調停役あかりの妖かし奇譚

ウヅキサク

風鈴

 わたしの祖母の家には、入ってはいけない蔵があった。広い庭の隅に取り残された様にぽつんと佇む、小さな白と黒の鞍。そこはどこか近寄りがたい雰囲気を持ち、そして同時に幼い子供の好奇心を否応なしにくすぐる魅力があった。

 ある時、普段は固く閉ざされているその扉が、うっすらと開いていた。

 周りには誰もいない。

 好奇心に駆られたわたしは忍び足でその蔵に近づいて――。


***


 チリン。


 季節外れの風鈴が涼しげな音を奏でた。水谷あかりは、透明なガラスの中で泳ぐ金魚を一睨みするとぶるりと身震いをした。

 縁側の外、庭の隅の方では彼岸花が毒々しい赤色を撒き散らしている。

「あかり、何してるのー? いつまでもそんな所いないで少しはお掃除手伝ったらどう?」

 よく言えば風情のある、悪く言えば古臭くてかび臭いオンボロな家の奥から、母親の苛立った声が聞こえてきて、あかりは鼻に皺を寄せた。

「ちょっと、聞いてるの?」

 腰に手を当てて割烹着を着た母親が、どすどすと足音荒くあかりに近づいてくる。

「聞いてるよ」

「なら返事くらいしなさい」

 あかりは露骨にそっぽを向いて舌打ちをした。母親のわざとらしい、盛大な溜息が癇に障る。

「あかり、何がそんなに気に入らないの? 言いたい事があるならちゃんといいなさい」

 気に入らない事? そんなの、今の状況全部に決まってるじゃん。

 あかりは心の中でそう毒づく。本来なら自分は今頃遊園地で友達と楽しく遊んでいるハズだったのだ。それが、ロクにあった事も無い祖母が死んだ事で全部パーになった。あかりは母親に気がつかれない様に部屋の奥に置かれた遺影を睨みつけた。

 遺影の中で、ニコリともせずに無表情で写真に写っているのはあかりの祖母、水谷灯子である。遺影の奥には薄翠の棺桶が置いてあり、火葬は明日になるそうだ。今まさに、あそこに死体が入ってると思うと何とも言えない不快感が胸中に湧きあがる。

「……あかり、おばあちゃん亡くなっちゃったのよ? 悲しくないの」

 母親のいかにもな悲哀を帯びた声にあかりはうるさい、と言い返しそうになる。

これが常日頃自分を可愛がってくれ、仲が良く、優しくていいおばあちゃんだったら悲しみだって湧いてくるのだろうが、生憎あかりは祖母にはほとんど会った事が無いし、ましてや喋ったことなど数える程しかない。そもそも祖母の家に来ること自体が片手の指で足りる程しかなかったのもあるけれど、祖母はいつだってあかりに対して冷たかった。

 いつからだっただろうか、祖母に可愛がられた記憶がまるでない訳ではない。しかしある時から急に祖母はあかりに対して冷たくなり、そしてそれ以前の記憶はどこか霞みがかった様に判然としない。

 祖母について覚えているのは眉間に皺の寄った顰めっ面と、「うろうろするんじゃありません」「大人しくしてなさい」といったピシャリと冷たい言葉だけ。何故かは分からないけれど、あかりは祖母に嫌われていた様だった。父親なんかは「母さんは気難しい人だから」と苦笑するけれど、祖母のあかりを見る目は険しくて、今すぐにでもあかりをこの家から追い出したい、とでも言うかのようで、だからあかりはある程度大きくなってからはほとんど祖母の家には寄りつかなかった。

 口を尖らしてそっぽをむくあかりの態度に愛想をつかせたのか、母親はまた大きな溜息をついてあかりに背を向けた。

「もういいわ。好きにしなさい」

 言われなくたってそうするつもりだよ。あかりは憂さを発散させるように、風鈴を軽く手ではたいた。

 プチリ、と嫌な音がした。

「あっ」

 日に焼けて色褪せた水色の紐は見た目以上に劣化していたらしく、叩いた衝撃であっけなく千切れた。慌てて手を出すも当然の如く間に合わず、床にたたきつけられた風鈴は澄んだ音を立てて砕け散った。

