風の船は物語を呼ぶ

西野ゆう

第1話 風船の夢

 空は青い。当たり前だけど、空は青いんだ。

 特にこの年のこどもの日は、今まで生きてきた中でずば抜けて青い空だった。そう記憶に刻み込まれたのは、この後に目にする光景が、そうさせたんだと思う。

「それでは皆さん、準備は良いですか? 五秒前から行きますよ!」

 来年から通う事になる中学校のグラウンド兼町民グラウンドに、カウントダウンの声が響く。

 大勢の参加者がざわつき出した。

 この後に飛ばす風船を、海から駆けあがってくる風に飛ばされないように両手を高く上げて掴んでいると、無防備になった僕の脇を隣にいたタカシが指でつついた。思わず風船を手放しそうになって、僕はタカシを睨みつけた。

「なあカケル、何書いたか教えろって」

 僕はクラスメイトのいたずらをかわしながら、風船を飛ばしてしまわないようにしっかりと紐を握っていた。

 風船。この風船に僕は、少しの希望を乗せていたと思う。

 でもそれは初めての経験だったし、流れ星に願いを込めるような、不確かで淡い希望だった。

 風船を握り締めていたこの物語の始まりは、もう随分前になる。僕たちが小学六年生の時だ。

「ごーぉ!」

 この日、千人の子供たちが、メッセージカードと花の種を風船に付けて空に飛ばすイベントが行われていた。

「よーん!」

 集まった子供たちも、マイクを通した声に合わせ、大きな声で叫んでいる。

「さーん!」

「オレはあのゲームソフト欲しいって書いたぜ」

 あーあ。タカシの奴。こっちは聞いてもいないのに勝手に喋りやがって。

「にーぃ!」

「ゲームって……サンタクロースじゃあるまいし」

 カウントダウンが進む中、僕は心の中で自分の書いた手紙の内容を反芻しながらタカシの手紙を笑った。

「いーち!」

「ぜろーぉ! はい、飛んでけえ! うわあ、凄く綺麗ですねえ! みんなのメッセージがお友達に届きますように!」

 マイクを通したイベントの司会者の声は、多分安物だと思うスピーカーからキーキーとハウリングの音を間に挟みながら、この町中に聞こえているんじゃないかというくらいに大きく響いた。

「僕のは内緒。言ったらなんだかつまんないよ」

「なんだよそれ。減るもんじゃないのにさ」

 願い事を話すと叶わない、そんな迷信を信じているわけじゃない。ただ言うのが恥ずかしかっただけだ。「早く大人になりたい」そんな事書いてもすぐに大人になれるわけない。分かってはいたけど、あの時の僕には、それ以外に書く事が見つからなかった。

 ただどうしようもない気持ちを何かにぶつけたかっただけ。人に見られる事なんて意識してもいなかった。ましてやそのひと言を見て、その人がどう思うかなんて想像できるはずもない。

