007 焼肉

 履修登録を終え、次はバイト探しだ。仕送りはあるが、使える金は多い方がいいし、社会経験というものを積んでおくと就活で有利ではないかと考えたのだ。

 その日は午前のオリエンテーションのみで終わり、昼食後に喫煙所にいたら櫻井さんと出くわした。


「おっ、瑠偉くん。もう終わり?」

「はい。櫻井さんは?」

「ボックス行こかなと思って。瑠偉くんも行こうなぁ」

「まあ……ええですけど」


 今日の櫻井さんは目に眩しい真っ青な生地に白い水玉のシャツだった。これが似合うのはお笑い芸人の他には櫻井さんだけだろう。

 ボックスには誰もいなかったので、櫻井さんが管理人から鍵を受け取って中に入った。


「大城ちゃんまた色々持ってきてくれたみたいやな。冷蔵庫パンパンや。瑠偉くんアイス食うか?」

「いいですね。もらいます」


 ソーダ味のアイスをかじりながら、僕は櫻井さんに聞いた。


「櫻井さんはバイトしてるんですか?」

「してへんよ。小遣いで足る。瑠偉くん何かするん?」

「はい。そのつもりで色々探してて」

「ほな、焼肉屋どうや? よう行く店の大将が春から募集かける言うてたわ」

「焼肉屋ですか……」


 飲食店は候補にあった。すでにいくつかの居酒屋をブックマークしていたのだ。


「あそこ美味いねん。まかないつくで」

「食費浮きますね……良さそう……」


 櫻井さんは店のレビューが載ったURLを送ってくれた。彼との連絡のやり取りはこれが初めてだ。店の場所は僕のマンションから割と近かった。ただ、価格帯はとても大学生には手が届きそうにないもので、僕は櫻井さんの生活ぶりが気になってきた。


「櫻井さんの実家って……お金持ちなんですか?」

「せやなぁ……そうなるかぁ……」

「どんなお仕事されてるんです?」

「病院」

「えっ」

「父親が病院の院長で母親が事務長」

「わーお」


 それなら大学に六年間通わせてもらえる理由も、あの広くて綺麗な部屋も納得がいった。しかし、ある疑問も浮かんだ。


「櫻井さんは医者にならなくてええんですか?」

「ああ、兄貴がなるからええねん。俺は理系の勉強さっぱりでなぁ。渚は別にええよ、って自由の身や」


 正直、羨ましいと思ってしまった。うちは父親が中華料理屋を経営しており、母親が店員として働いていた。僕は一人っ子だからと何とか大学までの学費は出してくれたが、仮にきょうだいがいればとても無理だったと何度か聞かされたことがあった。


「瑠偉くん、俺の話はええねん。そこ、どない? 大将優しいからテスト期間中とか都合聞いてくれると思うで」

「試しに受けてみます。ありがとうございます」


 すると、こんなことになった。


「ほな今晩食いに行こう! そこで話したらええわ。大丈夫やて金なら出したるから」

「ほんまにええんですか?」

「一人暮らしも長いと、誰かとメシ食いたくなるんよ。瑠偉くん目の保養にもなるし」

「……童貞は売りませんからね?」

「そこは気が変わるまで待つわぁ」


 夜まで時間があった。一旦帰って、店の前で集合することになった。焼肉屋「北斗七星ほくとしちせい」。まるで料亭のような落ち着いた和風の外観だった。


「五分前には集合か。偉いなぁ瑠偉くん」

「櫻井さんも時間は守るんですね」

「何や、トゲのある言い方やな。まあええわ。入ろう」


 予約は櫻井さんがしてくれていた。年配の女性が案内してくれた。


「渚くん、また来てくれたん。ありがとうねぇ」

「今日はバイト候補連れてきたんです。この子」

「ああ! あの話、覚えててくれたんやね」


 僕はぺこりと頭を下げた。席に通され、櫻井さんと向かい合わせに座った。

 肉は櫻井さんが注文して焼いてくれた。どれも分厚くて、タレも甘辛くて美味しくて。僕はどんどん食べた。しばらくして、ここの店主であるという男性が席に来てくれた。


「あっ、大将! こっちがバイト探ししてる西川瑠偉くんです」

「どうも、お肉美味しく頂いています」

「ありがとう。渚くんの紹介なら大歓迎や。条件やねんけど……」


 あれこれ話して、本当にここの焼肉屋に世話になることになった。入るのは金曜と土曜の夜。週末の人手が足りていなかったらしく、歓迎された。形式上、履歴書は出してほしいとのことだったので、次に来た時に渡す約束をした。

 会計の時は先に店を出るよう言われたので、果たしていくらかかったのかわからなかった。


「ごちそうさまでした、櫻井さん」

「うん、瑠偉くんの食べっぷり見てたら俺も気持ちよかったわぁ。この後うち寄ってく?」

「……遠慮しときます」

「うわぁ、警戒されとう!」

「そりゃそうですよ」


 櫻井さんと別れ、コンビニで履歴書を買い、駅前で証明写真を取った。行動は早い方がいい。帰宅して、手早く書いてしまった。

 明日からはいよいよ講義が始まる。一回生のうちに取れる単位は取っておきたいから、けっこうタイトなスケジュールだ。

 考えなければならないのが、本当にボーカルを引き受けるかどうかということ。あの三人は、ちょっと押しの強い人たちだけど……あれだけ歌を褒められると嬉しかった。

 僕はシャワーを浴びながら、グレーキャットの歌を口ずさんだ。あのスタジオで。あの数分間で。僕は確かに何かを掴んだ。けれど、あともう一歩踏み出せるきっかけが欲しかった。

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