「あかり!」

 一度は溜飲を下げた母親が目を怒らせて振り向いた。これはこの後じっくり説教パターンだな、こりゃ。あかりは絶望的な気分で足元の風鈴だったガラスの欠片に目を落とす。と、するりと赤い何かがもの凄い速さであかりの足元を通って庭に向かった……様に見えた。あかりは思わず振り向いて赤い何かを目で追おうとした。が、

「どこ見てるの!」

 母親の怒声でやむなく視線を正面に戻す。目の前にあるのは怒りで耳まで真っ赤になった母親の顔。

「どうしたんだ?」

 怒鳴り声を聞きつけた父親が、場違いに能天気な声を出してひょっこりと顔を出した。しかし母親に睨まれ即座に状況を把握すると、顔を強張らせて触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに顔を引っ込めた。お父さんの薄情者、都合の悪い時にはすぐに逃げやがって。八つ当たりと自覚しながらも、あかりは父親の消えたあたりを恨めしげに見つめた。


 結局夜になっても母親との空気はぎすぎすしたままだった。父親はそんな二人を何とか宥めようと分かりやすくオロオロしていたが、あかりは敢えてそれを無視してさっさとご飯を済ませ、母親とはロクに口もきかないまま布団に潜り込んだ。重たくてほこり臭い布団。寝苦しい事この上ない。

「……全くあの子ったら……!」

 母親が隣の部屋で父親相手に愚痴る声が聞こえて、あかりは布団で頭を覆い隠した。途端に、埃が鼻をくすぐってくしゃみが勢いよく出る。

「っもう! これだからおばあちゃん家は嫌い!」

 あかりは小声で悪態をついて、布団から顔を出した。


 やがて隣の部屋の電気も消えて、両親も寝てしまったらしかった。微かに父親のいびきが聞こえてくる。

 どうしよう、全く寝れない。

 あかりはゴロンと布団の中で寝がえりを打った。バッグからスマホを引っ張り出して時間を確認すると、スマホの時計は無情にゼロを映し、日付が変わったことを示している。

 明日……というか今日は祖母のお葬式がある。昨日の今日で葬式中に居眠りでもしようものなら、母親がまたどれほど怒ることやら。

 あああ、もう。

 枕に突っ伏そうと、古典的に羊を数えようと、スマホでヒーリングミュージックをかけようと、睡魔が訪れる気配は一向にない。こんな寝にくい布団で寝てるせいだ。大体わたしはベッド派なんだよ。と心の中で悪態をつき、スマホをバッグの上に放り投げてあかりは布団を頭から被って、身体を丸く縮こまらせた。と、またもや埃が鼻に入って――。

「っくしゅ! ……ああもう、ホンットに最悪!」

 あかりは布団からガバッと身を起こし、ティッシュを荒っぽく引き出した。鼻をかんでごみ箱に放り投げた所で、あかりの眼に奇妙なモノが飛び込んできた。

 ほの赤い、掌ほどの大きさをした光が、障子の裏をゆっくりと動きまわっている。

「お、お母さん? お父さん……なの?」

 そんな訳ないと思いつつ、両親を呼んでみた。答えは無く、淡い赤の光は微かに明滅を繰り返しながらゆっくりと動いている。

「何なのよ一体……!」

 怖いけれど、これの正体が何か分からないまま放っておく方がもっと怖い。あかりは意を決して、障子をほんの少し開けて、外の様子を窺った。

 暗く冷えた廊下の中程に、赤色の光の玉が浮かんでいた。光の玉は、ゆっくりと廊下の先に漂っていき、途中であかりを待つかのようにふわふわと揺れている。

「……何なのよ一体……」

 あかりは先ほどのセリフを繰り返しながら恐る恐る廊下に出て、光に向かって歩き出した。赤い光の玉が何かは全く分からないが、何故か禍々しい様子は感じられない。むしろその淡い輝きを見つめていると、不思議と心が穏やかに凪いでいくようだった。

