6 ある二条家の午後
《1933/02/28―東京府牛込区市谷地区》
しとしとと降りしきる雨の中に、立ち込める霧で果ての見えない砂利道が続く。
今は二月下旬、紫陽花も蛙の声もあろうはずがない。寒いだけの長雨となれば、風情も何もあったものではないな――そうぼやきながら、奏彌はひとつの門の前で足を止めた。
高さは目算で八メートル超。大きな鉄の留め金は錆び、そこかしこが剥げた黒い塗装と合わせて、その年季の古さを物語っている。
禊と別れて二十分ほど歩いた末に辿り着いたのは、市ヶ谷に居を構える大邸宅。武家屋敷の面影を強く残し、表札には『二条』の文字が墨ではっきりと描かれている。近付くもの悉くを威圧するかのような空気を放つここは、今の奏彌にとっての帰る場所だ。
十年前。炎の海を彷徨う幼い奏彌は、一人の男に命を救われた。
男は奏彌の前に現れた怪異を鏖殺し、たちどころに奏彌の傷を治癒してしまった。それも決して奇跡などではなく、この程度のことは呼吸と大差ないとでも言わんばかりに、あっさりと。
後は一人でどうにかしろと残して去ろうとする男にしがみつき、奏彌は希った。
「お願いします。僕に、あいつらを殺す力を……ください!」
それは、幼少期故の全能感からくるものだった。自分に力があれば、親を奪われずに済んだかもしれない。これまでの生活を守ることができて、そして何より、この未曾有の大災害を防げたかもしれない。
実際には、そのような確証など何一つ存在しないのに。この時の奏彌は、己を苛む不幸の原因を一心に背負う気でいた。
「僕からぜんぶ奪っていった……もう、嫌なんです!」
男は呆れつつ、渋々奏彌の願いを受け入れた。それが優しさからくるものなのか、両眼に憎悪の炎を滾らせる奏彌に気圧されたからなのかは、今となっては判然としない。
ただひとつ、確実なことがあるとするならば。その日以来奏彌は、男から教わった鬼籠を用いて、街に出没する超常を殺し続けている――それだけだ。
ふと横に目を遣ると、ヒトの頭ほどの火球が宙を漂っている。
「ただいま。いつもご苦労さん」
屋敷の警護を任された使い魔の類だ。奏彌が軽く手を振ると、火球の放つ光が増す。更に全身を小刻みに震わせて、奏彌の胸元に飛び込んだ。
それは鬼火や人魂などと呼ばれる霊的存在で、ぼんやりと温かい。奏彌が実体のないそれを撫で回すと、どこからともなく、無数の火球がぞろぞろとやってくる。
奏彌は、まるで「自分にもやれ」とばかりに擦り寄る火球たちを手で追い払う。
「こらお前達、持ち場に戻れって」
付近を歩く近隣の住人が、微笑ましそうな顔で通り過ぎてゆく。あれはどこそこの小間使いの誰々だったか、奏彌は火球に包まれながら会釈を交わす。人魂は薄気味悪いものとして語られることが多いが、こと二条家の周囲では、無害な野良猫程度の認識が定着していた。
「悪いけど、今は全員相手にしてやる余裕ないんだ」
そう言って微笑むと、火球たちは名残惜しそうに去ってゆく。彼に抱えられた火球が大きく震え、門の隣から鍵の開く音が鳴り響いた。
「また今度遊んでやるからな……お」
鍵の開いた潜戸を通って敷地に入ると、そこには紅の和傘を差した男が一人。
「おかえり、奏彌。今日も無事でよかった」
藍染の木綿浴衣を纏った彼は、大きな丸縁の眼鏡の裏に、翡翠色の穏やかな瞳を宿している。白髪の交じった赤い癖毛を腰まで伸ばした彼は、奏彌に向けて穏やかな微笑を浮かべた。
「鼎さん……何してる?」
二条
炎の中で奏彌を拾い、境界人として師を務め、そして戸籍上の父でもある男。
「……そろそろ見納めなんだ」
鼎は傍に並んだ椿の花を見下ろす。門から玄関に至る石畳の左右には、樹高の低い椿の木がずらりと並んでいる。
彼らは寒さをものともせずに、青々と葉を茂らせる。そして鼎の足元には、深紅の花弁がいくつも落ちていた。
「もうじき三月だからな。前々から気になっていたんだが、なぜ椿なんだ?」
武家屋敷に椿―不吉この上ない。武家ではないにしても、超常と命の遣り取りをする二条家にとって、やはり椿は似つかわしくないのではないか。それを尋ねる奏彌だったが、鼎は僅かな沈黙の後、どこか寂寥感を感じさせる口振りで返した。
