第2話 下げたくなくても下げないといけない頭

 プレゼンの帰りに大失敗を犯してから、ちょうど二週間が経った日の夕方。


「本日は誠に申し訳ございませんでした」


 同じ取引先のホテルの通用口で、穂乃香は深々と頭を下げていた。


「いえいえ、こちらこそ申し訳ございません」


 青白い顔をしたホテル側の担当者も同じく深々と頭を下げる。


「まさか打ち合わせの時間を一時間も遅く連絡していたなんて……、本当になんとお詫びすれば」


 本当にそのとおり。そんな言葉を飲み込んで、穂乃香は笑みを浮かべつづける。


「いえ、それは社を出る前に確認の連絡を怠った私の責任ですから。それなのに皆さま打ち合わせにご出席くださって、恐悦至極ですよ」


「そう言っていただけると、大変助かります」


 青白い顔が微かにほころんだ。


「本当に取引先が桂木さんのような方ばかりなら、いえ、なんでもありません。ともかく、打ち合わせの通り御社に発注をする方向で話を進めますので」


「ありがとうございます! 何かご不明な点がございましたら、いつでもご連絡くださいね」


「そう言っていただけると助かります。次の打ち合わせまでにいくつか質問をしてしまうと思いますが、その際はよろしくお願いしますね」


「はい! それでは、本日はこれで失礼いたします」


「はい、どうぞお気をつけて」


 穏やかな表情に見送られながら路地を通り抜けて大通りへ出ると、よし、という呟きが自然と漏れた。今回の感触ならば案件の受注はほぼ間違いないだろう。雑踏を進む足取りも心なしか軽くなる。

 

 そんな中、件の百貨店が目に入った。


 彼女との食事の後、すぐにSNSを開き、失禁についての投稿が無いことをチェックした。その後も毎日、出社前、昼休み、就寝前にチェックを行ったが、懸念していた投稿は一切見つかっていない。


 それでも、受注がほぼ確実となったこの段階で、バラされたりしたら。


 不意に、学生時代の記憶が脳裏をよぎった。大手商社に内定が決まっていたゼミの先輩が個人経営の居酒屋で泥酔して、他の客に執拗に絡んだり、テーブルを汚したり、皿やグラスを割ったりといった迷惑行為に及んだ。

 その様子を店員がSNSに投稿していた。

 瞬く間に個人情報が特定され大学に問い合わせが殺到し、内定が取り消しになり、先輩は卒業前に学内から姿を消した。


 穂乃香は身震いすると、よく磨かれた腕時計を確認した。時刻は先週とほぼ同じ。

 気がつけば、足は百貨店へと向いていた。


 眩しい照明に照らされた店内を進み、隅にある薄暗いトイレに入る。今日も他の利用者の姿はなかった。それに、彼女の姿も。

 穂乃香は小さくため息を吐いて、その場を去ろうとした。まさに、そのとき。


「失礼いたします」


 抑揚のない声と共に、紺色の作業服を着た彼女が姿を現わした。

 彼女は穂乃香を一瞥すると軽く頭を下げて個室に足を進め、トイレットペーパーの補充に取りかかった。


「先週の約束、覚えてる?」


「ええ、そうですね」


 返事はあったが、相変わらず振り返ることはない。


「ほとぼりが冷めたころに、SNSに投稿するつもりじゃないよね?」


「だから、SNSはやってないって言ったじゃないですか」


 作業を続ける背中から、面倒くさそうな声が返ってくる。


「信じられるわけないでしょ。そんな話」


「そうですか。でも、やっていないものは、やってないですし」


「本当? もしも、嘘だったら」


 ――ブー、ブー、ブー


 会社にクレームを入れる、と続けようとした言葉は突然響きだした振動音に遮られた。


「すみません。ちょっと、待ってください」


 彼女は眉を寄せると、作業服のポケットからスマートフォンを取り出した。


「はい。佐々木です……。ええ、そうですか……」


 時折頭を下げながら発せられる声は酷く緊迫している。


「申し訳ございません……、何度もご迷惑をおかけしてしまい……。はい、それでは……」


「何かあったの?」


「……別に、大したことじゃありませんよ。ただ、もう行かないといけないので」


 スマートフォンをしまうと、彼女は穂乃香に目もくれずトイレから去っていった。


「あ、待って!」


 制止の声を聞くこともなく、紺色の作業服の背中はどんどん遠ざかっていく。

 後を追おうとした途端、小さな音を立てて腹が動いた。先週の失敗を踏まえて下痢止めを飲んで打ち合わせに望んでいたが、その効果が切れたようだ。ここで無理をすれば、また同じことになりかねない。

 穂乃香は小さく舌打ちをして、薄暗いトイレに戻った。


 百貨店の外に出ると、外は会社や学校帰りの人でごった返していた。人混みに紛れて進むが、足取りは重くなっている。


 あいつ、またSNSをやっていないなんて嘘を吐いて。

 いや、ひょっとしたら、本当なんだろうか?

