Thunberg spirea

小野塚 

第1話 首ヲ請フ

雪柳の、白く小さな花々がまるで

振り子の様に幽幻世界と現実世界との

陌間で揺れる。

 暗い山道へと入る細い道の傍らに

白く揺蕩う花々の長い枝が寄り添い

揺れて、嫋やかな枝先が 何か を

示唆する。


私は、いつかこの昏く緩い坂道を

雪柳の白い花枝に導かれながら、

白い闇の世界へと逃れ出て行くのを

密かに夢見ていた。





母とは上手く行っていなかった。



夫を早くに亡くした母は、その分の

愛憎を 一人娘 に全て注いだ。


先祖代々引き継いだ莫大な資産管理の

多忙にも関わらず、何かと娘の行動に

過干渉して来る母を、私は常から

鬱陶しく感じていたのだ。


女学校で漸く出来た友達と一緒に

お喋りに花を咲かせる事も叶わない。

学校が終われば真っ直ぐ家に帰るのが

私の日常で、少しでも遅れると途端に

母の機嫌は悪くなった。



「雪江さん、今日は女学校では何が

御座いましたの?少しばかり戻りが

遅いのではないかしら。」

 帰宅した側から、母が言う。いつも

書斎で仕事をしているか応接間で来客と

話をしているか。私が帰っても母の姿を

見る事など滅多にないというのに。


「…申し訳御座いません、お掃除の

当番で…それで少し…。」

「そう。いつもはそれ程かからない

でしょうに。」母はそう言うと、私を

疑っと見詰めます。

「…その後で…少しだけ、お友達と

お喋りを…。」母に見詰められると

何一つ抗弁する事は叶わない。

 もとより、理由など求められては

いないのだから。

「心配致しました。」母はため息を

一つ吐く。それを承知の上だからこそ

私の抵抗は、頭を擡げた側から

崩れ落ちて行く。

「申し訳ありませんでした。今後は

重々、気をつけます。」

「解っているとは思いますが、決して

線路の向こうへ行ってはなりません。」



 首を、取られてしまいます。



母はいつもそう言って締め括るのだ。


幼い頃からずっと言われ続けていた

事だから、何ら奇怪しい事だとも

思っては来なかった。





そう、幼い頃。



私はよく御屋敷の庭で 迷子 になる

子供だった。


海鼠壁がぐるりと巡る屋敷の広い庭は

幼子が迷うには充分だったのだろう。

 私はいつも一人だった。屋敷の中には

執事やメイドも居たけれど、彼等には

彼等の仕事があった。ましてや、母は

いつも多忙で、幼い娘の遊びに付き合う

暇など少しもなかった。



櫻の盛りから間をおいて、手鞠の様な

桃色の花々を咲かせる八重桜。その

華やかな木々の下、流れ揺蕩う雪柳。

 射干や雪ノ下、目を惹く鮮やかな

紫花菜が、其処彼処に可憐な花々を

覗かせる。

 石蕗の葉に陽の光が反射して煌々と

揺れ、その低い葉陰には

 蛇ノ髭、十薬、露草に隠れた蛇苺。

檜扇、野芥子、紫蘭。蒲公英。



意味もなく駆け廻る私の手から、

赫い手鞠が転げて落ちる。


手鞠は曾祖母様の形見であり、私の

一番のお気に入りだった。

赫い絹糸を幾重にも巻いた綺麗な

手鞠を、私はいつも肌身離さず持ち

歩いていたのだ。



赫い手鞠は、転がって石蕗の陰に。

私は慌てて走り寄る。


「…もし。」突然、声をかけられ

幼い私は驚いて視線を上げる。

 其処には昏い影が。陽の光を遮って

揺ら々と立っていた。

「八重の孫娘か。」昏い影は、黒い服を

着た男の様だった。声を聞いた時には

男とも女とも、わからなかったけれど。

「…誰ですか?」私の問いはどうやら

アンビギュアスに届いたのだろう、

黒い影は含み笑う。

「この鞠は、八重の物であろうに。」

いつの間にか黒い男の手には

私の手鞠が。「八重って…誰ですか?

その鞠は曾祖母様から頂きました。

曾祖母様のお名前は、巴です。」


私がまだ物心が付くかどうかの時に

亡くなられた曾祖母様。殆ど記憶には

ないけれど、確かに御手就らこの鞠を

頂いた。その不確かな 憶え は

幼い私を強硬にした。

 それ以上に、大切な手鞠が見ず

知らず男の手にある事が、私を戸惑いと

焦燥へと追い詰めていた。


「返して下さい。」小さな声で、だが

毅然とした気持ちで私は言った。

「返して欲しいのか?」「はい。」

「…こんな 悍ましいモノ を。」

男は嘲笑った。

「私は巴が嫌いだ。名前からして

忌わしい。だからあの女が大切にして

いた物を貰う事にした。ところが…。」

昏い影の様な男は、勿体付ける様に

私の赫い手鞠を目の前に掲げた。

「……ッ!」私は手を伸ばしたが

触れる事も叶わず、次第に涙が湧いて

来るのを感じた。


「それ程までに返して欲しいか。」

呆れたような、それでいて何の感情も

持たない声で、男が呟く。

「返して!曾祖母様から頂いたの!

返してよ!」涙が溢れ落ちるのも

形振りかまわず私は叫んだ。


鳥達の声は、もう聞こえない。白い

暗闇の中で私は泣いていた。

 森閑とした庭の中、唯一別世界へと

切り取られた空間で幼い私は、昏い

影と泣きながら対峙していた。


「これは元々、私のモノなのだ。

それを浅ましくも醜く損壊してまで

あの女が手元に遺したモノなのだ。

しかも、忌々しい咒まで付与して。」

「返して!それは曾祖母様から頂いた

大切な物なの!だから返して下さい!

お願いだから…返して!」





「返してやろう。」



男の手から、赫い手鞠が転げ落ちる。


私は慌てて走り寄る。大切な美しい

赫い手鞠が、土で汚されないように。




「いずれ、改めて貰い受ける。」



私が顔を上げた時にはもう、

昏い影の様な男の姿は


  何処にも見当たらなかった。






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