おしまい

義兄あねがあの下冷泉霧香を泣かせたと聞きました。新年早々中々幸先がいいですね。ナイスですよ義兄あね


「その発言は余りにも最低が過ぎるよ茉奈」


 もうすっかり慣れてしまった義妹とのやり取りを高等部2年での教室でする僕は今朝起こった事を話していると、茉奈はまるで自分の事のようにニンマリと悪そうな笑みを浮かべながら反応してくれた。


 冬休み明けの始業式での理事長代理としての挨拶を終えた以上、今日の予定はこれと言って特にはなく、多くの生徒たちは我先にと言わんばかりに下校している最中、僕と茉奈は教室の中で駄弁っていた。


「いやいや、笑うなと言われてもそれは流石に無理がありますよ義兄あね。だって、あの下冷泉霧香ですよ? どんな時でもあの不敵な笑みを浮かべてはどんな精神的ダメージでもシャットダウンしてしまうラスボスこと下冷泉霧香に一泡を吹かせてやったんですよ? そんなの嬉しさの余りにほくそ笑むに決まっているじゃないですか!」


「茉奈は相変わらず下冷泉先輩が嫌いだよね。もう少しで先輩も卒業するんだから、少しぐらいは仲良くしてもいいんじゃないの?」


「は? わか姉を寝取った女と仲良くする道理はないんですけど?」


「そう言いながら、先月の12月、下冷泉先輩と一緒にスイーツバイキングに行ってきたんじゃなかったけ」


「ふ、いいですか義兄あね。年長者の奢りで食べるお菓子は美味しいと相場が決まっています。いやー。本当は嫌だったんですけどねー? ですが無料よりも高いモノは無いって言いますしー?」


「あ、この前に下冷泉先輩からめっちゃ笑顔の茉奈の写真が送られてきたんだけど見る?」


「なァに勝手に盗撮しているんですかあの変態ァ⁉ うわぁ⁉ 滅茶苦茶良い笑顔してるじゃないですか私ァ⁉ 消して! 消しなさい! 今すぐに消しなさいそんな捏造編集写真!」


 怒髪冠を衝くと言わんばかりに激昂する僕の義妹は頑なに笑顔の写真の存在を否定するが、僕から言わせれば意外な事に茉奈と下冷泉霧香の相性は案外とてもいいのである。


「別にいいけど……じゃあ、この前やった寮内人生ゲーム大会で茉奈が発言してしまったっていう音声データはどうする? 涙目で涙声で無理やりに言わされた茉奈が可愛くて思わずデータに残しちゃって。どうする? 拡散する?」


「ちょっ⁉ そんなの今の時間帯に流さないで……⁉ あー! やめてー! やーめーてー! 私はあんなのをお姉様って言ってなーいー! 言わされたんですー! 義兄あねと結婚しようと目論む私の邪魔ばっかりして、ようやく義兄あねと結婚出来ると思った矢先にヤツが義兄あねと結婚しやがったから強制的に言わされたんですー! 全ッ然、あんなのを姉だなんて私は認めてませんからねー⁉」


 思えば、百合園女学園に入学する前は僕は基本的に茉奈にだったというのに、いつのまにやら僕は茉奈でになっていた。


 一体全体、それはどうしてなのだろうと考えて……十中八九、ここでの生活の影響に違いないなと内心で省みる。


 思えば、以前の僕はくよくようだうだとした性格だったのだが、下冷泉霧香に感化されたからなのか、あるいはこの女学園に女装しながら通学したからなのか、僕の心臓にはそれはもう毛がぼうぼうと生えていたのであった。


 本来であれば、こんな事で自信なんてつけたくはないのだけれども、それでも僕自身は今の自分がそこまで嫌いではないと思うのだ。


「……うぅ、私の義兄あねが何か下冷泉霧香みたいになってきている……。やだ……。生理的になんかやだ……」


「酷くない?」


「妥当だと思いますけど……あ、生理的にという単語で思い出しましたけ、義兄あねは今日の昼から病院に行く予定が入っているんじゃありませんでしたっけ?」


「うん。というか、わざわざ病院に行く必要なんてあるのかなぁ。インフルエンザのワクチンでしょ? 普通、11月や12月にワクチンを打って1月や2月に備えるべきなんじゃないのかなぁ」


「打つ打たないだったら打っておいた方が絶対にいいですよ。ましてや理事長代理の仕事で忙しくて、病院の予約を取るのにも一苦労したんですよこっちは」


「それは本当にごめん」


 理事長代理の仕事の所為でずらりと並んだ予定に穴を開ける訳にもいかず、更には学生の本業をも両立させないといけない環境にあり、更に付け加えるのであれば女装がバレないようにする為に裏を回したりだとか、色々な事をしていたが為に僕は僕自身の身体の為にやるべき事をついつい後回しにしてしまっていた。