 僕が風船に乗せたメッセージは、風船を拾う誰かに向けたものではなく、空高くにいる両親に向けたものだったのかもしれない。

 真っ青な空に舞う色とりどりの風船。僕の視界から青を遮り、一面にはじける色の洪水。

 でも、それはほんの一瞬で、次の瞬きの後には、青く大きなキャンバスに描かれた点描画が現れた。

 その点は、小さくなりながら帯を作って北東の空に延びてゆく。初夏の晴天に現れた天の川だ。

 僕は、手紙に書いた願いも忘れ、その光景に見とれていた。僕の風船はどれか、もう見分けることもできない。

「おい、お前ら何書いたんだよ?」

 タカシと並んで風船の行方を見守っていると、後ろから嫌な奴の声がした。

「あ、安田君……」

 安田君は、僕たちのひとつ年上の中学一年生。友達と遊ぶんじゃなくて、友達で遊ぶような意地悪をする。

 今日もいつも通りに取り巻きを連れて、自然に割れてゆく子供の波の間を闊歩している。

「どうせあれだろ? ガキらしくおもちゃが欲しい、とか書いたんだろ?」

 安田君の横に居たひょろっと細い身体に、眉毛までシャーペンでひと書きした程度しかないヤツがそう言うと、安田君も笑って付け加えた。

「それか、彼女欲しい、とかな。ははは」

 相手にしたくない。

 反論しても意味がない。ただからかいたがっている相手に何を言っても逆効果だ。ここは相手にせずに去るのみ。

「タカシ、行こうか」

 僕たちに無視された安田君は、明らかに不機嫌な顔になった。その顔を見ないように反対に向かって歩き始める。

「おい、無視すんなって!」

 背後からそう叫ばれても、振り向かず三歩程歩いた。

「ふんっ!」

 安田君の気合いを放つその声が届いた直後、僕の横で何かが割れる音がして、頬が少し濡れた。

 音がした方を見ると、タカシの服はびしょ濡れで、その足元にはマーブル色の破れたゴムがくるりと巻いて散っていた。

 安田君がタカシに向かって、ヨーヨー釣りで取ったヨーヨーを投げつけたんだとすぐに分かった。

 タカシの顔を見ると、呆れた風に笑っていた。

「ちょっと暑くなってきたから気持ち良いな。帰ってからゲームやろうぜ」

 やっぱり相手にされないっていうのは虐めっ子にとって屈辱的なんだろうか。それとも単に面白くないのか。安田君は少ないボキャブラリーを駆使して、僕たち二人に悪口を浴びせ続ける。

 無視作戦を続行して、タカシと二人で振り向く事なく歩いていたけど、僕が不覚にも、安田君の言ったひと言に反応してしまった。

「パンツまで濡れたか? 早く帰ってママに着替えさせてもらうんだろ!」

 足を止め振り向いた僕の袖口を、タカシは必死に引っ張って止めようとしてくれた。

 それが無かったら、僕は肩から安田君に向かって突進していったかもしれない。もちろんそうしたからといって、安田君は軽々とかわして反撃しただろうけど。

 突進したい衝動はタカシのおかげで堪えたけど、お腹の底から押し上げる空気が声帯を震わせて口から吐き出されるのは止められなかった。

「僕には母さんも父さんもいない! ヤスデ君たちと違って、着替えぐらい自分でやる!」

「ヤスデ」っていうのは安田君の事を陰で話す時に使っているあだ名だ。当然安田君もその事を知っていて、もし「ヤスデ」なんて言っている所を見られたら、問答無用で手足が飛んできていた。

 でもこの時は何も起きなかった。安田君の横で、その取り巻きの一人が何か耳打ちしている。あれは確か同じクラスの女子の兄さんだ。

 なぜだろう。両親がいないっていうのはそんなにも「かわいそう」な事なのかな。子供たちからだけじゃない。大人もみんな、僕に両親がいない事を知ると、気持ち悪いくらい優しくするし、先生たちだって必要以上に気を使っているのが分かる。

 両親の顔すら覚えていない僕にとっては、祖父母がずっと親代わりで、それを不思議だと思った事も嫌だと思った事もない。

 でも、そうやって「かわいそう」だと思われるたびに嫌な気分になった。

 そしてこの時みたいに、「かわいそう」である事を利用する自分自身には、嫌な気分を通り越して、自分自身を串刺しにしたくなるくらい後悔してしまうんだ。

 お爺ちゃんがいつか泣いている僕に言っていた事がある。

「子供の間はどうやったって親がいないってことを、自分も周りも意識してしまう。でも、カケルが大人になれば、そんな事も関係なくなる。周りにも親を亡くす人も当然増えてくるしな。人はいつか死ぬんだよ。でも、できれば親よりも長生きしてほしい。知良は爺ちゃんより早く死んでしまった。カケルには爺ちゃんより遅く死んでもらわんと」

