第4話 息抜きの付き合い方

 気分が晴れないまま週末を過ごした穂乃香だったが、月曜日を迎え気持ちを切り替えて営業部の定例会議に出席していた。


「先週末ロイヤルホテル様から正式に、客室管理システムの受注をいたしました」


 報告をすると上司の目が輝いた。


「よくやった桂木! 今月のノルマ達成どころか、大幅に上回ってるじゃないか!」


 会議室に称賛の声が響き、社員達の視線が集まる。


「ありがとうございます。これからも、ご期待に添えるよう精進いたします」


「ああ、期待しているぞ! しっかしノルマぎりぎりや未達成ばかりのなか、本当によくやってるよ。他のヤツらも、見習ってほしいもんだな」


 周囲からの視線に羨望と敵意が混じる。しかし、穂乃香は目を向けることもなく上司に一礼して席に座ろうとした。

 まさにそのとき。


「ああ、そうだ桂木。金曜の夜、アベックのケンカに巻き込まれてただろ?」


「……え」


 突然の言葉に、背中に冷水をかけられた感覚に襲われた。


「女の子が殴られそうになったところを身を挺して止めてたよな」


「なんで、その件を」


「俺もヤングたちの流行に遅れないよう、SNSで何がナウいのかチェキってるんだよ。そしたら、楡駅でのケンカの動画が流れてきて」


 迂闊だった。あれだけ人が集まっているのだから、動画を投稿する者もいただろう。取引先との商談が成立した直後にトラブルに巻き込まれるなんて、たるんでいるにもほどがある。そう詰られても、おかしくない。


「えーと、その件につきましては、その、なんと言いますか……」


「いやぁ、さすが我が社のエースだな!」


「……え?」


 予想に反して、上司の顔には満面の笑みが浮かんでいる。


「見ず知らずの女の子を助けるなんて、なかなかできないぞ! そういうバイタリティーが仕事の成果にも繋がってるんだろうな!」


「……ありがとうございます」


「おう、この調子でこれからも頑張れよ!」


「はい」


 一礼して席に着くと、満面の笑みがコクリと頷いた。


「じゃあ、次、菊池」


「はい」


 次の報告が始まっても、しばらくは恨みがましい視線をあちらこちらから感じた。

 妬む時間があるなら、自分と同じように仕事に必要な法令や言語の勉強、取引先の業界研究や担当者とのコミュニケーションに使えばいい。最低限のことすらせずに愚痴を吐いているだけだから、いつまでも結果が出せないんだ。そう思いながら、他社とのコンペで負け上司にどやされる同僚の報告という名の言い訳に耳を傾ける。


「アンタのご高説だと、私がこんな状況なのも全部自分のせいなんでしょ?」


 不意に、美優の言葉を思い出した。


 そのとおりだ。自分の境遇を嘆いているヤツらなんて、全員ただの努力不足だ。どやされている菊池だって、取引先とのコミュニケーションをもっと取っていれば他社に出し抜かれることもなかった。だから、間違いなんてないはず。


 それなのに、心の中のもやは晴れない。


「……定例会議は以上。今週もみんな頑張れよ!」


 上司の言葉と共に一同が一斉に頭を下げて会議は終了した。同僚達に続いて出口へ向かう。


「……この、クソ偽善者」


 背後から微かに菊池の声が響く。

 偽善者はともかく、クソとはなんだクソとは。そんな反論の代わりに、小さなため息が口からこぼれる。

 穂乃香はすぐに自席に戻る気になれず、コーヒーサーバーの設置された休憩室へ足を向けた。


 天井が高く明るい休憩室のテーブルで、ブレンドコーヒーの入った紙カップが白い湯気を立てる。穂乃香はそれを冷ましながら一口飲み込んだ。香りは全く無いが強い苦味に少しだけ気が引き締まる。

「お、桂木じゃん。お疲れー」


 機嫌の良さそうな声に振り向くと、光沢のある緑色のワンピースを着た男性が笑顔を浮かべていた。


「お疲れさまです、笠原さん」


 穂乃香が勤める会社は、新入社員にかならずシステム開発部門で研修をさせる。そのときに、教育係だったのがシステム開発部長の笠原だった。営業部に配属予定の社員達が適当に過ごす中でも真面目に課題に取り組んでいたためか、当時から何かと目をかけられている。ひょっとしたら、当初は爽やかなイケメンという印象だったのが、ある日急に目の前の様な姿になったあとも今まで通りに接しているのが良好な関係が続いている理由かもしれない。


「聞いたよ、ロイヤルホテルの案件、とれたんだってね。おめでとう!」


「はい。ありがとうございます」


「よっし、お祝いに今度昼ご飯をおごってあげよう」


「ありがとうございます」


「いえいえ。契約取れたのに浮かない顔をしてる後輩は、放っておけないからね」


「え?」


 突然の言葉に心臓が跳ねた。心の中にもやはかかったままだが、表情には出していなかったはずだ。


「ふっふっふ、図星だね?」


「ええ、まあ。笠原さんて、本当に鋭いですよね」


 営業部に配属されて間もない頃、そこそこ大きな案件を取ったせいで一部の同期や先輩達から陰口を言われたり、連絡事項をわざと伝え忘れられたり等の嫌がらせを受けていたことがあった。そのときも、下らないことだと表情を変えずに相手にしていなかったが、休憩室で世間話をしていた笠原だけがいち早く異変に気づいた。その後、営業部門長やコンプライアンス委員会を巻き込んでのちょっとした騒ぎとなり、嫌がらせをしていた相手は厳重注意となった。


