを刺さなければならない。これが人間だったら、と思うとぞっとする。

 持っているナイフは心臓に届きそうにないので首に刺した。グサッという肉を断つ感触は料理で肉を刻むのとは全く異なる。それはとても弾力が強く、中途半端な力では押し返されてしまう。ほとばしる血液が銀色のナイフと華恋の白い肌を赤く染めた。

 命が物体に変わる。華恋は両手を合わせる。

「南無阿弥陀仏、ごめんなさいね」

「馬ならぬ、鹿に念仏だな」

 ライフル銃を背負った十蔵じゅうぞうが娘を笑い、立ったまま両手を合わせた。


 華恋が父親に射撃を教わったのは高校生の時だった。好奇心を満たすためであり、青春のもやもやを晴らすためでもあった。あくまでもスポーツのつもりで、後に獣を撃つことになるとは考えてもいなかった。

 猟をすることになったのは、夫を連れて実家に戻り、父が所有する温泉旅館〝朧館おぼろかん〟で働くことになったからだ。そこで提供する来年一年分の鹿や猪、あるいは熊や雉、兎などを、晩秋から冬の短い狩猟解禁期間に狩らなければならなかった。


「笑い事じゃないわよ。命を奪ったんだから」

 肌に着いた血をタオルでぬぐいながら、父親を非難した。

「鹿であれ牛であれ、魚や野菜であれ、人間は他の命を頂いて生きている。それは自然の営みだ。大袈裟に考えたら何も食えなくなるぞ」

「それは分かっているけど……」

 十蔵が鹿のかたわらに屈んで角を持ち上げた。鹿はピクリともしない。細胞レベルでは生きているのかもしれないけれど、一個の鹿としては物と化していた。

「五十キロぐらいか……。三年目にしてビギナーズラックだな」

「ラッキーなんかじゃないわ」

 鹿の不幸を自分の幸福にすり替えたくなかった。

「弱肉強食、生存競争だ。大昔は、時に人間だって食料だった」

 十蔵がロープで鹿の前足を縛り始める。

「本当?」

「三国志にあるだろう。たしか曹操そうそうが反乱に失敗して逃げていた時のことだ。森の中の一軒家に宿を求めた。そこの主は、もてなす食料がなかったので妻を殺してその肉をふるまった。それを知った曹操は、気持ち悪がるどころか感激したらしい」

「おぞましい話ね」

「華恋は、現代人の価値観で考えるからそう思うのだ。いや、現代人だって、人間を食って生き延びた例はある。戦争や飢饉ききん、山岳での飛行機事故でそうしたことがあったはずだ。もちろん人肉を食べることをいさぎよしとせず、餓死した人間も多い。どちらを選ぶかは、個人の問題だ……」

 華恋は嫌な話を聞かされたと思った。

「……ヨッシ、華恋、お前が運ぶんだ」

 鹿の足を縛り上げた十蔵が、その腹を軽くたたいた。

「私が?」

「自分が射止めた獲物だろう。たまには最後まで面倒を見ろ。将来、俺が狩りに来られなくなったら、一人でやらなければならないのだぞ」

 そう諭され、前足を縛ったロープを握る。自分の体重より重いと思われる鹿を背負うようにして肩に引きずり上げた。肩口から鹿の顔が生えたようだ。獣の体臭と血の匂いがした。

「これ、何の罰ゲームよ……」

 誰かを呪いたい気持ちだった。

「婿殿が一緒に来てくれたら楽なのにな。どうせ、ろくな仕事もないのだろう?」

 前を歩く十蔵が言った。

「お父さん、彼の前でそんな話は絶対しないでよ」

「どうしてだ? 男なら、女房の食いぶちを稼ぐのが当たり前だろう」

「男が女を食わせるなんて時代じゃないでしょ。それに彼、まだ病気なのよ」

 そう応じながら、鹿をズリズリ引きずるようにして運んだ。しゃべりながら歩くと息が上がる。落ち葉で足は滑り、ロープが手のひらに食い込んだ。

「なんだ……、会社を辞めて治ったのではないのか?」

「一度は良くなったんだけど……。思うような小説が書けないからかな。また変なのよ」

 父親との距離が開く。

「弱い男だな。別れたらどうだ?」

 十蔵が振り返った。華恋がへばっていたら代わるつもりのようだ。それが分かるから意地になって足を進めた。

「繊細なのよ。病気なんだもの、見捨てられないわ」

「華恋の方が男のようだな」

 十蔵が苦笑した。

「また、そんなことを言う。……職場では、そんなこと言わないでよ。完全にセクハラ、……アウトだから」

 苦笑するのは華恋も同じだった。彼女から見れば、十蔵のジェンダー認識は原始人並みだ。

「何がアウトだ……」

 彼が不満げに応じ、前を向いて歩き出す。


 乗ってきた軽トラックが小道にあった。

「ヨイッショ……」

 鹿を荷台に積み込んだ時には汗だくだった。膝が笑っている。

「よくやった。さすが、俺の娘だ」

「身に余る獲物を狩るのは考えものね」

「分相応とはいうが、多少は背伸びをしないとな。でないと成長が止まってしまう。困難に直面すれば、何がしかの工夫が思いつくものだ」

 十蔵の声を背中で聞きながら助手席に座った。手のひらにロープの縄目模様がくっきりと写っている。それを見ながら、ミラージュが乗り越えてきたものを思えば、このくらい耐えられなくてどうする、と思う。泥水を飲むようにして生き延びた彼らは、腐った肉も食べたらしい。人肉だって食べたかもしれない。想像すると胃がむかついた。

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