(二)-2
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十数年前、まだ家督も継がない二十歳ごろ、東洋は家僕を斬殺するという事件を起こしている。
ささいなことから口論になり、向こうがつかみかかってきたのをとっさに抜刀して斬りつけた。家僕が驚いて逃げようとするのを追いかけとどめを刺した。
それが響いて家督相続も遅れ、出世の道からも外れることになった。
いくら優秀でも、そのような真似をしでかす男を採用するのは嫌だ。そして不吉だ。狷介で苛烈な気性の武士といえば、土佐藩の人間には深く心に食い入り、忌まわしき刻印となっている名がある。
二百年も前、土佐には野中兼山という政治家がいた。数々の改革や土木工事を敢行し、今の土佐の繁栄の基礎を築いた。
しかし強引な手法と苛酷な締め付けが災いして処方からの反発を招き失脚した。本人は失意の中間もなく病死し、残された家族は実に四十年の間幽閉されることになった。
伝聞からも意見書の行間からも伝わってくる吉田東洋の人柄は、その兼山をほうふつとさせはしまいか。いや、気性を別にすればもっと近似した立場の人物がある。
藩祖山内一豊の近い親戚でもあった兼山とことなり、東洋は馬廻という軽輩にすぎない。そのような低い出自から藩主に抜擢され、種々の改革を成し遂げた男がいる。
薩摩の調所笑左衛門。
容堂が藩主となって江戸に出た時にはすでにこの世を去っていたが、その死はいまだ前年のことであったので人々の記憶には新しかった。
斉彬の実父斉興に重用され、領民に苛斂誅求して苦しめ、斉彬の藩主就任をはばんだ奸物、やがて抜け荷の証拠をつかまれ自害。そう聞かされた。容堂が接するのは斉彬その人や、阿部正弘など同じ考えを持つ人ばかりだったからそのような印象になる。
しかし、それでもわずかずつ積み重なっていく消息を集めると、どうやら斉彬と阿部が斉興を引退させようと画策し、それを食い止めるために調所は自害したらしい。
斉興は家臣を切り捨てて我関せずを決め込むような人間ではなかった。忠臣の死に激怒し、薩摩では高崎くずれと呼ばれる悲惨な御家騒動が勃発した。
遠い薩摩のことに口出しはできないが、斉彬や阿部を偉大で高潔だと尊敬していた思いに陰りが生じたことは否定できない。それに、苛斂誅求は確かに聖人の道からは外れることだがそれによって薩摩が巨額の借金を返し、蓄えすらできたのは事実ではないか。
かといってこの一件をもって斉彬や阿部を全否定することなどできない。彼らが傑物であるのは動かしがたい事実だ。人を使う、国を治めるというのはきれいごとでは済まないのだ。容堂は一つの答えを出した。
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