 その騒動の際に笠原が加害者たちに言い放った「自分の努力不足を棚に上げて、成果を出した人間の足を引っ張るなんて恥を知れ」と言う言葉が、穂乃香の自己責任論に拍車をかけたきっかけにもなっている。


「ま、私も色んな人と関わってきてるからね、桂木の愛想笑いくらいなら、すぐに見破れるよ。それで、何かよっぽどのことがあったの?」


「余程のこと、ではないと思うんですが」


「あらあら、歯切れの悪い言い方だね。話して楽になるんなら、聞くよ」


「仕事に関係ないことでも、大丈夫ですか?」


「大丈夫、大丈夫」


 目の前に笑顔が浮かんだ。辺りを見渡しても他に社員の姿はない。


「ありがとうございます。実は――」


 穂乃香は週末に起きたことを話しだした。もちろん、美優とはじめて会ったときのことは伏せて。次第に笠原の眉間にシワが寄り、口角は下がっていった。

 事情を話し終えると、休憩室に二人分のため息が響いた。


「それはまた、災難だったわね」


「はい。でも、ケガとかは無かったんで。ただ、なんだかずっと気になってしまって……、彼女とはそこまで親しいわけじゃないんですけどね」


「まあ、そんな修羅場に遭遇したなら、気にもなるでしょうよ。でも、これ以上は深入りしない方が、身のためだと思うよ」


「そう、ですよね」


 軽く頷き、コーヒーの最後の一口を飲む。やはり、強い苦味しか感じない。


 失禁のことについて口止めさえできれば、あとのことは自分には関係ない。

 それでも、週末に見た美優の顔が頭の片隅にこびりついている。

 殴られる寸前でも、眉一つ動かさない派手な化粧を施した顔が。


「……ま、どうしても気になるなら、息抜きの相手くらいにはなってあげてもいいんじゃない? 仕事と自己研鑽にしか興味のない桂木が、それだけ惚れ込んでるんだから」


「別に、惚れ込んでるとかそういうわけじゃ……。第一、向こうも女性ですし」


「性別なんて今日び大した問題じゃないでしょ? それに、何回か女の子と付き合ってたじゃない。いつも、最終的に金銭的にあてにされた挙句に男に浮気されてるけど。でも、大丈夫よ! 今度こそきっと上手くいくわ!」


「もう、しつこいですよ。違うって言ってるじゃないですか」


「あら、そう。それじゃあ相談にかこつけて、私と親睦を深めたかったかんじかな? バツイチで子持ちを狙うとはなかなか渋い趣味してるね」


「違います。あんまり変なこと言うと、コンプライアンス委員会にセクハラとして報告しますよ」


「ふふん、照れちゃって。でも、まあ、私は桂木とくっつくにはいい女過ぎるからね。オムツが取れたら相手してあげてもいいわよ」


「なんで私がオムツなんて穿かないとないんですか!?」


 声を上げた途端、向かい合った顔から笑みが消え緑色のワンピースの肩が跳ねた。


「そ、そんなに怒らないでよ。ちょっとしたお茶目な冗談じゃない」


「……そうですね、すみません。それで息抜きの相手というと、具体的にどうすればいいのでしょか?」


 穂乃香は逸れてしまった話の軌道を元に戻した。


「まあ、そんなに堅苦しく考えないで、愚痴やら弱音やらを聞いてあげるだけでもいいんじゃないかな。ほら、お客さんにも居るでしょ? 商談で仕事の愚痴を延々とこぼすだけなのに、なぜか『いやぁ、本当に助かりましたよ』とか言って案件くれる人」


「まあ、たしかに……、たまに居ますね」


「でしょ? まあ、その彼女さんがそう言うタイプかは分からないけど、状況を吐き出せる相手が居るだけでも多少の救いにはなるでしょ」


「救い、ですか」


「そうそう。さてと、結構まったりしちゃったから、そろそろ仕事に戻ろうか」


「あ、はい」

 ヒールを鳴らす笠原に続いて休憩室を後にする。

 心の中のもやは、少しだけ薄くなった気がした。


 午後になり、穂乃香は商談のため取引先へ向かった。

 既に導入済みのシステムのサポート契約に関する話だったため、話がこじれることはなかった。しかし、話し好きの担当者の愚痴に付き合ううちに日はどんどん傾いていった。


 ようやく開放されよく磨かれた腕時計を見ると、十七時を回っていた。日報は帰ってから家で仕上げよう。疲れた足を進め帰宅ラッシュの駅にたどり着く。見上げた電光掲示板の行き先には、「楡」と表示されている。美優と出会った百貨店のある、あの駅の名前だ。

 今から乗り込んで百貨店に向かえば、はじめて会った日と同じくらいの時間にトイレに入ることができるだろう。


「……」


 気がつけば自宅とは逆方向にも関わらず、楡行きの電車に乗り込んでいた。

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