先日、ご飯に行った同期とまた会うことになった。恋人と別れた翌日だった。

 ちょうど舌ピを開ける日と同じだったので開けてから会いにいくことにした。


 舌ピを開ける病院は、雑居ビルに階数を分けてテナントが入っているタイプで、受付が2階となっているのに、行ってみるとエレベーターが開いてすぐに看板が立ててあった。


『この時間の受付は9階です。9階までお上がりください』


 確かに電気がついていない。そのまま『9』を押し、上へ。ミステリやサスペンスでこうして人目を避けて犯行をおこなう手口はよくある。トイレに清掃中の立て看板を立てたり、店の看板を『close』にしておいたり。


 読んでいるときは「引っ掛かるか?」と半信半疑だったが、実際に合ってみると疑うことなく上へいってしまう。もしこのとき2階で凄惨な事件が起こっていても、私は見過ごしてしまうだろう。そして事件に巻き込まれた哀れな一市民の役として警察から事情聴取を受けるのだ。


 いつからか探偵役というものに憧れを抱いている。はっきりと自覚したのは『名探偵に薔薇を』(城平京/創元推理文庫)を読んでからだ。

 本作の名探偵として登場し、名探偵としての役目を果たし、名探偵の業を背負う女探偵、瀬川みゆきが大好きだ。

 瀬川は探偵であることを望んでいるわけではない。しかし、ある事件をきっかけに名探偵であり続けることを己に課してしまった。

 探偵であることの責任、ひとりの人間としての葛藤、その両面に真っ向から向き合った作品だ。

 作中、「誰でもかまいません。誰か私に救いの手を差し伸べてください」という文が出てくる。これほど切実でうつくしい文章を私は他に知らない。ぜひその目に焼き付けていただきたい。探偵としての生き様と、瀬川みゆきの果てを。


 探偵役になれないどころか、役柄すらない私は、へどもど9階で受付を済まし、2階に戻されお金を払い、8階で施術を受けることになった。

 2階で、お金を払った後、ピアッシング位置を自分でマーキングをするのだが、手が震えた。

 これから穴を開けられる位置に自身で印をつけるというのは、爪を切る瞬間のような、髪をとく瞬間のような、不安と期待があった。綺麗になれなかったときの不安と、綺麗になることへの期待。


 受付の方に案内されて8階の施術室に入った。入れ替わりに奥から男性の医師が出てきて、挨拶もそこそこに麻酔をされた。

 この麻酔が今日で一番痛かった気がする。粘膜への痛みは恐怖に変わることを初めて知った。思わず舌を引っ込めてしまい、「もっと出してください」と注意されてしまった。


 麻酔が効くまでしばらく待機時間があった。だんだんと舌が痺れてきて、口の中が空洞になってしまったようだった。心許なさを覚えながら、手術室でしか見ないような電灯の王様を見ながら、いろいろなことを考えた。


 舌ピを開ける前と、開けた後と何かが変わるのか、とか。恋人と別れてしまって本当に悔いはないのか、いや、悔いのない選択なんて今までできたことがなかった、とか。不正解ばかりの人生なのに、人並みの幸福を願うのか、とか。同期にはなんて言おうか、とか。舌がこのまま千切れてしまわないか、とか。

 不安と期待ではち切れそうだった。


 ただ、施術は一瞬で終わった。口だけに穴が空いた薄い紙を当てられ、舌を出すと器具で固定され、よくわかないうちに、一分ほどで「お疲れ様です」と言われてしまった。

 痛みも感覚もないまま、鏡を渡されて舌を出すと銀色の丸が舌の中心についていた。この丸が少しでも私を強くしてくれないだろうかと願った。

 その後、いくつか注意事項を聞き、そのまま同期と会いに行った。歩いているうち、麻酔が取れてきたのか痺れたような痛みが舌先を重くした。


「え!? そっかあ……」

「いたそう。自分そういう内臓とか粘膜系のグロいの無理なんだよ〜」

「会うたび悲しいことに見舞われてない?」


 同期の反応はこんな感じだった。

 同情したり、面白がったりせず、あくまで他人としていてくれる距離感が心地よかった。


 この同期は今度、自分の誕生日にプロポーズするらしく、その買い物がしたいと言っていた。

 一緒に花束を買いに行き、服を見て、最後は居酒屋でつれづれ話し合った。全てが元恋人に結びついて嬉しくて、かなしかった。


 街中で入れるサウナ、新しくできる焼肉屋、居酒屋の美味しいバニラアイス、ポールスミス、花束、舌ピを開けたことを報告したかった、同期と遊んだことを共有したかった、話題がなくなったとき何を話すか語り合いたかった、Wデートで旅行に行きたかった、また肩を並べてタバコを吸いたかった、一緒に漬けた梅酒を飲みたかった、前向きな話し合いをしたかった、治るまでそばにいて欲しかった、社会復帰を見てほしかった、もう一度だけでも会いたかった。


 同期には本当に申し訳ないことをした。居酒屋に入ってからというもの、舌ピで食べづらいし、そもそも食欲がないしで、沈黙が多く、終始暗い雰囲気にしてしまった。痺れて重い舌では、食事も、楽しい話も、暗い話も、満足にできなかった。


 居酒屋を出て、同期と分かれた。


「次はたくさんお酒飲める店行こ」


 当たり前に言ってくれることが、当たり前ではないこと、私は心得ておかなくてはならない。


 舌ピは帰りの電車に乗るころには、だいぶ慣れていて、重たく痺れるような違和感はあるものの、痛みはもう感じなかった。


 どんな痛みもいずれは消える。苦しみだって同じだ。いずれ元恋人のことを綺麗に忘れて、忘れられなくても綺麗な思い出として、私は自分の人生に戻ってしまうのだ。好きな人の恋人役にすらなれない人生に。

 それが、もどかしく、かなしい。


 ピアスを開けたところで何かが変わるわけではない。でも、願わずにはいられなかった。ただの銀色の丸でしかないピアスに。

 どうかこの苦しみを後生抱えて生きていけるほど、強くなれますように、と。

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