 何にせよ、SNSはチェックし続けて、何かあったらすぐに対処しないと。


 あれこれと考えているうちに駅にたどりついた。


「うるせぇな! だからなんだってんだよ!」


 突然、怒鳴り声が辺りに響いた。見ると、改札口の一角に駅員が集まっている。


「このやろう、ふざけやがって!」


 どうやら、酔っ払いが暴れているようだ。穂乃香はすぐに視線を外し、改札へ足を進めようとした。


「佐々木さん、落ち着いてくださいね。もうすぐ、娘さんがいらっしゃいますからね」


 不意に聞こえた駅員の声に、再び足が止まった。駅員が口にした、佐々木、という名字。たしか、つい先ほど聞いたばかりのはずだ。


「なんだぁお前! なに見てやがるんだ!」


 視線に気づいた酔っ払いが、駅員を振り払って近づいてくる。

 白髪交じりのボサボサとした頭に、首元がよれたティーシャツと薄汚れたハーフパンツ、爪の伸びた足にはサンダル。アルコールと汗と垢の混じった体臭が漂っている。逃げなくてはと思ったときには酒焼けした顔が目の前にあった。


「ふざけんなこのやろう!」


 生臭さい口臭に、吐き気がこみ上げてくる。


「別に、バカにしてなんていませんよ」


「ウソつくなこのクソッタレ!」


「な、いきなり、なんてことを言うんですか!」


「うるせぇ! だいたい、おまえらみてぇなヤツらがいるからな! 俺はな! みんなみんな、バカにしやがって!」


 悪臭と共に、要領を得ない怒鳴り声がまき散らされる。さっさと払いのけてこの場を去ってしまいたい。しかし、運悪く転ばれでもして取引先の人間に見られたら、厄介なことになるかもしれない。


「お父さん」


 背後から聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、丈の短いワンピースを着た金髪の女性が立っていた。


「……どうも」


 穂乃香に軽く会釈だけすると、彼女は駅員の前まで足を進めた。


「本当にいつもいつも、もうしわけありません」


「美優! なに謝ってるんだ! だいたいコイツらがな! 俺をな!」


「分かったから。少しだけ大人しくしてて」


「なんだと!」


 怒鳴り声を無視して、彼女は金髪の頭を下げつづける。

 ついさっき自分が取引先でしてきたのと同じように。


「すみません」


 駅員の声に、穂乃香は我に返った。


「もう大丈夫ですので、今のうちに」


「ああ、どうも」


 促されるまま軽く会釈をし急いで改札を通る。


「だから少しだけ大人しくしてってば」


「だまれ! だまれ! だまれ!」


「お二人とも、落ち着いてください」


 背後から二人の言い争いと、それを宥める駅員の声が聞こえた。


「ふぅ」


 シーリングライトに照らされた明るいリビングの中、穂乃香は革張りのソファーにもたれ掛かっていた。大画面のテレビにはビジネスニュースが映っているが、内容に集中できない。少し気分を変えようと、テーブルに置いたスマートフォンを取りSNSを開いた。


 楡駅、大島百貨店、トイレ。


 入力しなれた単語で検索をかける。やはり、自分の失禁に関する記事は出てこない。ため息を吐きSNSを閉じようとしたが、再び指を動かした。


 楡駅、酔っ払い、トラブル。


  今日も楡駅で、また酔っ払いのおっさんが喚いてて草

  うわw楡駅でまた酔っ払いが暴れてるw絡まれてるおばちゃん哀れっっっww

  楡駅でまた酔っ払いが騒いでたけど、娘さんぽい人いつも大変そうだなぁ……


 今日のトラブルと思われる記事がいくつか見られた。おばちゃんという単語に多少腹は立ったが、幸いにもトラブルを写した写真は見当たらない。


「続いては、失業者支援に関する……」


 ため息を吐きながらテレビを消し軽く目を閉じた。目の前の闇に、駅で遭遇した光景が浮かぶ。


 あの子、いつも、と口にしていたな。

 SNSでも、「また」、という言葉が多用されていた。

 あの父親の様子、まともに働いているようには見えなかった。

 それなら、あの子は気楽なアルバイトなんかじゃなくて。


 穂乃香は軽く首を振ると、目を開いて寝室へと向かっていった。

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