なんでもイイから時計を作らせてくれ
ryuzu
幸福論
比較して得られた幸せなんぞ、ただのゴミである
端的に言ってしまえば、
「あいつよりも優秀だ」
「あいつよりも高スペックだ」
という浅ましい考えでしかない。私はこれを、嫌悪する。
「私は優れているから幸せである」という価値観は、歪だ。いや、征服欲や支配欲、自己顕示欲を満たすのであれば、それでいいのだろう。
ただ、それは「私は悲しい人間だ」と、叫んでいるだけだ。その在り方は一見すると、独立しているように見える。だが、それは「比較するだれか」が必要なんだ。
そして、常に「自分よりも下の人間」しか見ない。成長することもなければ、誇れることでもないだろう。
しかも、人に依存しきっている癖に、それに気が付かないのだ。
ただ、誰もが「私優れている」というアピールにすがる。無意識で誰かと比較し、優れていることで、自分の存在意義を見出すのだ。自分は、幸せであると思うのだ。
そんな、在りもしないマヤカシに幻想に縋っている。
その縋っている事実から目を背けて「私は優秀だ」「崇めろ」と叫ぶのだ。なんとも薄っぺらく、儚く、醜いものだ。質が悪いことに、彼らは、誇示するためのあらゆる努力を厭わない。非道な扱いも、非常識な行動も、卑劣な策略も、人的犠牲すら、必要経費だ。全てを、「成功のための布石」と美談にして見せる。
その美談に同意が得られないとき、はじめて形式上の謝罪をするのだ。その謝罪も、特に意味はなく、そして誰も求めていない。だからこそ、何度でも同じ過ちを繰り返すのだ。
成功する。
その言葉の前に、彼らは意図も容易く事実を湾曲させて真実を作り出す。その過程など、意味はない。過程で必要なのは、ちょっとしたドラマだ。そのドラマも、結局はその結果を証明する、成果を誇張するためのスパイスでしかない。結果だけを見て、その表層的評価を追い求めるのだ。その結果にのみ、価値があると信じて疑わない。
何か問題があっても、自分の権力を行使してもみ消し、口を封じ、時には文字通り殺す。そんな行為すらも、彼らからしたら「幸福だ」と感じる瞬間の、ちょっとした過ちでしかないのだ。
自分が一瞬幸福であるために、大勢が不幸になる。まるで、いやな社会システムのようだ。成功者が徹底的に搾取し、挑戦者の意思も機会も時には意識的に、時に不用意に奪い去る。
この非道を許すのであればこそ、彼らは真に幸福なのだろう。何故なら、相互にその不幸から目を逸らし続ければいいのだから。
だが、この非道を許可できないとき、彼はただのゴミを抱えているだけの醜いナニカでしかない。なぜなら、その小脇に抱えた幸福に、何の意味もないのだから。
だがしかし、その幸福が真に意味を成すのであれば、我々のような敗者もまた、幸福であるべきだ。搾取され、機会を奪われて、それでも幸せであると叫べるはずだ。だが、実際にはそうではない。自分の幸せを誇示して優越感に浸る人間がいるように、それに憧れを抱く人間が多くいるのだ。つまり、敗者は一生を不幸であると嘆き、生きていくしかない。
故に断言しよう
彼らのような、「比較して優秀でなければ生きていけない人間」というのは、不幸であると。
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