 光の玉はそのまま一定の距離を保ちながらあかりを先導するように漂い、昼間母親と喧嘩をした縁側に繋がる窓の所で、フッと窓をすり抜け、消えてしまった。慌てて駆けよって、窓を開けて縁側に出る。

 光の玉はどこにも見当たらない……いや、庭の奥の奥、闇に沈み、黒く染まった彼岸花の影に隠れるように、淡く光を放っていた。縁側の下には、昼間脱ぎ棄てたままの靴が転がっている。

 あかりは靴を履いて庭に降り、にじり寄る様にして光の玉に近づいた。光はもう逃げる様子もなく、ふわふわとその場に漂い続けている。

「灯子様」

「ひっ!」

 光の玉に手を伸ばした瞬間、唐突に声がかけられた。あかりは伸ばした手を慌てて引っ込める。

「灯子様」

「だ、誰?」

 彼岸花の奥、光の玉の更に奥に、何か黒い影がある。あかりの全身に鳥肌がたった。

「よもや約束を忘れたとは仰いますな、灯子様。今日この日、盟約に従い約束は蘇った。灯子様、約束を果たしていただきまする」

「灯子……?」

 それは、死んだばかりの祖母の名前である。

「ちがっ、わたしは灯子じゃ」

「何を仰られるか」

 シューシューと何かの隙間から空気が漏れている様な音が響く。

「その気配、匂い、滲み出ていらっしゃる御力……間違えようもございませぬ。お戯れを。――よもや」

 シューシューと鳴っていた音がピタリと止む。

「灯子様がそんな事をなさるとは思いませぬが、まさか、まさかこの後に及んで、約束を違えようなどと……そんな事は、ございませぬよね?」

 黒い影がぞろりと動き、僅かにあかりの方に近づく。全身の毛が逆立つような感覚。――この影は、怖い。恐ろしい。

「そっ、祖母……灯子は死にました!」

 カラカラになった口で、辛うじてそれだけ言い放つ。今すぐにでも、回れ右をしてこの場から逃げ出したいのに、身体が石になったかの様にピクリとも動かない。

 またシューシューという音が響く。

「下手な嘘は止した方がよろしいかと。……灯子様、貴女ならお分かりになりましょう? 灯子様によって我の方が正しいと示された事を知ったら、あのマカミ共がどんな顔をするかと思うと、我は楽しみで楽しみで溜らないのです。我慢がならないのです。さあ灯子様、早う此方へ。一刻も早く約束を――」

 彼岸花の奥から影が膨らみ、そしてあかりに向かって伸びた。咄嗟にそれを避けようとしてバランスを崩し、尻餅をついた。体の下で、彼岸花が何本かへし折れるのが分かった。

「あな嬉しや! 灯子様、それでは行きましょうぞ!」

 次の瞬間、心底嬉しげな声とともにあかりの視界が反転した。体の下の地面が一気に抜け落ちる様な感覚。ただでさえ暗かった視界が完璧な闇に飲み込まれ、下から吹き上げる空気が髪を揺らす。

 ――違う、下から風が吹き上げているのではない。わたしが、下に向かって落ちているんだ。

「嫌あああああーっ!」

「どうしたのですか、初めての時ですらそんな悲鳴は上げなかったでしょうに。ささ、我につかまってくだされ。逸れてしまっては事でございますから――」

「きゃあっ!」

 ひんやりと湿った何かがあかりの腕に触れた。反射的にそれを突き飛ばし、その何かから距離を取ろうとがむしゃらに手を振り回した。

「灯子様!」

 焦った様な声が、急に遠くなる。

「何をなさっているのです! モノノケミチで逸れてしまっては、たとえ貴女といえど身の安全は――!」

 声がどんどん遠ざかっていくと同時に、あかりの意識もどんどん薄れて行く。

「灯子様! 嗚呼、何という事。お主、早う灯子様を――」

 声がどんどんと遠ざかっていくのに比例するように視界に黒が滲んでいって――そのまま、あかりの意識はプツリと途絶えた。

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