「……いや、特に。戻ろう。お風呂、沸かしてあるよ」
〇
風呂から上がった奏彌は、鼎の私室にやってきた。
そこかしこに書籍がうず高く積まれた、八畳の和室に一筋の湯気。畳の中央に鎮座した火鉢には鉄瓶がひとつ、注ぎ口からふつふつと蒸気を吐き出している。
「しかし酷い雨だね、これまた珍しい。冷えたでしょ?」
「ああ。今日の仕事は……まあ、取るに足らない雑魚だった。あんたに言われた通りだ」
「だろうね。東征に敗れた旧き神の残滓、その更に成れの果て。東国らしい怪異だが、あのようなものに手こずるようでは、僕の息子とは言えないな」
頭を拭く奏彌に、火鉢を挟んで座る鼎は満足気な表情を投げ掛ける。齢三十七のこの男は、まだまだ人生も中盤に差し掛かったばかり。だというのに彼は、既に一生分の時を積み上げたかの如き鷹揚さを奏彌に見せる。
「最近の君は、まあ、それなりにやれてるね。下手な分家の連中よりも出力は高い。あとは実戦の経験をもっと積めたなら……」
鼎が当主を務める二条家は、超常を擁する境界人の家系。遠く五摂家の血を引き、ある者は超常と戦い、またある者は戦地に赴くことで、その名を天下に知らしめてきた。
その力はまさしく天変地異そのもの。鼎や分家の当主ともなると、陸であれば旅団規模、海であれば一等巡洋艦と同等の価値を持つと言われる。
「あと十年もすれば、経験の面でも僕に追い付ける。無理せず頑張り給えよ」
「お陰で僕は、あんたが他所で落とした種ということにされてるらしいな」
「は……そんな訳ないのは、君が一番知ってるだろ?」
全くその通りだが、しかし鼎の笑いはどこかぎこちない。
「面倒な話は一旦忘れよう。それより……」
翡翠の瞳が、白熱電球の光を受けてぎらりと輝く。二人の間に漂う空気が凍り付き、それまでの浮かれた雰囲気が一瞬にして拭い去られてしまった。
「あの扶桑を名乗る女、危なかったね。禊が止めなければ、あのまま殺されていただろう」
女のことも、禊のことも。まるでその場にいたかのような自然さで。
「お見通しか。橘、炎を操る境界人……何か知ってるのか?」
鼎は答えない。瞬き一つせず腕を組み、ただひたすらに押し黙る。
その反応を前に、奏彌はひとつ確信を得た。
「――知ってるんだな」
知らぬのならば否定すればよい。沈黙は肯定と同義である。
「……ああ」
「彼女が追う、偽窮者とか言う敵のこともか?」
「……ああ。存在だけは」
奏彌は両手の拳を固く握り締めて、死体が運び出されてゆく光景を思い出す。全員が大人だった。そのうち一体どれほどが、人の親だったのだろう。
奏彌は死人の数と同じだけ、親を失った子供―つまり、かつての自分―を生み出してしまったことになる。
「そいつのせいで沢山死んだ。あんな超常を生かしてはおけないし、僕みたいなやつもこれ以上生みたくない。だから……」
「だから、禊の手伝いがしたいのか」
不意に言葉を遮る鼎。奏彌の考えは、やはりその全てを見透かされていた。
「一言一句その通りだ。……やはり見ていたな?」
「ごめんね、気になってさ。親が子の安否に気を揉むのは自然なことだろ?」
実父よりも長い期間を共に過ごした男は顔を上げ、奏彌の肩をぽんと叩く。
物柔らかな翡翠色の視線が、まっすぐ奏彌の瞳に注がれる。すると二人の間に漂っていた、張り詰めた空気が霧散した。
「君の超常駆除だって、本来は僕がやらなきゃいけないやつなんだ。任せときな」
「……承知した。悪いな、僕の我儘を聞いてくれて」
「僕の仕事を代わりにやりたいなんて言い出した昔の君の方が、よほど我儘だったからね……何度死にかけたことか」
了承を貰った奏彌は立ち上がる。踵を返して襖に手を掛け、一歩廊下に踏み出した時……
「――一つだけ」
去り行く奏彌の背に向けて、鼎がぼそりと呟いた。
「禊を頼む。僕にとって、とても大切な人の娘なんだ」
思わず奏彌は振り返る。どうしてかは分からない。しかし彼の視界に映る鼎の姿は、ひどく小さく、泣き震える童のようだった。
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