第12話 影


 船の消火は終わったが、ジャスミンはまだ泣いていた。


「ジャスミン、君のせいではないよ。火矢のせいだってわかったんだ」と、ヴィレムは慰めていた。

 工場の工員たちも、「そうだ。お前のせいじゃない」と相槌を付いている。


「わ、わ、わかったよ」と、言いながらも、まだ、ジャスミンは坐り込んでいる。


「工場長、今日は、我々が交代で泊まり込みます。一夜に二度も襲撃でもされたら、笑い者ですからね」

「すまない。クリフォード」


 それを聞いたフィリップス支店長は、ドキリとさせられた。


 笑い者……


 そう、ティーレースをキャンセルすれば、それを公表され、そんな臆病者に仕事の依頼をするものはいなくなるかもしれない。


 今、イギリスの海運業は乗りに乗っている。

 だが!

 このティーレースをイギリスは、悠長に賭けにして楽しんでいるが、今、エジプトの砂漠に運河を建設しているのは、フランスと地元のエジプトだ。

 それが完成すれば、もう喜望峰周りの航路は必要なくなるのではないか?


 否!


 帆船は運河を通れない。

 高速で外海を航行できる帆船は通れない。

 では、あの遅い蒸気船が通るのだろうか?


 運河は通行できても外海での速度は遅い。


 だからだ!


 これからの海運業は、どうなるかわからないターニングポイントが、もうすぐ来るのだ。


 スエズ運河の開通する1869年まで、あと僅かしかない。

 その時、我が商会は……


「支店長、今日は宿に帰りましょう」と、ヴィレムが支店長に声をかけた。

「おぉ、そうだな。船長たちも帰ろう」

「分かりました」と、アインス商会の面々は宿に帰ることにした。


 翌朝、明るくなり、改めて船の状態を見てみると、竜骨の一部が炭になっていた。

「たったこれだけのために、出来上がったものを一度解体するのか……」と、誰もがため息交じりになっていた。


 彼らは何を言っているのだろうか?


 船の竜骨は、今と違い、一本の木材で作られていた。

 つまり、その一部でも焦げて欠損すれば、その船は解体せざる得ないのだ。

 そして、竜骨になる木材を調達するところから始めないといけない。

 費用も、時間も、足らない。


「ハインリッヒ船長、本店のあるラインラントまで行ってくれないか。資金も救援も頼むと」

「支店長、それは良いのですか。会長からの信頼を失いかねませんよ」

「どうせ、このレースに失敗すれば同じこと。だからだ。船長、ヴィレムを連れて行け。これが我々の切り札だ」

「……う、それは……ちょっと、あれなんでは」

「あぁ、わかっているが卑怯というなら、甘んじて受けよう。私が」


 さて、アインス商会の会長にとって、ヴィレムにどのような価値があるのだろうか。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る