 というのも、当然ながら医療施設を利用する際には僕は男性の姿を曝け出さないといけない訳であり、東京都内からかなり離れた場所の病院を利用する手筈となっている。


 理由は当然ながら、僕の姿を万が一にも百合園女学園の生徒に見られないようにする為だ。


 良くも悪くも、ここはお嬢様学園であるのでお医者さんの娘だとかそういう立ち場の女子生徒がおり、行くべき病院は選別する必要に迫られたという背景もある事はある。


 もちろん、ワクチン接種に行かないという選択肢は当然あるけれども、家族である茉奈や和奏姉さんに流行病を患わせたりだなんて論外だし、今年から受験に挑む下冷泉先輩に邪魔をしたくないというのも本音だったりするのだ。


「はい、という訳で義兄あねはここで駄弁っている暇なんてありません。さっさと埼玉県に行ってくださいね」


「うん。一旦、寮に帰って健康保険証を取ってくるね」


「健康保険証? 何で携帯してないんですか……って、あー。アレってそう言えば書いているんでしたっけ性別アレ。そう考えたら携帯できませんね、うん、義兄あねがしっかりしていて義妹嬉しいですね。それじゃあ行ってらっしゃい、お土産は絶対に忘れないでくださいね」


 義妹との楽しい昼下がりでの会話を終えた僕は手荷物をまとめて、学校付近にある女子寮に一旦戻ろうと歩を進める。


 まだまだ女子学生たちの喧騒が耳に入ってくるので、油断は当然出来ないけれども、それでも以前……4月ぐらいにあったようなお嬢様による一方的な襲撃の頻度はかなり減った。


 そう考えるのであれば、下冷泉先輩が設立してくれたファンクラブというものは非常に素晴らしい功績を出していると言っても過言ではないだろう。


 だが、だとしてもそれが油断して良いという理由にはならない。


 背後からの襲撃や周辺からの奇襲にも対応できるように、僕は周辺に気を配りつつ、寮への帰路に就く。


 「……ただいま」


 女子寮の中から返事はやってこない。

 それは当然と言えば当然の事であり、茉奈はまだ学校でのんびりしているし、和奏姉さんは学校で教職員としての職務に励んでいる訳なのだから。


「……下冷泉先輩は今日も塾か。ほんと、そういう所は真面目だよね」


 下冷泉先輩は常日頃から暇さえあれば性的な冗談を口にするものの、欠かさずそういう習い事だとかを欠席するような人では無かった。


 その一点に関しては僕も彼女を見習うべきだろう……茉奈にそんな事を口にでもすればすぐに頭の病院に連行されてしまいそうなのだけど。


 そんな他愛のない事を考えながら、僕は一旦自室に戻って病院に行く為の準備を進める。


 今回は一旦百合園の邸に戻ってから男性服に着替え、それから駅に乗り込んで埼玉県に行く手筈となっている。


 もちろん、女装したまま埼玉に行くのも手かもしれないが、それはそれで色々と複雑なので却下。


「さて、鍵を開けて……っと。健康保険証、健康保険証……」


 今朝、下冷泉霧香にレシピ帳を渡してからまた開けた鍵付きの引き出しの中を開けた僕は表沙汰には絶対に出来ない個人情報がたくさん詰まった資料の中から保険証を探し出す。























 無い。

 健康保険証が、無い。























 嘘だ、と勝手に口から漏れているのにも気づかないまま、僕はまるで空き巣をする人間のように引き出しの中をもう一度探してみる。


 これはどうした事かと自問自答してみるけれど、無いものは無い。


 あり得ないとは承知だけれども他の引き出しや鞄の中を漁ってみるものの、性別がしっかりと記載されている個人情報をそんな場所に入れておく必要なんて絶対にない。


「……え、あ、え……?」


 心臓はどくんどくんと加速度的に脈動する一方で、身体がどうしようもないぐらいに凍えていく。


 僕の名前で、僕の性別が記載されているだなんていう弱点が僕の知らないどこかにある……そう考えただけでも、本当にどうすれば良いのかが分からなくなってしまう。


 落ち着いて、無理やりに落ち着かせる為にも、僕は深呼吸を何度もして、落ち着いてもいないのに落ち着かせたと納得させて、もう1回だけ引き出しの中を探す。


 もう1回だけと言っておきながら、その試行回数は段々増えていく一方で、最終的に10回ぐらいは引き出しの中を空にして探したものの、結果は芳しくない。


 中にある引き出しの内容は、今朝目にしたのとさほど変わっていない。

 変わったものがあるとするならば、今朝、彼女に渡したレシピ帳が無いぐらいで――。


「――あ」


 レシピ帳。

 そう、レシピ帳。


 考えたくはないけれども、本当に考えたくなんかしないけれども……という可能性は?