 知良っていうのは僕のお父さんで、お爺ちゃんの息子。

 お爺ちゃんが言った通り、大人になれば両親がいない事も平気になるのだろうか。

 平気……。

 僕は今でも平気だ。そうじゃないのは周りの人たちだけだ。

 カケルって名前の枕詞に「両親がいない」とか「かわいそうな」なんて心の中で付けて名前を呼ぶ人たちだ。

「安田、またお前は小学生を虐めてんのか!」

 見回りに来ていた中学校の先生が現れると、安田君は一緒にいた友達の事なんかは構わず、一人いち早く駆け出して、その場から姿を消した。

 先生は安田君を追わずに、僕たちの方に近づいてきた。

「うわぁ、びしょ濡れだな。大丈夫か?」

「大丈夫です。濡れただけで怪我してませんし」

 僕たちは何も悪い事はしていなかったが、徐々に人の目が集まってきたのがいたたまれなくなって、先生にお辞儀をして、その場から逃げ出した。

 タカシの家へと向かう途中、視線を空に向けると、そこにはもうひとつの風船もなく、ただ青い空がどこまでも広がっていた。

 早く大人になりたい、大人になってこんな自分を変えたい。

 そう願う僕は、そのどこまでも続く青空の下にいて、自分がどこに立っているのか見えていなかった。


 あの風船を飛ばしてから二週間が過ぎた頃、クラスメイト達の中には風船に乗せたメッセージに対する反応が返ってきていて、その話題にみんなどこかソワソワしていた。

 まだ「個人情報」なんて言葉も生まれてなかったようなあの頃。風船に付けたメッセージカードには、学校の住所じゃなくて、飛ばした子供たちの名前と住所を書き込む欄があったんだ。

「カケル、ちょっと聞いてくれよ!」

 月曜日の朝、僕が教室に入ると、男子生徒の輪の中心にいたタカシが、大きく手を振って僕を呼んだ。その顔から、何か自慢するつもりだなとすぐに分かった。

「どうしたの? なんか嬉しそうじゃん」

「まあ、嬉しいっていうか、ちょっと微妙なんだけど」

 微妙という割には、めいっぱいの笑顔だ。

「オレのあの風船。拾ったお爺さんがさ、例のゲーム送ってきてくれた」

「え、マジで?」

 リアルサンタクロースが割と身近に居たって事だ。それも、こんな季節外れに。

「でもタカシ、あのゲーム先週買ったんじゃなかった?」

「そうそう、それな。だから微妙なんだよな。まさか本当に送ってくるなんて思わないじゃん? それがなあ、送ってくるなんてな。実際の話、週刊誌の懸賞に応募するより、風船飛ばした方がよっぽど確率が高いんじゃないかとさえ思ったね」

 確かにそれは一理あるかも、なんて僕も思った。

「それ、もうお礼の手紙書いた?」

 風船を飛ばす目的。それはもちろん懸賞の代わりなんかじゃない。普通にしていたら出会わない人との繋がりを作って、交流を図るって事のはずだ。

「あったりまえじゃん。母さんがさ、こんな高いの送ってもらって申し訳ないって、お礼に箱いっぱいの夏ミカン送った」

 長崎の西の端にある僕たちの住む田舎は、有名なミカンの産地だ。何かあると、県外の人へのお礼はミカンって相場が決まっている。毎日の学校帰りがミカン狩り状態の僕らには飽きた物でも、都会の人たちには頗る評判が良いらしい。

「そっか。でも、もう買っちゃってた事は内緒にしないとね」

「もちろんだよ。あ、あとさ、タクマが何書いたか知ってる?」

 隣のクラスのタクマは、学年で一番スケベだって自他共に認めている。

「ううん。聞いてない」

「それがさ、ヤスデが『彼女が欲しいとか書いたんだろ』なんて言ってた時は、そんな事書くバカはいないって思ってたけど……」

「え? タクマ書いたの? 彼女が欲しいって」

 それは色々恥ずかしいな。ビックリするようなかわいい女の子が拾って、とか色々妄想してたんだろうな。

「うん。それで、送ってきたんだって」

「返事来たの? うわあ、マジかよ……」

 一瞬前まで「恥ずかしい」なんて考えていながら、返事が来たと聞いてちょっとタクマが羨ましくなった。

 僕たちにとっては、近くのダイヤモンドより、遠くのサファイヤ、って言ったらいいのだろうか。ちょっと離れた所に親戚以外の仲が良い女子がいるってだけで、なんだかミステリアスでドキドキするようにできている。

