第1話 一匹のイカ、走り出す。

 水平線の向こうから、イカが走ってくる。

 イカは泳ぐものだろう? 走れるわけがない。いや実際に走っている。十本の足をばたつかせ、懸命に地面を蹴っている。海からすでに500メートルは進んでいる。


 イカは追われている。何から追われているのかといえば、その姿はよく見えない。

 砂埃が立ち上がる。見えてきた。イカの背後にはゴブリン達が迫ってきている。そういえば季節は夏だった。


 イカは辺りを見回しながら解決策を練っている。開けた道の両脇には椰子やしの木が並び、いかにも南国と言った風景が続いている。このままだと奴らに食われる。必死にならざるを得ない。どこまでも続く黄金の道、抜けるような青い空だった。風はぬるく、体の水分が抜けていきそうだ。


 イカ刺しだろうか。イカはイメージする。

 イカ焼きだってありえる。生きたまま食われる? それは御免をこうむる。イカにだってイカ権があろう。ちゃんと灰になるまで火葬してほしい。成仏させてほしい。南無阿弥陀仏。


 このまま走り続けて何になる? 両脇には耳が独特の形をした子どもたちが走っていた。エルフの子どもたちだ。エルフよ、イカを助けてやってくれ。声は届かない。エルフとゴブリンがすれ違いざまに舌打ちをする。仲はきっと悪いに違いない。

 この対立の図式が末代まで続くエルフ・ゴブリン闘争の幕開けであったことを彼らは知らない。

 イカはそう直感してエルフの少年の背中に飛びつき、腕でしっかりと抱きつく。エルフの少年は構わずに海へと走る。ゴブリンの大将が言った。


「おい、お兄ちゃん。そいつを置いていきな。そのすごく柔らかそうなのを置いて行けって言っているんだ」

 

 エルフの少年たちは振り向きざまに矢を射った。ゴブリンの大将の頬に一文字の傷が出来る。


「こいつ、ガキだと思って調子に乗りやがって……!」


 エルフ・ゴブリン闘争の幕開けである。

 イカはほくそ笑んだ。

 イカがこの海に漂っていることに気づいたのは3日前だ。この海の潮の匂いは前にいた海とは違う。イカはそう直感していた。ただし、イカにとってなぜこの海がちょうどいいのかは、強いイカ原理が働いているに違いないとイカは判断した。


 ゲット・イセカイド! スクイード! なんだか語呂が良いじゃな。イカだけに。イカはこれはちょっと寒いなと気づいて、思考を別に働かせる。

 イカは漂っている。流れに身を任せていれば、世界は優しいに違いない。そう思ったところで網にかかった。なにやら腐ったような緑色の男達が筏でやってきていた。木造のようだった。

 網には見たことのない色とりどりの魚がかかっていた。イカはにゅるにゅると魚の間を移動した。透き通るような白い足がなまめかしく動く。


 暑い。きっと夏なのだろう。

 水はやや温かい。

 これからどうすんだ? ぎしぎしと音を立てて筏は岸に着いた。男達の顔は鬼のようだった。イカは初めてみるその種族をじっくりと観察した。筋肉質な黒い腕。隆起しごつごつとした角。広い背中。布切れみたいな粗末な服だ。

 本当に前にいた世界の生物ではない。異種族だ。

 イカは隙を見計らって脱走した。大脱走である。イカは何故か自分の足がとても速いことに気がついた。足の感覚が強靭なゴムのように感じられた。ゴブリンの男がイカの様子に気がついて、仲間と一緒に追いかけてくる。

 イカは腕を懸命に振る。遠くにエルフの少年たちが見えてきていた。



 エルフ・ゴブリン闘争が一段落して、エルフの少年たちは得意げにゴブリンの角に穴を開けて笛にして遊んでいる。無邪気にも程がある。美しい見た目でありながら、すこし残忍である。

 イカはそのままエルフの少年の背中に絡みついたまま、エルフの村に辿り着いた。少年エルフの家に着くと、木の扉の向こうに今は使われていない暖炉が見えた。奥から、背の高い透き通るような肌の女のエルフが姿を現した。髪はきらきらと輝くようで、琥珀のような美しさがあった。翡翠ひすい色のまなこに怒りが燃えている。

 少年エルフはこの顔が嫌いであるらしい。きっと怒られると思っているのだろう。


「まーた、ゴブリン村の子たちと喧嘩したでしょ、PTAを通じて連絡が回ってきたの。あんなに学校では仲良い癖に、演技でもしてるんだぁ? お姉ちゃんには本当のこと話してよねって言ってるじゃん」


 PTA、Parentペアレント-Teacherティーチャー Associationアソシエーション。父母教師会のことだ。全くこの少年エルフは学校では賢しらであるらしい。


「姉ちゃん、うるさいなー! 今日は、獲ってきたから許してよぉ」


 、だと? イカは気がついた。少年エルフは背中のイカを振りほどいた。


「何なの? この悪魔みたいな生き物は」

 

 イカの足がうねうねしている。


「ゴブリンの夕食だったらしいよ」

 

 少年の弟エルフはさっぱりと答えた。

 イカは焦り始めた。イカは汗をかかない生き物であるが、人間であれば大量の汗をかいていただろう。


「まぁ、僕も初めて見るんだよね……。焼いたり揚げたりしたら、食べれるんじゃないかな?」


 イカ揚げだと? そんな独自の郷土料理を発明しないでほしい。イカはどうにかして、考える。脳がオーバーヒートしてしまいそうだ。ジタバタと足を動かす。


「こいつ、暴れるなよ……お姉ちゃん、ナイフを」

「やっぱり変よ。こんな悪魔みたいな生き物を食べるなんて無理! ムリ、ムリ、ムリ!」


 お姉ちゃんエルフ、グッドジョブ! イカはそう思った。


 いいから、と少年エルフがナイフを突き立てようとする。イカを捌く気だ。いや、その角度から突き刺したら、らめぇぇぇ! ぐちゃぐちゃになっちゃうから。優しくしてよね。

 

 ナイフがギロリと輝く。し、死ぬー!


 「やめてくれ……」


 美しい低音バスだった。姉エルフと弟エルフは顔を見合わせた。姉エルフの頬はどこか上気している。弟エルフは目を丸くして叫んだ。


「こいつ、喋ったよ! お姉ちゃん!」

「私も聞いたよ。何、喋るの? この生き物? 何、何、何? それにしても、なんて甘い声なのかしら……」


 姉エルフはうっとりした。イカは驚きを隠せない。イカは思考のままに言葉を並べ立てる。これまでのことをじっくりと二人に語って聞かせる。読経のような、低い言葉に色気が漂う。


「だから私を食わないでほしい。私には知能がある。それも、ずっと高い」


 こっそりと頭の良さを自慢するイカだった。

 

 日が暮れ始めていた。


 今日は姉エルフの寝台で彼女と一緒に眠ることにする。寝息をたてる姉エルフ。イカをむぎゅっと抱き締めた。柔らかい感触と甘い匂いがする。イカは目を開けたまま眠る。脳が休まればそれでいい。

 イカはここがどこなのか、考え始めていた。何も、本当に何も覚えていない。覚えているのは母なる海だけだ。姉エルフが寝返りをうつと、イカは彼女に倒された。むぎゅーとイカは潰れる。弾力のある体で助かった。

 窓から月明りが差し込んでいる。やけに明るいのは月が三つあるからだ。どうやら遠くに来てしまったようだ。イカは姉エルフの穏やかな顔を見つめていた。

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