「……っ⁉」


 そして、あの時に下冷泉先輩がいきなり泣き出した理由。


 あれがもし嬉し涙ではなく……僕が男性であるという証拠である健康保険証を偶々目にしまって、気が動転したが為に泣き出したとしたら?


 もし、そうだとすれば、それは僕が女性であると信じていた下冷泉霧香への信頼を裏切りに他ならず、あの時の彼女が流した涙は嬉し涙ではなく、親愛なる人間に裏切られてしまったという涙だったのならば?


「……あ、あ、あ……⁉」


 いや、それは憶測だ。

 健康保険証が挟まっていたらという仮定から成り立つものだ。


 まだ、決まっていない。

 まだ、下冷泉先輩が僕が男だと知ったとは限らない。


 であるのであれば、僕の取るべき行動は1つ……今、この寮に誰もいないこの瞬間に、に入って確認する。


「……っ!」


 そう決心した僕は寮監という立場を利用して、マスターキーとも呼ぶべき鍵を手元に用意して、女子寮を利用する下冷泉霧香の部屋の前に立ち、ノックをする。


 当然ながら、反応はない。


 僕は内心で何度も謝りながら、下冷泉霧香の部屋に入り込む。

 インテリアだとか、そんなものに反応している暇はない僕は今朝彼女に渡したレシピ帳がどこにあるかどうかを血眼になって探し――それは彼女が利用しているのであろう机の上に、レシピ帳があった。


 そして、そのレシピ帳の上に重石代わりの分厚い書物……何だろう、日記帳? ご丁寧に英語で日記帳を意味する『Diary』と銘打ってある市販のモノを上から乗せていた。


 取り敢えず、僕はその書物をどかし、下にあったレシピ帳のページを捲る。


 最低最悪な事に僕の性別が記載された健康保険証が見つかってしまった。


「……終わった……」


 いや、失敗はこの際、仕方ない。

 問題はこれから。


 一番最善なのは、彼女がまだこのレシピ帳をくまなく見ていなくて、健康保険証を見つけていないという事実に縋ること。


 可能性としては、ありえるかもしれない。


 だって、もしも僕の性別がバレたとしたら、普通の人間であればすぐに問い詰めるだろうし、仮に僕の立ち場だったとしてもきっと同じ事をする。


「……だけど……」


 だけど、頭の中に『だけど』で溢れかえって、都合の良い救済を求めている。


 決定的な証拠を知りたい。

 決定的に彼女が僕の性別を知っているかどうかを知りたい。


 そんな時に、僕の目に入ったのは日記帳だった。


 人の日記帳を見るのは最低だ。

 だが、自分の安全と、他人のプライバシーを秤にかけた結果、僕は彼女の日記帳を見る事にしてしまったのだ。
























━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━




 3月


 百合園女学園のパンフレットにあの人の写真が載っていた。


 まさか、とは思ったけれども見間違う筈が無かった。


 彼の顔には、あの時の面影が残っている。


 そして、何よりもあの銀の髪と紅の瞳を間違う筈もない。

 

 確かにあの人は昔から女顔ではあったけれども、だからと言って、女学園に入学するだなんて馬鹿げている。


 こんなのは彼への尊厳を滅茶苦茶にする、最低過ぎる行いだ。

 恐らくは先月に亡くなられた百合園家の総裁の思惑だろう。


 いや、もしかすると彼自身が入学を望んだ?

 可能性としてはあるけれども、有り得ない。

 そんな事は地面が裂けても有り得ない。


 あの人は絶対にそんな事をしない。

 人を傷つけるような事を、それも女性を傷つけるようなことは絶対にしない。


 なら、私に出来る事はたった1つ。


 私が、彼を守る。


 同じ孤児院で一緒に暮らして、お互いに両親がいなかったというのに、私に美味しいティラミスをいつも作ってくれて、優しくて、今でも大好きで大切な彼の為に何だってやってやる。


 大好きなあの人の女装がバレてしまったら、あの人は社会的に死んでしまう。


 であるのなら、あの人を社会的に死なせなければいいだけの話。


 まずは今通っている学校を辞めて、百合園女学園に編入する。


 例え、百合園女学園の女子生徒全員を敵に回しても。

 下冷泉家を敵に回しても。

 世界を全て敵に回しても。

 あの人自身に敵であると判断されても。

 

 どんな手を使ってでも、今でも大好きで大切な彼を殺すだなんて絶対にさせるものですか。

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