「それがさ、送られてきたのが手紙だけじゃなくて、プレゼントも一緒に入ってたんだって」

 僕は益々羨ましくなった。いきなり向こうからプレゼント? そんな幸運が転がり込んでくるものだろうか。

「そのプレゼントって何だと思う?」

 そう聞いてきたタカシは羨ましそうな様子は微塵も見せず、何やらニヤついていた。いいや、笑いを堪えている感じだ。

「何? もったいぶらないで教えてよ」

「それがさ……」

 ふふふっと笑いを堪えきれずに吹き出した後、タカシが教えてくれた問題のプレゼントは、健全な小学六年生の男子が貰っても、どうしようもないものだった。

「リカちゃん人形。それも新品」

「ふへっ?」

 その予想外のプレゼントに、僕もたまらず吹き出した。

「『彼女が欲しい』の返事がリカちゃん人形って! 何、そのパンチの効いた親切……ぷぷっ! たまんないや」

 世の中にはホント変わった人がいるなあ。どこからともなく飛んできた風船に付いていたメッセージカード。そこに「彼女が欲しい」って書いてあって、わざわざリカちゃん人形買って送る人がいるなんて。

「そのリカちゃん送ってくれた人もお年寄りだったみたい。お年寄りって、どんな子供にも甘いのかな?」

 確かにそうかもしれない。けど……。リカちゃんだよ?

「そうだね。あ、でもオノじいさんは全然甘くないじゃん。みんながみんなじゃないでしょ。タカシにソフト買ってくれた人も、タクマにリ、リ、リ……リカちゃん……、リカちゃん人形送ってくれた人も特別だよ」

「オノじいさん」は小野さんって名前なわけじゃなくて、いつもミカンを勝手に盗って逃げる僕たちを、薪割りの手斧を持って追いかけてくるお爺さん。あのお爺さんだけは本当に怖い。

「でもオノじいさんも自分の孫には甘そう」

「ああ、そうかもね。前にちっちゃい子を三輪車に座らせて、それを喜んで押してあげていたのを見た事ある」

 うちのお爺ちゃんも確かに優しいもんな。お父さんだったら、もっと怖かったのかな。そんな事考えていたら、とうとうタカシが僕にまたあの質問をした。

「カケルには何も届いてないの? ってか、そもそも何をお願いしたの?」

 ほらな。そろそろ聞かれると思った。

「だから、あのカードは別に何か欲しい物を書くためのもんじゃないじゃん」

「まあな。で、どうしても何書いたか言いたくないわけ?」

 あまりにも頑なに言わない僕に、タカシの口調は、遠慮気味になっていた。

 ヤバい。かわいそうな子だから、両親がいないから、それに関係する事書いたって思われちゃったかな。タカシからそう思われるのが嫌だった僕は、話しても良いかなって気持ちになった。でもやっぱり恥ずかしい。

「どうしても言いたくないって訳じゃないけど……。分かった。もし拾った人から返事が来たら何書いたか教えるよ」

 タカシやタクマには返事が来たけど、僕には来ない。きっと誰もいない山の中か、海にでも落ちたんだろう。その方が良い。もしあのカードを拾った人から返事が来たとしても、お爺ちゃんやお婆ちゃんには見せられない。見せたら僕が何を悩んでいるか分かってしまう。僕はあの人たちの前では元気でかわいい孫じゃないといけないんだ。

 前に一度挫けそうになった時、お婆ちゃんは自分を責めて寝込んでしまった。

 もう二度と同じ間違いをしちゃいけないのに、あんな願いを書いてしまった。

 早く大人になりたい……。

 もしあれをお婆ちゃんに見られたとしても、早く大人になって恩返ししたいから、だとか誤魔化せば何も心配掛ける事はないだろう。

 でも、それこそ大人には程遠い子供だったこの時の僕は、それを滞りなくこなせる器用さを持ち合わせていなかった。


 学校から帰る時、郵便配達のバイクとすれ違った。僕の家にも、見知らぬ誰かからの手紙が届けられたのだろうか。僕は家までの坂道を走って帰った。上り坂でもすいすい足が前に出てゆく。ランドセルの中で上下に暴れる筆箱の振動も、背中越しに聞こえるその音も心地よかった。

 家に着く頃には、汗で背中が濡れていた。

 門に付けられた郵便受けをそっと開く。

「……お爺ちゃんのだけか」

 僕の名前が書かれた手紙はひとつもない。

 次の日も、その次の日も、僕宛ての手紙は届かなかった。

 夏休み前にもなると、学校でも風船に付けたメッセージの話題は、誰も話さなくなっていた。

 そして、僕たちが小学校を卒業する頃には、そんなメッセージを風船と共に飛ばした事も、みんなの中で、ただの想い出になっていた。

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