第14話 ほんの数時間の嫌な思い

 その後、事情聴取で呼び出しを受けることはあったが、それ以外は平穏に日々が過ぎ二週間ほどが経過した。美優も肩の荷が一つおりたせいか、以前よりも自然に笑うようになった。しかし、家事が一段落したときや食事を終えたあとなどに、どこか虚ろに遠くを見つめることがあった。その目が何を見ているのかは、想像に難くない。


「かーつーらーぎー!」


「うわっ!?」


 突然大声で呼ばれ、穂乃香は声を上げた。我に返ると、午後の陽射しが差し込む勤務先の休憩室で、コーヒーを片手に立っていた。テーブルを挟んだ向かいでは、モード系ブランドのスーツを着た笠原が同じくコーヒーを片手に呆れた表情を浮かべている。


「いくらこれから飛び込みのクレーム対応に行くからって、そんな露骨に浮かない顔をしたままなのは良くないよ」


「ああ、そうでした、ね」


 説教に軽く頭を下げ生返事をすると、ダークカラーの紅を塗った口元に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。


「おっとぉ? そのかんじは仕事じゃなくて、件の彼女関係でまた何かあったのかな?」


「ええ、まあ。何かあったというか、何も進んでないというか」


「え? でも、事情聴取とかはあらかた終わったんでしょ?」


「ああ、はい。そっちの件はもうそれほど面倒なことはないんですが、向こうの家族の件で」


「あー、そっか、例の親父さんね」


「はい」


 二人は苦々しい表情を浮かべると、ほぼ同時にコーヒーを口にした。


「一切、話題には出ないんですけどね。でも、それがかえって意識しているように思えるというか」


「まあ、話を聞く分に、簡単に切り捨てるってことはできないんだろうね」


「でしょうね。まあ、それなら然るべき病院に入院させるべきなんでしょうけれど……」


「ただ、あれって月々結構な金額が必要なんでしょ?」


「みたいですね。あとで控除とかもできるみたいですが、それでも初期費用は結構かかりますし」


「鞄一つで出てきた女の子一人に任せるには、ちょっと荷が重い話だわね」


「ですよね。私のほうもこの間の弁護士費用とかで、すぐにそっちまで支援できるかといったら、さすがに難しくて」


「だろうね。私もできるのは、病院にぶち込む算段がついたら車を貸すくらいだわ。薄情な先輩でごめんよ」


「いえ、手伝うと言っていただけるだけでも、ありがたいですよ」


「それはどうもね。あ、そうだ。彼女のお母さんとか、頼れないの?」


「それは……どう、でしょうね」


 煮えきれない返事をしてから、穂乃香はコーヒーを一口飲んだ。美優から聞いた断片的な話では、母親はある日突然居なくなったということだったが、連絡を試したのかどうかまでは聞けていない。この状況を打開するために、連絡をする価値はあるのだと思う。

 それでも、その提案をしようとするたびに身の上を聞いた時に見た表情が脳裏をよぎり、結局口に出すことはできなかった。


「ま、その辺はまず彼女さん本人で、けりをつけないといけないところか」


「そう、なんですよね。何か力になれれば、とは常々思うんですけどね」


「へえ? 常々、ねぇ?」


 濃いめのアイメイクを施した目が、冷やかすように穂乃香の目を覗き込んだ。


「なんですかその表情は?」


「べっつにー? じゃあ、私はそろそろ仕事に戻るから、恋する乙女も頑張りたなさいよ」


「だから、その乙女っていうのはやめてください!」


「あら、それはごめんあそばせ。それでは、ごきげんよう。クレーマーさんに泣かされないようにねー」


 笠原は軽口を叩きながら手をヒラヒラと振って休憩室から去っていった。

 これから向かうのは付き合いの長い取引先だ誰が泣かされるものか。そう思いながらコーヒーを飲み干し、穂乃香も休憩室を後にした。

  

 それから、穂乃香は予定通り取引先に出向いてクレーム対応を済ませ、勤め先には戻らずに自宅に戻り――


「まだ、泣かされた方が楽だった」


 ――疲れ切った表情で、スーツを着たまま居間のソファーに横たわった。

 

 その傍らで、美優がテーブルに夕食を並べながら困惑した表情を浮かべる。


「えーと、お疲れさまです。桂木さんが弱音を吐くなんて、珍しいですね?」


「うん。今日クレーム対応にいった取引先で、酷い目に遭って……」


「酷い目?」


「そう、到着するなり担当者が号泣しててさ。他の方が宥めてくれてたんだけど、私何もしてないのに、って繰り返すだけで状況が全然つかめなくて」


「なんだか、いきなり厄介なかんじですね」


「ああ。ひとまず、うちの業務管理システムが入ったデスクトップパソコンのところまで案内されてたんだけど……、画面に見たこともないエラーメッセージが出ててね」


「それは、恐ろしいですね」


「全くだよ。ひとまず、エラーメッセージの写真を技術部に送ったらすぐに『メーカーでも修理できないかもしれない故障だ』って返ってきたよ」


「うわぁ」


「ほんと、うわぁ、としか言いようがないよね……。それで、私は悪くないって泣き続けてる担当者を一時間くらいかけて、話がなんとかできるくらいまでに落ち着かせたら……、電源が入ってる状態で電源コードに躓いて、そのままコードが引き抜けて強制シャットダウンになったと」


「えーと、それが故障の原因だったんです、ね?」


「そう。ただ事情を説明しても、担当者さんが納得しなくてさ。家のノートパソコンはいきなりコンセント抜いても大丈夫なのにとか、お宅のシステムが悪さをしたせいだろとか、きっと皆が私を陥れるためにやったんだとか、いつも私だけ目の敵にされてるとか、最終的にはエラーに関係ない愚痴まで延々と聞かされてね……、完全に落ち着く頃には辺りが真っ暗」


「あー、それは、お疲れさまでした」


「本当にね……」


「よく、途中でキレませんでしたね」


「まあ、少しは腹が立ったけどね。それでも、根気よく愚痴を聞いたおかげで機嫌が直ったみたいで、代替品のパソコンをうち経由で買ってくれることになったから」


「ああ、それなら良かったですね」


「そうだね。まあ、ほんの数時間嫌な思いをしたとしても、それ以上の見返りがあればこっちのもんだから」


「……それ以上の見返り、ですか」


 不意に美優の表情が強張ったように見えた。しかし、それを確かめる前に猛烈な眠気に襲われた。

 大きなあくびを終えると、目の前の顔には苦笑が浮かんでいた。


「明日は土曜日ですし、そのまま寝ちゃいますか?」


「ん、いや、さすがにスーツがシワになるから、シャワー浴びてベッドに行くよ」


「じゃあ、桂木さんの分の夕飯は、冷蔵庫に入れておきますね」


「うん、ごめん、ありがとう。じゃあ、おやすみ」


「おやすみなさい」


 穏やかな微笑みに見送られながら、穂乃香は居間を後にした。


 一夜が明け、穂乃香は枕元から伝わる微かな振動で目が覚めた。手探りで震動源のスマートフォンを見つけ重いまぶたを開いて画面を見つめる。そこには、美優からのメッセージが一件、通知されていた。


「母に会ってきます」


 予想外の内容に、眠気は一気に遠のいた。慌てて寝室を出て家の中を探したが、姿はどこにもない。

 ただトーストの香りだけが、微かに居間に残っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る